脱ゴーマニズム宣言裁判を楽しむ会議室
1998/03/22(20:25) from 133.205.80.3
作成者 :上杉 聰(CYI00373@niftyserve.or.jp)
スグルさんへーー互いに自分を吟味する精神的体力を!
ここ数回にわたって書き込んでいただいた内容について、私は以下のように考えます。ご検討下さい。
<著作権法について>
 まず「引用」に許可が要らないことについては、今井さんとハンスさんが「信者」さんとのやりとりの中も合わせて、適切な意見を述べておられるので、それで十分と思います。スグルさんも「僕みたいな素人が話せるのはここらが限界かも知れません」と書いておられるので、今後ゆっくり互いに勉強していきましょう。
 ここであえて付け加えるとすれば、「引用」は無断でするものである以上、いくつかのきびしい制限があるのです。これまでの判例からするとーー
(1)引用する側の文章が主であり引用される側が従の関係であること
(2)引用する側の文章とされる側との間に密接な関連があること
(3)引用される側の量は、引用される著作物全体の必要最小限に限ること
(4)原作を忠実に再現すること
(5)出所を明示すること
などで、私も『脱ゴーマニズム宣言』にこれらの面での逸脱がなかったかどうか、当然きびしく問われるのです。今後の裁判において、そこが具体的に吟味されることになります。ということは逆に、あなたが心配されているように、裁判で私が勝っても、その後に大変な無秩序が発生するような性格の争いではないのです。
 ところで『磯野家の謎』の著者は、小林君が主張しているのとは裏腹に、本当は漫画を引用したかったという意味のことを書いているのをご存じですか。それができなかった理由は、長谷川さん側から告訴が引き起こされる危険性があったからという意味のことを同書に書いています(「問69この本の中に『サザエさん』の絵が1点も使われていないのはなぜか?」参照)。お金をたくさん持っている有名漫画家に対抗して、しんどい裁判を覚悟して本を出版するなんていうことは、東方出版の社長さんや私のような無鉄砲でない限りやらないものなのですよ。漫画を訴訟のおそれなく引用したいというのは、多くの文筆家の願いでもあります。
 もし私が裁判で勝てば、そうした訴訟のおそれが少なくなりますから、たしかにマンガを引用する本はもっと多くなるでしょう。あなたは、それが「他人の作品に便乗した金儲け」だとおっしゃりたいのでしょうが、どうか書店か図書館で本や雑誌を広げてみてください。もしそれが論説や論文、批評などであれば、他人の本や論説などを引用をしていないものなんてありません。極言すれば、引用によってそれらの本は成り立っているのです。当然にもその引用した方に報酬が印税や原稿料の形で支払われています。でも、誰もそれを「ドロボー」なんて言いません。もしそう言うなら、評論家はみんな泥棒になってしまいます。
 誰が書いたか忘れましたが『朝日新聞の正義』(小学館)という本も、新聞を多数転載・引用したり、大新聞社名を本のタイトルにまで使っています。ついでに言えば、この本の著者は、朝日新聞から転載・引用の許可を取っていません。これも「他人の作品や名前に便乗した金儲け」であると言えば言えます。新聞を「無断で引用しまくっている」というスグルさんの非難は、なぜこの本には向かないのでしょうか?
 他人の著作物を引用した出版物が自由に出回ることによって、批評する側とされる側の対話や相互批判が保障され、活発な議論によって論点は深まり、文芸や言論の質が向上するのです。私は、漫画全般に対してもそうした批判的な言論活動がもっと保障されるべきだと思いますし、この裁判が、その点での状況を打破する側面をもっているのです。

<吉田証言について>
 吉田氏の証言について、「本人もフィクションと認めている」と書いておられますが、あなたはそれをどこで、どのように確認されたのでしょうか? 吉田氏は、そうした文書を出していないと思います。もしあなたのその書き込みが嘘であったら、嘘をインターネットを通じて「世に広めたということになります」。「これについて責任は生じないのですか」というあなたの言葉はそっくりあなた自身に返っていきます。
 それから、吉田証言を私などが『アジアの声』第1集(東方出版)で紹介したのは、問題ないと考えられる範囲内に限っており、あなたがおっしゃるように「垂れ流し」などしていないのです。それは、あなたが直接に同書を読めば分かったことなのです。私はあえてここで、同書がどのような記述になっているか書きません。少なくとも誰かを批判するときは、他人の言説を鵜呑みにしたりせず、自分で確かめてからすべきだからです。あなたがやっておられる私への批判の方法は、噂やデマにのっかっているのと違わないのではないでしょうか?

