脱ゴーマニズム宣言裁判を楽しむ会議室

1998/03/15(22:08) from 133.205.76.43
作成者 :上杉聰(CYI00373@niftyserve.or.jp)
大塚恒平さんへーこの裁判と「慰安婦」問題のゆくえ
 大塚恒平さんが、この欄への書き込みで、いくつかの問題を指摘しておられます。「慰安婦問題全体としてはこの裁判の経緯がどうなったところで・・・たいした影響はないだろうし」というのは、たしかに当たっています。しかし、一面まちがっていると思います。
 「慰安婦」問題は、今、裁判、国会、国連などで取り上げられています。それ以外にも、地方議会で教科書からの「慰安婦」記述削除決議とか、逆に真相を究明する動きも地方から起こっています。いっぽう、「新しい歴史教科書をつくる会」の活動や、出版分野において、右派・新右派の活発な活動がこの一年以上、進められてきました。『脱ゴー宣』の裁判は、この出版活動の分野に属しています。インターネットもまた、そうした分野のひとつでしょう。
 ところで、「慰安婦問題全体」のゆくえはどこが決めるとお思いでしょうか。最終的には、政府・国会や裁判所が決める側面が強いのですが、政府・国会や裁判所は、世論の動向が決める面があります。その動向を表す一つに、出版・言論活動があります。
 こうした活動は、物事のすそ野を作る地道な作業なのです。そうしたことを省略したり、軽視すると、足元をすくわれると私は考えています。小林氏のマンガのようなものが支持されている日本社会の知的状況を変えない限り、国会も、裁判所も、政府も変わりはしないと思います。私は「慰安婦」問題で、政府や国会などに働きかける場合もありますし、裁判などの動向を『戦後補償ニュース』
           (http://www2.osk.3web.ne.jp/~kizamu/)で流し続けています。しかし、それと同時に。『脱ゴー宣』の裁判もそれなりに重要だと考えています。
 誰でも、時間的制約などから、個人としての行動の優先順位を決めざるを得ませんが、それと客観的な価値判断を直結しないことが大切ではないでしょうか。
 それから、「マンガに洗脳される」と私が書いたことを「読者を馬鹿にしている」と批判しておられますが、そのような人が小林ファンに現実に多数いるらしい(若者みんながそうだとは書いていません)ことを指摘するのが「馬鹿にしている」ことになるのでしょうか。私は、小林氏のマンガのような手法に洗脳される知的状況が日本社会にあることに深刻な危機を感じています。かつてテレビによる「一億総白痴化」と警告された事態は、マンガなども含めて確実に進行しているように思います。私もマンガは好きなのですが、それでも、いい年の青壮年が電車の中で少年マンガに読み耽っている姿を、西部邁氏とともに憂います。
 きわめて初歩的なマンガの技法にのせられていく背景には、画像メッセージを客観的に分析したり批判する言論活動が日本の場合遅れていることがあるように思います。ドイツの場合、ナチスの画像によるだましのテクニックの批判や分析が進んでいますが、日本の映像批判の著作は少ないように思います。その意味で、この裁判が、著作権の問題を判例でも克服して、そうした知的活動を自由に解放できるかどうか問われているのだと思います。また、この裁判を通じても、戦前の軍部や小林氏が、どのようなだましの手法を使い続けているか、取り上げていきたいと考えています。
 また、「目線を入れる基準」についてのご質問がありましたが、肖像権侵害、名誉毀損などの要素と、もう一方で同一性保持権や引用権との兼ね合いの中で、各コマについて具体的で総合的な判断をせざるを得ません。その各コマ一つずつについての引用の必然性(これを「絶対必要」とは考えていません。引用が出来ればマンガの批判は公正にかつ的確に出来るというものです)や目線の必要性・不必要性については、それぞれについてどのような判断をしたか、全体30ページの文書を弁護士さんに渡しています。次回の口頭弁論かその次に、代理人の方でそれを法的に整備して裁判書面を提出してくださいますので、申し訳ありませんがそれまでお待ちください。
 最後に、大塚さんは「ビジュアル作品自体の引用は当然認められてしかるべき」としながらも「脱ゴー宣の引用は『やり過ぎ』だと思っています」と書いておられますが、「適正」と「やり過ぎ」の線はどこに引いておられるのでしょうか。この点をお教え下さい。

P.S.以前、大塚さんから日本の戦争責任資料センターにいただいたご質問に対して、二度にわたってお答えのメールを私からお送りしました。届いていますでしようか。届いていなければ再度お送りします。


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