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【便衣は股引】渭苹狂人識【食は卵味噌】 苹@泥酔 - 2008/09/22(Mon)23:48 No.7124
 「学術狂人」はまだしも、「国粋狂犬」は数倍ひどくなっちまった様な(苦笑)。どのみち「狂」が引っ掛かる…と書いて思い付いたのが「学術民兵」に「学術便衣兵」…(汗)。
 込み入った話になると、あたしゃ荒間様には到底及ばない。新田女系ネタは2chに波及した様なんで、天バカ板に昨夜ちょいと追記して置きました。
 以下は竹林板No.4919の話題。
http://image.blog.livedoor.jp/esazurishi/imgs/2/5/257f71fe.jpg
http://masaokato.jp/wp-content/uploads/image/img_history60_01.jpg
http://www.china7.jp/geditor/data/0806/64e14874-bddb-43e5-86f8-799032d58ffe.jpg
http://lh4.ggpht.com/_Cbe6eXe2how/RrQ7CNLDORI/AAAAAAAAC1k/8D3qDYoiNgA/IMGP5134.JPG
 ググってみたところ、上記画像はありましたが趙州橋のは未見。
 御承知の通り日本の新字体や中国の簡体字は、欧文化の動き、活字優位の環境、国語普及政策との絡みで制定された実用字体にて、毛筆書字の場合は当初から皆「澤」の方で書いてた模様。少なくとも今井『〜Ⅱ』前掲稿の頃はそうだったみたい(P.145)。でも〜その後はどうなったのかしら。
 日本は新字体優位で、旧字体と書字の追放教育に精勤した結果、書道自体が国語教育上の矛盾丸抱えで孤立した代わり旧字体・書写体は閉鎖的に細々残存。〜しかるにアチラの場合、簡体字と繁体字の混淆を笑った人達がもしも簡体字優位派なら、日本の国語教員と同じ傾向があるって事になるのでは。因みに于右任が標準草書を試みたのは簡体字制定の二昔ほど前…草書由来の簡体字が繁体字との脈絡を失うのも無理はない?
 江主席自署の「民」字は、どの画像を見ても三画目収筆部の弱さが気に懸かります。「十字」部分てぇのは末二画の交叉の事かしら。楷書基準で見れば貧相だけど、草書基準ならそうでもない様な。(「澤」は黄庭堅や文徴明の影響か…沈周ほど堅苦しくはない…)

 次は荒間様の「信仰・信心」話だけど、これも考えさせられますわなあ…。
 No.7123の区分で云うなら、私のイメージは明らかに「信心」寄りでござんす。新田先生が信仰とか祈りとか書いてるのを見る度に辛気臭さを覚えるのは、申し訳ないけど多分「そのせい」でっしゃろな(苦笑)。
 見方によっては、日本基準の「信仰」観が耶蘇教や回教のイメージに「制圧されたせい」とも取れる。喩えるなら、「芸術」って言葉が今では西洋基準の意味になっちまった様に。…で、取り敢えず『日本国語大辞典』も見ましたが、どちらかと云えば「信心」の方が仏教臭くて浄土教の気配ムンムン。加護を願って南無阿弥陀。
 私がイメージするニュアンスは吉幾三の「オラこんな村イヤだ」辺りになるのかも。…歌詞に曰く、「数珠を握って空おがむ」と。みな田舎で懸命に生きてるけど、都会からの恩恵を願ってばかり居る訳ではない。自律と信仰と信心は対立せず、雲の上(?)のシャーマンは「会った事もないのに」それなりになんとなく尊い。都会と云えば京の都、そして天子様。漠然としたイメージがごっちゃになって、「みやこびと」とは捉え方が自ずと異なれども丼勘定なら味噌も糞も一緒。(なんぼなんでも喩えが悪いか…でもその方が田舎には向いてる…コヤシを撒かねば畑は痩せる…糞と味噌との輪廻転生…)
うぇっぶ論考() 荒間 宗太郎 - 2008/09/21(Sun)21:24 No.7123
一昨年ここに書いたものだけど再掲

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信心と信仰心 /2006/07/09 16:20 /No.4451

