脱ゴーマニズム宣言裁判を楽しむ会議室
1998/04/10(09:08) from 133.205.79.89
作成者 :上杉聰(CYI00373@niftyserve.or.jp)
暴力的な強制連行の存在について
<お待たせしました!>

 先回の書き込み(4月1日)の末尾に、私は次のようなお断りをしました。

 「私は、これから大変忙しい一週間に入ります。悟のぱぱさんやスグルさん、森永さんに証言の評価の問題と国家賠償の問題について返事を書きたいのですが、すぐにはかないません。なんとか一週間後には書き始めたいと思います・・」と。

 今、移動中の新幹線の中でこのメールを書いています。プリントアウトした、これまで皆さんが書き込まれたものを読みながら、ようやくお返事できるようになりました(ただし、書き終わるのはいつになるやら・・)。

 私が書き込みをできない中で、「あれく」さんなど何人かの方が、私の代弁までしてくださいました・・・時には泣きながら。第三者が話に加わると、会話がなめらかになって回転、発展していきますね。「別人」さんのインドネシアに関する書き込みは大したものです。もう私がここに書き込む必要はあまりないかな、と思っています。そして、「続・脱ゴー宣」の欄に新しい原稿を書き込むことの方が積極的だろうかと考えています。

 ただ、私と誰かとのやりとりばかりでなく、いろんな人の中に私もいるという雰囲気での書き込みができ、そんな形でこの会議室での議論が発展するのなら、ここに残り続けたいと思います。今は、いろんな人の書き込みが増えることで、その可能性が出始めていますので、そこに希望を託します。今回から、私をあまり意識しないで、みなさん会議をつづけてください。

<5たび、吉田証言について>

 私は、平和資料館(http://www.jca.ax.apc.org/JWRC/index-j.html)の「『慰安婦』は商行為か?」にーー

「吉田証言は根拠のない嘘とは言えないものの、『時と場所』という歴史にとってもっとも重要な要素が欠落したものとして、歴史証言としては採用できないというのが私の結論」

と、以前書きました。この文書に対して「悟のぱぱ」さんは、この会議室への初登場の日、開口一番、語気鋭く、「根拠というからにはもちろん、証言以外の何かがあるはずですよね。証拠をお示しくださいませんか・・私が申し上げているのは客観的な根拠です」(3/23)と詰問されました。

 このHPの「証言は証拠なのです!」(3/29)で私は、「スグルさんと悟のぱぱさんからのご質問に、証言の価値への疑問があります。『証言はあやふや。客観的な根拠を示せ』というわけです」として、お二人に対して証言も証拠であることを示しました。証言を安易に否定するのは間違いで、物証や書証がフォローできる範囲はきわめて限られていて、証言を組み合わせることによる立証も大切だ、ということでした。

 これに対して悟のぱぱさんは、ご自身が「書証、物証を求めているというのは上杉さんの拡大解釈ですね。私の文意を歪曲しないでください(笑)」と、少し苦しそう(?)に笑っておられましたが、それでも「『根拠』というものの中には証言というものが含まれることは認識しております」との立場をここで新たに表明し、「吉田証言の根拠となる書証、あるいは他の証言」(4/2)を提示せよと、「証言」を加えてくださいました。

 その上での話ですが、私が先回の書き込みでーー

 「吉田証言について言えば、このHPにも書いたように、彼の本には、事実を並び変えたり、他の人の体験を加えたりしている面があると考えられますが、個々の事実が嘘と断定できるような矛盾が、他の書証や証言との間にないのです」(3/28)

と書いたことに対し、悟のぱぱさんは、「吉田証言の個々の事実と矛盾しない『他の書証』というやつ」を「提示してください」とおっしゃいました。

 これについて、私が仕事の都合で返事ができないこの一週間、「あれく」さんと「悟のぱぱ」さんとの間で、私の「証言と矛盾しない書証」が何かをめぐって議論があり、ぱぱさんは「明らかな証拠としての書証」であり、「吉田証言を裏付ける、もっと積極的な証言、書証」と、私の先の言葉を解釈されました。これに対して、「あれく」さんはーー

 「上杉さんは『矛盾しない書証があるぞ』ではなく『吉田証言の個々の事実と矛盾する書証は「ない」』とおっしゃりたかったのではないでしょうか。矛盾する書証とは例えば当時吉田さんは済州島にいなかったとか。そう言う証言を否定する書証です」