<『脱ゴー宣』の論理について>
 いよいよ、本格的な論議になってきましたね。3月19日のあなたからの書き込みによると、「相手の論を批判する場合・・『引用』するのは・・別に文句はありません。しかし批判する相手の『文脈』を変えてしまうほど省略してはいけない」と書いておられます。これは私の考えと全く同じです。ですから、漫画の場合、私はセリフだけでなく絵の引用も必要だ、と主張しているのです。絵を取り去ると、そこに描かれた著者の考えや文脈を省略することになるからです。
 あなたはその上で、「『被害者の証言は加害者の証言で相殺できる』・・確かにこれは非常識ですね。ではよしりんがその『非常識者』に当てはまるか?と言えば『NO』です」として、「このコマのセリフはあくまで前の文章の流れを受けての言葉」として、私の『脱ゴー宣』29ページのコマの引用が小林氏の文脈とずれている旨の主張をしておられます。
 「文脈」という場合、たしかに「前」との関連もありますが、「後ろ」もあります。当該コマの前に書かれているのは、おっしゃるとおり元「慰安婦」の証言についてですが、元兵士の証言については、このコマで初めて、突如として出てきています。この兵士の証言は後ろへと続くのです。つまりそのあと、元「慰安婦」と元兵士のどちらも「当事者の証言はダメ」としておいて、しかし「第三者」の目は「客観性/信ぴょう性は充分!」と、ビルマの日本人捕虜尋問報告を強調する仕組みになっているのです。
 つまり、当事者同士の証言が対立している時、双方の証言に決定力はない、というわけなのです。貴方がおっしゃるように「慰安婦の証言がくるくる変わって証拠能力がない」ということだけでなく、このコマをきっかけに、上のように元「慰安婦」と元兵士の証言を同列に置いて対立させた上で論理を発展させているのです。
 ですから、私が『脱ゴー宣』で、「被害者の訴えを聞いた警察官がすぐ加害者側に『あんたやったの?』と尋ねにいって、『やってない』と答えたら『これでお互い相殺だ』と・・言うのかい?」と問うて、被害証言は加害証言と同列に置けないこと、まず被害の訴えを受けた上で、それを様々な角度から検討・調査すべきであり、その責任は加害者が多く住んでいたり資料も残っていると考えられる日本社会にこそあるのだと主張したのは、まさに小林氏の論旨にのっとった批判なのです。スグルさんが「文脈」を主張するのであれば、前の半分だけ見て、残り後半を黙殺するというのは歪曲であり、間違っていませんか。
 ところで、先のコマで元「慰安婦」と元兵士という当事者同士の主張が対立していることを、小林君がどこに書いているかといえば、文字部分には「あっちに慰安婦の証言・・こっちに元兵士の証言」とあるだけで、対立しているとはけっして書いていないのです。両者が対立している姿は、実は、絵の部分に描いていて、元「慰安婦」と元兵士が言い争い、小林君が両方の間に立って困っている画像によって示されています。このような形で、文字部分にない重要な情報を絵に盛り込んでいるのが小林君の漫画なのです。そこから絵を取り去ったら、彼の主張が不明になったり歪曲されることになります。漫画の絵を引用する必然性は、このようなところにあるのです。
 ほかにもいろいろと書きたいことはあるのですーー小林君による批判は、スグルさんがおっしゃるように、たんに運動に向けられているだけでなく、「慰安婦」の人たちや「慰安婦」問題そのものに向けられています。その点も歪曲してはいけませんーーほか。しかし、今日は時間がないので、またにしましょう。


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