信心と信仰心は同じ意味の言葉として使われることが多いようだが、ワシは全く異なるものだと思う。

鰯の頭も信心から
信心とは一言で言えば自律の心と言うことになる。自分で自分を律すること、それが出来る場合の心が信心となって現れる。お天道様が見ているよ、と言われてハッとすることが出来るのは自己に律する心が喚起されるからだ。元々自己を律する心が無いのであれば、何言ってるんだいと言い返して何も感じないだろう。感じるのは心の琴線であり、それは自己を律する心に他ならない。

神に誓って、仏の心を
対して、信仰心とは自己を律する心の弱さを神もしくは仏という超越物にそれを求め、神が言われるのだから何々となければならないと他者の規律をもって自己を自制すると言うことになる。宗教とは常に超越するものを必要とする。

法治主義
この他者(超越物)の軌範で社会を律するために立法というものが発明された。つまり、法律とは神もしくは仏を地上まで降ろして(少数の)人間が(多数の)人間を律するためにものと言うことになる。この背景をより強固にするために、民主主義というものが発明されている。


遠く、いにしえの我が国においては、信心が国の文化を覆い、そこに超越物は必要なかった、超越物もまた人々と共に暮らす空気であった。我が国の神は人々と共に暮らし死して黄泉に行き黄泉帰りそしてまた神となった。
中原(現在の中共の範図に位置するところ)よりもたらされた立法の概念が、その時ほぼ同時にもたらされた宗教と共に、信心が信仰心と混用され昇華されいつしか同じ意味のものとなった。
だから、我が国以外での宗教と我が国の宗教とは異なる部分が多々あり、神の概念すら異なり別の単語として使わなければならない。


信心コントラ信仰心(共産主義も一種だもの)ならあり得る。自律か他律かが人間社会の根底にはある。我が国の基本は自律にある。そこが韓半島の国や中共や欧米(イスラムを含む)とは全く異なる理念で動く文化なのだ。
泥沼紛争のまっただ中で自律を失うことなく行動できた者のみが目覚めたのだ。