と書いて下さいました。「あれく」さんには、きちんと正確に読んでいただいて感謝です。以下、私から説明しましょう。

 まず、暴力的な強制連行の存在を否定するということは、そんなに簡単ではないということから考えてください。何でもそうですが、「・・がなかった」と証明することは大変なことです。それは、私たちが事実関係の全体を把握することが、多くの場合困難だからです。初期の「慰安婦」の募集・徴集から始まって敗戦までのすべての「慰安婦」を集めた形態を私たちが把握できていれば、そしてその中に暴力的な徴集がなかったことを完璧に把握できていれば、「吉田証言は嘘だ」と言えます。

 ところが、まだ「慰安婦」問題は研究が始まったばかりです。事実関係は空白が多く「穴だらけ」の状態です。そんな時、「こんな例はなかった」と言い切る資格は誰も持っていないのです。たとえば秦さんが、済州島の全体を調査して、「この島にはこうした連行はありえなかった、なぜなら徴集の初期の段階から末期まで全ての例を漏れなく調査したが見あたらないから」というのであれば、「たしかにそうだ」となります。また、たとえ済州島全体が厳密に把握できなかったとしても、可能なかぎり同島を広く見渡すことができるような調査をし、その中で吉田証言の示す事件があまりにもかけ離れたものと考えられるならば、その場合も、吉田証言は疑わしい、と断言できます。こうした、全体を網羅する調査を意図した方法が学問的と呼ばれるもので、そうした吟味は、まだ吉田証言に対してできる状態にないのです。

 たとえば、済州島の全体の調査は、すでに尹貞玉さんが試み、その簡単な内容は、先に紹介した平和資料館の「『慰安婦』は商行為か?」に書きました。同島には、名乗り出ることを押しつぶす周囲の圧力が明確に存在していました。これは他の地域でもそうで、証言すること自体がまだまだ困難で、名乗り出ている人たちはほんの一握りであって、埋もれている事例のほうが多いと思われます。

 ところで、秦さんが発見したように語られている『済州新聞』の記事は、秦さんによる調査の3年前の1989年に発表されたものです。この記事は、まっこうから吉田証言を否定する証言に該当しますが、それだけで吉田証言を「相殺」できないことは、もはや論じる必要はないでしょう(小林氏が、証言によって証言を相殺できると主張しているかどうかの議論は横に置いておくとしても、その論理自体が間違いであることは、このHPでの議論で皆さん認めておられるようです)。証言同士が対立しているときは、どちらかが嘘を付くなり、勘違いしているのです。

 また、たとえ吉田氏が嘘を付いていたとしても、彼のこれまでの話をまとめると、それが済州島以外で行われた可能性も残ります。吉田さんの証言を注意深く読むと、済州島以外での強制連行も語っているからです。

 秦さんが済州島調査に入った時点は、すでに被害者が多数出てきていて、騙しによる連行が多いということが明らかになっていました。彼女たちが暴力的強制連行など、ほとんど問題にしていない時期に秦さんの調査は行われたのです。そのため、多少気が引けたのか、秦さんは上記の報告書の末尾で、「済州島での事件が無根だとしても、吉田氏の慰安婦狩がなかった証明にはならない」とし、慰安婦狩りについて「今のところ訴訟の原告をふくめ百人近い被害者側から該当する申告がないのも事実である」(「昭和史の謎を追う」第37回『正論』238号、1992年)と書いています。

 もちろん、元「慰安婦」の方からの暴力的に強制連行されたという証言は、当時も少数ながら出てきています。ただしそれらは済州島ではないのです。この時点で、秦さんにとっては、暴力的な強制連行が行われたと被害者が訴えている地点を調べることの方が本来は大切だったと思いますし、あるいは被害者の多数のケース、つまり騙しによる広義の強制連行の問題性も含めて検討する方向に進むべきだったのです。

 私たち、日本の戦争責任資料センターは、被害者が名乗り出て後、韓国の公文書館で全体的な資料調査をおこないました。聞き取りは、韓国の研究団体にお願いしました。それらの結果は、残念ながら暴力的な強制連行についての充分な成果があがっておらず、今のところ「暴力的な強制連行の事実を確実に証明する証拠はまだない」という段階です。

 しかし、「慰安婦」問題で肝心なことは、連行の暴力的形態だけでなく、騙しも強制であり、さらに重要なことは慰安所で性的強制が行われたことです。この点に軍が積極的に関与したことが明白に証明できる以上、国が賠償することは当然です。吉田証言が真実かどうかは、真相究明にとっては必要ですが、もはや国の責任の取り方にとって核心的な問題ではないのであり、その私たちの立場が河野官房長官談話にも部分的に取り入れられたことは、『脱ゴーマニズム宣言』(34頁)などに書いた通りです。