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ということで、我が国の天皇へのそれは信仰ではないと思うけどな。天皇は国と民のために祈り、民は天皇と国のために祈る、それってどちらも自律があるのだから信仰ではないでしょ。
保守狂犬…。ウン! キルドンム - 2008/09/21(Sun)21:02 No.7122
 今、題名のところをうっかり「ワン!」と打ちかけたが…(汗)。「学術狂人」というのは最近よく見かけるけど、それにもまさるすごい称号を頂戴したみたいで、いや、冗談抜きで多謝。もっとも、自分では保守主義者というより民族主義者という方がより的確かなとも思っているので、「国粋狂犬」というのも悪くはないかな…と沈思黙考^^;
 新田さんの件だけど、女系天皇容認とかご都合主義とかという以前に、もっと基本的な点が抜けているように見える。つまり、天照大神の「血統」といっている時点でもう無茶苦茶だということ。
 これが天照大神の「子孫」というなら何も問題はないのだ(「天壌無窮の神勅」ね)。ところが折角『書紀』や『神皇正統記』を引いておきながら勝手に言葉を書き換えているのだから話にならない。「ニニギノミコト(あるいはその父親のアメノオシホミミノミコト)は天照大神のDNAを受け継いでいる」とは如何なる異端の書物に拠っているのか、それを新田さんは明らかにすべきだったと思う。そうしないと「まともに神話を読んだことがない人物である」との誤解をこうむっても仕方がないのではなかろうか。いうまでもなく、オシホミミたちはもともとスサノオノミコトの「子」として化生したのを、天照さまが引き取られた訳ね。だから「子孫」とはいえても「血統」ということはできない筈。
 さらにいえば、『神皇正統記』を頑張って引いておられたようだが(あいにく、虚心坦懐に読むと西尾説の擁護としか思えなかったが、それを以て西尾批判としているのも不思議といえば不思議)、同書に何と書いてありましたか、天照さまは地神の初代、ニニギさまはその三代目で、神武天皇が人皇の初代となっているのでは。天照さま(オオヒルメムチとの関係があってややこしいところだけど)が男神だろうが女神だろうが事の本質にはかかわらない、神武天皇の血統と書くべきだったのです(男系であれば誰でもよいというものではない。これについては既述)。「天壌無窮の神勅」については、それがなされた時・場所をよくよく考慮した上で解釈すべきこと。
 ああそれに、新田さんはグレー・ゾーンだけど、八木さんについては事実上女系容認論者であるばかりか、易姓革命容認論者でもあるという風にみなされている向きもあるのですが(中島英迪『皇位継承を考える』)、もしその見方があたっているならば、少なくとも堂々と女系論を掲げている方々(同意はできないけれど)に比して、卑怯とはいえないでしょうか?
 とはいえ、「『だから新田(八木)はダメだ、偽者だ』というだけでは何も解決しない」ことも事実(笑)。
事の本質について 荒間 宗太郎 - 2008/09/21(Sun)16:13 No.7121
「ググってみたら新田均先生と田中卓先生との間に女系論争があったそうだけど」というのは見聞きしてるけど、どうなのかなぅと言う感想がある。
今回(に限り?)新田さんは田中さんの論説をふまえて西尾批判をしているので尚更なのかもしれないが、一歩間違えば女系天皇論に与する理屈立てになっている。
批判すべき相手と批判対象のところを、「西尾説ではなく西尾個人」とし「放蕩雅子ではなく皇太子殿下」としている。そこが間違い。
西尾説批判をするべきだし、批判の前面は放蕩雅子でありその放蕩ぶりを容認している旦那(悪いことにそれが皇太子浩宮)が批判されている。
雅子批判をしつつ皇太子擁護をするのなら理解はできる(賛成しないけど)、けれども雅子批判をしないで皇太子擁護では理解はできないし(西尾説に賛意を示した読者たち)だれからも理解され得ないと思う。
それと、個人的にどうであれ西尾説批判であるべきで彼の個人性向(どんな思想を持っていたか、何十年も神は死んだというニーチェお馬鹿説に傾倒していたとか)まで言うべきじゃない、個人批判をしているというのならそれはそれで良いけど、それなら大上段に天照大神まで出す必要がない。
個人批判をするなと行っているのではない、論説批判(船主は誰か船長と乗客は誰かとか言う思想)と個人批判(神はいるだろ!フツー、それを死んだとはお前は馬鹿か?)とは区別して行うべきだと言っているのね。
だから、今回は新田さんとは思えない論説だなぅと思いブログに二回ほど書いたのね。
「ふざけるな」「ふざけてます」 苹@泥酔 - 2008/09/20(Sat)20:15 No.7120
●文人の相手
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080920/acd0809200258000-n1.htm
 今日の産経コラム(↑)みたいにハッキリふざけてるのが分かると、却って奇妙な清々しさを覚えるから不思議なもんだ。私も見習いたいが明らかに修行が足りない。…例えば「保守派の鬼神」だと仰々しい。かと云って「保守派の貴紳」では紳士的に過ぎてスパイ映画の出来損ないみたい。「保守の論客」は余りに平凡。んでもって後続のキャッチコピー(?)を優先したら、表現に「暴力でぶ」みたいなインパクトが欲しくなった。…で結局、前稿は「保守の狂犬」と相成った(苦笑)。
 ここんとこ竹林板を楽しみにしている。中国の学会ってのは挨拶が多いんだな。でもまさか私が予想した事態はなかろうて。…と書いたら、ちと不安になってきた。今どき、ないよね。「席上揮毫も挨拶のうち」なんて事は。(小泉首相が蛇蝎の如く嫌われる前、訪中時にテレビカメラの前で揮毫してたのが気になるけど。)
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> 京都が終ると関西の全日程が終るので、関西の訪中経験者が集ってお別れの宴をはることにした。場所は祗園の万亭。色々挨拶の中で、王先生は一詩を賦され、別れを惜しまれた。
>  雖云暫別明朝別 知可重逢何日逢 不尽依々一杯酒 主賓情誼兼千重
> 嵐山に遊んだ時、昼食した対嵐房で、窓から嵐山をながめながら、王先生はしきりに口の中で何かつぶやいておられた。香川先生はあれは先生が詩を作っておられるのだ、と言っておられたが、あの時出来たのが、この詩なのかも知れない。
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 ↑は今井凌雪『書を志す人へⅡ』(二玄社)P.152、初出は『書品』151号(昭和39.6)。

●老人と若手
 荒間様の観点は興味深い。ググってみたら新田均先生と田中卓先生との間に女系論争があったそうだけど、あたしゃそっち方面は疎くて、とんと記憶にない(汗)。…こうなると「ふざけたくても、ふざけようがない」。
 てな訳で仕方がない。以下、私なりに真面目に(?)ふざけてみる。
 先ずは、おまけ画像から(↓)。
http://www.shodo.co.jp/tenrai/photo/book-photo/195_03.jpg
 新田先生の文格を見て思い出した訳じゃないけど、話の種に一つ(↓)。
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> 西川氏は、昭和十年六月上野公園の府美術館における梧竹遺墨展に出品した梧竹の神品十二カ月十二幅の中に、正一位稲荷大明神の幅には敬書と書いて、天照皇太神の幅には、ただ梧竹という号のみ款し、大きな印をべたりと押していたのは不敬極まるといわれても仕方がないということを堂々論じて居られる。驚き入った妄論である。
> 十二カ月の書幅(一月天照皇太神、二月正一位稲荷大明神、三月春色満皇都、四月天上天下唯我独尊、五月蒲酒話昇平、六月近水簾×探借秋、七月南無阿彌陀仏、八月明月流素光、九月菊花令人寿、十月放香冬至梅、十一月聖寿無窮、十二月雪擁柴門氷満池)の中には、敬書と書いたものは一幅もなく、臣下が神様に祀られた正一位稲荷大明神の幅には、梧竹と書いて「中林隆経」「字子達」の印が捺してあり、右上の関防には「梧竹深処」の印が捺してあるが、天照皇太神には右上の「梧竹深処」の印は遠慮して捺すことなく、ただ左の下に本名の「中林隆経」の印を一顆捺したのみで決して梧竹の雅号などを書いてはおらぬ。疑問と思われる方は東京神田区花房町五番地西東書房には、実物と少しも違わぬ複本があるから、調べたならばこの事実の正しいことがお判りになることと思う。
> この天照皇太神の幅と聖寿無窮の幅を揮毫せられた時には、朝から斎戒沐浴、自ら香を焚いて神前にぬかずき、観音経一巻を読誦し、紋服と袴を着けて後、筆を執られたものだから森厳崇高の気、室内に溢れて、思わず頭の下がる作品である。いやしくも立派な鑑賞眼の備わった人ならば、一見その敬余の作なるを発見するはずなのに、一向そういう点には盲目で徒らに枝葉の点、それも事実と相違せる事柄を捏造して、みだりに他人の芸術を非難攻撃し、不敬呼ばわりをするに至っては真意がどこにあるかを疑わざるを得ないのである。
> もし梧竹の天照皇太神や、聖寿無窮の作品を観て、敬書でないと見る人があったならば、その人は書に対しての盲目者であり、ともに書の芸術を語るに足らぬ者であろう。だいいち日本国民としてこういう大切なものを書くのに、敬い謹んで書かない人があったなら、それこそ非国民である。敬書、拝書などと殊更書き添えるのがむしろどうかと思う。(中略)
> 敬書、拝書と書かずして、おのずから文字そのものが敬となり、拝となっておるのが見えない鑑賞眼の持主が、梧竹の書の解剖をやるのだから笑止至極である。第一僭越の沙汰であろう。
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 こんな調子が延々と続き、丸々九頁の全部が西川寧への非難でやんす(汗)。なお引用文中「×」印の字は木偏に龍。〜海老塚四郎兵衛『書聖梧竹の書と鑑賞』(明玄書房)P.105〜106。「昭和十一年三月執筆し雑誌「澄懐」に掲載」とある。
 で…誰が書いたか知らないが、西川寧編『書道講座』(二玄社)の第三巻「草書」P.153解説冒頭がコレ(↓)。
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> 三昔も前、世田谷の烏山に海老塚的伝という狂信的梧竹ファンがいて、屋敷内に「梧竹堂」を構え、たくさんの梧竹を常時見せてくれた。見せてくれるはありがたいながら、的伝老人のファナチックな長広舌に悩まされた先生方はたくさんいたはずである。老人は戦時中四国に疎開し、同地の博物館にそれを寄贈して亡くなっている。梧竹を考えるとき、今では懐かしい人だ。
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http://www.bungakushodo.jp/
ブログのコメントに興味深いものがあったので... 荒間 宗太郎 - 2008/09/20(Sat)10:35 No.7119
ワシの夢空廊漫遊から、最新記事へのコメント