<どこまで強制連行に迫れるか>

 とはいえ、真相の究明全体にとって、暴力的な強制連行があったかどうかは、大切な問題の一つです。吉田証言を「否定する書証」はない、という場合、それがどのような資料との関係で言っているのかといえば、論理的には全ての資料がそうだ、といえますが、より分かりやすくするために、また悟のぱぱさんの「積極的な書証や証言」の要求にあえて応え、それに近いものを挙げるとすれば、次のようなものがあります。

 まず、交戦国、つまりフィリピンや中国などで、相互に無関係な地域から出てくる証言に、軍による暴力的な連行を示すものが、加害者・被害者の双方から多数出てきていて、この点について疑問を差し挟む余地はなく、秦さんさえ、フィリピンについて、「彼女たちの申し立ての多くは事実を反映していると想像する」(「慰安婦「身の上話」を徹底検証する」『諸君!』1996年12月号)としています。

 中国についても、鈴木啓久・陸軍中将が書いた「単県に於いて慰安所を設置することを副官堀尾小佐に命令して之れを設置せしめ、中国人民及び朝鮮人民婦女20名を誘拐して慰安婦となさしめました」という供述調書が、最近公開されました(『世界』98年5月号)。この「誘拐」が暴力的な形態を含むかどうかはーー法的には「拉致」も「騙して連行して拘束」も同じ質の犯罪ですが、「騙し」によるものは犯罪ではないという人がいるかも知れないので敢えて述べればーーこれらが激しい軍事行動の中で行われたこと、同時に労働者の徴集も行われていて、それが「強制募集」であったことを明白に供述しているので、この「慰安婦」の場合も、暴力的強制が含まれていた可能性は、きわめて高いと思われます。

 ただ問題は植民地であり、交戦地に多く見られるこうしたむき出しの暴力を使わなくても、行政や警察の力を借りて、心理的誘導や圧迫などで強制することが可能な支配機構がありました。済州島を含む今の韓国や台湾はこれにあたります。男性が強制労働に徴用される場合でも、初期は行政機構による「斡旋」という、比較的おだやかな形をとっていました。しかし、戦争末期になって日本が追い詰められると暴力的となり、子供たちまで連行されたことが知られています。最近、外交資料館から、朝鮮半島での労働者の徴用の実態を1944年に報告した内務省文書が出てきて、そこには「全く拉致同様な状態である」(1998年3月1日、共同配信)、事前に知らせると労働者に逃げられるので「夜襲、誘出、その他各種の方策を講じて、人質的略奪、拉致の類が多くなる」(2月28日、朝日新聞)と書かれていることが報道されています。

 もし、このような形で「慰安婦」の方たちが植民地から戦地に向けて暴力的に連行されたとすれば、当然その方たちは民間人ですから、本来は身分を証明するものやパスポートなどが必要となりますが、その場合は持っていなくても、船で国外に渡航できた(つまり連行された)ということになります。なにしろ、役場で身分証明書や旅券を作る暇などなく、急いでむりやり船に押し込められるのですから。

 ところで、軍人でも軍属でもない普通の民間人が植民地から国外へ渡航する際に通常必要な書類が、1942年からは「慰安婦」関係者にかぎって、不要になっているのです。

「此の種(「慰安婦」関係者の)渡航者に対しては<旅券を発給することは面白からざるに付き>軍の証明書により<軍用船にて>渡航せられたし」(吉見義明編『従軍慰安婦資料集』143頁、<>内は抹消文字)

 これは、台湾から南方の日本軍占領地に向かう女性たちの輸送に関する外務大臣の指令書です。つまり、軍の許可書さえあれば、「慰安婦」関係者はこれ以降、植民地から日本軍のいるところへ、「旅券」を持っていなくても自由に出国・移送させるシステムができた、少なくとも軍がそうしたいと思えば手続的には可能になった、ということを意味しています。

 これらは、いずれも韓国における「慰安婦」の軍命令による暴力的強制連行を積極的に証明するものではないのですが、あったとしても不思議でないし、それらと矛盾しない書証、証言の類の一部ですーー今日は、こんなところでよいでしょうか。皆さんの疑問に少しは答えられているでしょうか。またいつか書きます。


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