1. Posted by 会社員 2008年09月20日 00:37
以前、「縄文ヲシテ」のブログで、天照は男であった、、今も伊勢神宮に残る衣装からも男性であったのではないか、、と書かれているのをよんで、納得したのですが、どうなのでしょうか、女とされていたのが男であったとしたら、、
 縄文時代の日本について、無空廊漫遊さんの論文を感嘆しながら読みました。
 優秀な日本民族の末裔である事を誇りに思っています。

2. Posted by aramar88 2008年09月20日 09:15
天照大神が男神であるという前提で書かれているのなら、それはそうだと思う。その場合注意しなければならないのは「天照大神は男神である」と明示してから論理展開する必要がある。
そうでなければ「女性天皇も可」という言葉が一人歩きし「女系も可」という流れに合流する風潮が作られるように、単に「天照大神」と言えば世の多数は女性神と受け止め「女系」の流れに行ってしまう危険性が大きい。
彼が「天照大神は男神である」という認識があるのなら、もっと注意深く書くべきだと思う。
ワシは天照大神は男神であると思っている。だからそれを明示していない場合は「天照らす」と書き分けている。
どんなに持論が正しくとも世の趨勢として「天照大神は女神」と思われている現状では書き分けるか「天照大神は男神である」と明示してからでなければ誤解されるし、その不注意が女系天皇論陣営に利益を与えてしまう。
天皇の系譜と皇統とは、上に書いた意味において同様に書き分ける必要があるので、ワシは常に皇統と言い続けている。
守るべきは天皇家ではなく皇統だ 荒間 宗太郎 - 2008/09/19(Fri)19:32 No.7118
単一天皇家という意味は、今上陛下がお隠れになられたとき、浩宮が天皇となり時の天皇家は浩宮家となる。秋篠宮家は傍系となり、天皇家とは呼ばれない。天皇家を守るというのが保守ならここでおかしな輿になる、その危惧があるから皇統は一天皇家という概念ではないとワシは強調している。守るべきは皇統(浩宮様−秋篠宮様−悠仁様)である。
唖然とする女系論者 荒間 宗太郎 - 2008/09/19(Fri)18:46 No.7117
原文転載ありがと>苹@泥酔


さて、転載されていた新田論文を読んで腰が抜けるほど驚いた。
なんと彼は「女系天皇(女帝にあらず、女系天皇)論者」の一翼を担っていたのだ。

簡単な例を見てみる。
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「血統主義」と「徳治主義」の調和
“ たとえ現在の皇室がどうであろうと、どのように見えようと、臣下が誠を尽くせば、やがて必ず御聖徳が輝き始める時が来る”というのが、歴史上の忠臣達の信仰ではなかったか。“この信仰を裏付け、現実化させてきたものこそ、皇室祭祀であった”というのが葦津氏の皇室祭祀論の核である。「祭り主としての天皇」という言葉には、「血統主義」と「徳治主義」が皇位と不可分の関係にある「祭祀によって橋渡しされている」との「信仰」が内蔵されているのである。
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天皇と言うべきところを巧妙にも皇室と言い換えて書いている。
皇室祭祀?んなもんが歴史上云々されているものか。天皇祭祀がいの一番に大切なものであって、その付属としての皇室祭祀だよ、だから皇后でさえ祭祀に疎かったり熱心でなかったりしていた者がいたと言われるんだよ、でもそれでもいいのだよ、大切なものは天皇祭祀であって皇后や他の皇族の祭祀ではないのだから。天皇の祭祀この一点さえ維持されているのなら我が国は安泰なのだ。

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 したがって、「信仰」という観点から、皇太子殿下のことを云々するのであれば、本質的な問題点は「祭祀にご熱心なのかどうか」「祭祀が妨げられるような状況に置かれているのかどうか」という一点でしかありえない。
///

上に述べたように、天皇祭祀が大切なのだから、皇太子が祭祀に今現在熱心であるかどうかはとくに問題とされない、ま、熱心であることに越したことはないが。そんなことより、巷で批判の対象となっているのは放蕩雅子であり、それに顎で使われている旦那のことだ。その旦那がたまたま皇太子浩宮であった。
だからついでに批判されているだけで、批判の対象物は放蕩雅子のみだ。


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「日本丸」の理想
 最後に、私の考える天皇と日本国及び日本国民の関係を舟に譬えてみたい。日本国は舟であり、日本国民はその舟の乗客である。天皇は、この舟を建造した本来のオーナーである神々に指名された現世での船主である。船主たる条件は、天照大神の血統に属することと、祭祀を誠実に行うことの二つ。この祭祀の意義は、乗客の間に神聖なものを求める心を保つこと、乗客の中から能力を買われて撰ばれた船長を導いて船全体と乗客のことを第一に考えるようにすること、そして、自らも本来のオーナーの願いと舟および乗客の安全と幸福を第一に考える気持ちを忘れないようにすること、この三つである。他方で、乗客たちも祈りを通じて本来のオーナーと船主の願いを共有し、舟の運航について共に悩み、乗客としての自らの振る舞いを日々反省する。これが、神話に描かれた「日本丸」の理想である。
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なんとついに彼は告白している。「船主たる条件は、天照大神の血統に属すること」この一文を読んで「ヾ(^^;)ォィォィ気は確かか?」と唸ってしまった。

ワシのブログ「夢空廊漫遊(陽炎).ゆめくうろう.まんゆう(かげろう)」のエントリー「皇統を受け継ぐのは天皇お一人 」や、それ以外のエントリーでも書いているように、「皇祖神とは天照らすではなくニニギノ尊です。そして皇統は神武から始まるのです。皇統は単一天皇家の血筋ではないと言う意味を知ろうとはせず、単に現天皇家と血脈があればよいとして、女性天皇ばかりか女系天皇さえも認めてしまうお馬鹿さんたち。歴史が判らずに、単に弥生以降の歴史を重視し縄文や石器時代を無視するがごとくの歴史観を持っている人たち。その人たちもまた保守とされている悲しい現実がある。その人たちの現代史感は思想上から右に見えるだけ無知に等しい。皇統の一血脈が海の向こうからやってきたかどうかなんてどうでもいいことなんだよ、皇統が連綿と繋がっていると言うところが大切なんだから。

 アマテラス (天照らす=海照らす=AMA族の長)の命により「ニニギノ尊より皇統は始まる」という神話で成り立っている。それが、いつの間にか天照らすから始まっていることになっている。ニニギノ尊から皇統は始まっているが、神武が婿入りしたときに口伝を伝授され、そしてニニギノ尊から始まるY染色体と神武が口伝を受け継いだ秘技の二つで一つの(必要条件と充分条件)意味=条件が整いこれより正規の皇統が始まった。

 片一方の必要条件(天津神)もう片方の口伝の形でしか伝えられない秘技口伝 (国津神)の方は国津神からのもの(だから神武は婿入りの形をとった)だから(天津神の方の文字で表せない国津神からだから口伝となると)日本書紀や古事記が口述筆記で書かれている。」

 彼の主張では「神武の婿入り」の伝説の説明がつかないし、神器が三種になっている理由も説明できない。天照らすからは一種のみしか与えられていないのだから。そして、天照らすからの血統に属しているものという前提なら女系が含まれてしまう。そしてその資格が祭祀を誠実に行う事というのではまるで女系天皇容認論ではないか。アホか。

 バビル二世という漫画本でおもしろい描写があります。最初の主(宇宙人)の資質を受け継ぐものが同時代に二人生まれ、そのうち年長の者が最初にバビルの塔に招かれ試験され資格が十分でないという理由から放逐され、二人目が招かれ同一の試験を経て資格有りと判断され二代目の主となった。
最初の者と二人目の者とは見かけ上同一の資質があるにもかかわらずほんの一点の違いは、実に些細なことで、復活力の差でしかなかった。でもその違いこそが大きな違いだった。

 皇統とは、神武以来のY染色体を受け継いでいると言うだけでは資格が充分ではない、必要条件のみで充分条件を満たしていない。天皇になるための口伝がなければならない。俗に三種の神器というものになぞらえて現わされています。
 ここで大切なのは「口伝でなければ伝えられないもの」である、と言うことです。それは日本語そのものに備わっているもので、文字では伝えられないものです。日本語に特徴的なものであり、外国語例えば英語やフランス語には存在しないある特徴です。

 口伝が祭祀と重なり合い、日本語に特徴的な陰陽旋律、日本語は強弱ではなく音の高低で同音であっても意味が異なることを伝える。つまり、日本語にはその言葉の連なりで旋律が現れてくる。この旋律は口伝でのみ伝えられることができる。
だから、神武からのDNAを維持し口伝による秘技祭祀が誠実に伝えられ執り行う資質のあるものが天皇である。日本丸の船主は神武以来の男系のものにおいて他にない。


「船主たる条件は、天照大神の血統に属することと、祭祀を誠実に行うことの二つ」と言う断定にははつきりと異を唱えこう言いたい「ふざけるな!」

繰り返すが、皇統とは、神武以来のY染色体を受け継いでいると言うだけでは資格が充分ではない、必要条件のみで充分条件を満たしていない。天皇になるための口伝がなければならない。その口伝が祭祀という形をとり、俗に三種の神器というものになぞらえて現わされているのです。
「毒」(今夜は「ぶす」と読まないで…) 苹@泥酔 - 2008/09/18(Thu)23:52 No.7116
【毒餌・毒乳・毒餃子の国際三毒問題】
【保守の狂犬キルドンムが決死の覚悟で潜入取材した石家荘実録!】
 …てな記事を期待したくなったけど、そんなのが目的で学会に行った訳じゃあるまいし。ともかく毒殺されずに無事の御帰還、ちと大袈裟に祝着至極とでも書いとこうかしら…てな具合に文章に毒を含ませてみたくなる苹であった(汗)。

 閑話休題。以下はキルドンム様のNo.7019とも絡む話…になるのかな。
 なんか荒間様んとこを覗いたら『正論』九月号の新田論文は未読らしいので、気が向いたから全文転載してみまっす。…と此処に出そうかと思ったけど、長くなるんで取り敢えず天バカ板の方を御覧あれ(↓)。
http://otd2.jbbs.livedoor.jp/231124/bbs_plain?base=7279&range=1
馬鹿息子 波浪規定 - 2008/09/18(Thu)22:51 No.7115
馬鹿息子も政治家を続けるのなら、親の負債を始末せよ。
めでたくないわけではないが キルドンム - 2008/09/18(Thu)22:15 No.7114
 どうせなら、加藤だの中川だのといったお仲間もひきつれて消えていってほしい。
ほんとだよな 荒間 宗太郎 - 2008/09/18(Thu)13:08 No.7113
本人消えても談話は海外的には公式見解と受け止められて今後も残る。
国家的な損失負債を足跡として残すんだから、息子の太郎は何とかしろよ
紅之傭兵 波浪規定 - 2008/09/17(Wed)23:37 No.7112
ようやく引退ですか。宮沢とならんで、こやつのせいで、日本の名誉はメチャクチャである。
紅之談話を取り消せ!
ありがとうございます 波浪規定 - 2008/09/17(Wed)20:36 No.7111
>灯理さん、ありがとうございます。
ここ数年、日経を視ないようにしていたので、気がつきませんでした。(^_^;)
>波浪規定さん 灯理 - 2008/09/17(Wed)16:18 No.7110
リーマンはいささかお行儀の悪い投資銀行でしたからね。
そういった選別が、米政府に働いたかも、知れません。

>外資や外資流経営を礼賛していたエコノミストは、いまごろどんな顔をしているやら。

その代表
http://business.nikkeibp.co.jp/article/pba/20080805/167256/
この記事の日付、なんと今年の8月10日です。
笑ってやってください^^

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