脱ゴーマニズム宣言裁判を楽しむ会議室
1998/04/15(05:08) from 203.139.44.78
作成者 :西谷修 鵜飼哲 港千尋(CXP10712@niftyserve.or.jp)
戦争は最初の銃弾が発せられる前に本の中で起こっていた
佐藤亜紀氏の論考も併せてお読み頂く様お願いします。

http://www.momoinfo.com/tamanoir/iken_006.html

このページの他のところでもこの問題について論じています。

 (前略)

 先ほどから話のはしばしで触れられていて何が問題になっているかというのは皆さんももうおわかりだと思うけれども、いま我々は、ひょっとするとたいへんな歴史的な瞬間に立ち会っているのかもしれないんですね。というのは、戦後四〇年間、文部省がずっと検閲して検閲して検閲して「これしか作ってはいけない」というふうにして作ってきた教科書、ほとんど唯一の批判組織だった日教組を右翼の大量動員で徹底的に潰してきて、その結果できた官許の教科書を、大衆レベル−−要するにマス・メディアで彼らが代弁しているのが大衆だとするなら−−から「こんなものではだめだ。もっと国家に恥じないものを作れ」、と公然と言う集団が出て来たわけです。それこそナチだって暴力で政権をとったわけではなく、三〇年代に選挙で登場するんだけれども、あるとき大衆が制度的な保守を乗り越える場面があって、それがまさにいま日本で起こりつつある。そういう意味では、ひょっとするとたいへんな歴史的瞬間に立ち会っているのかもしれない。原理主義が他人事ではないというのはこういうことがあるからです。

 歴史教科書は、宗教とはちがうと言われるかもしれません。しかし考えてみてください。宗教的な原理主義は、自分たちの宗教的テクスト(ドグマ)を絶対化します。ところが近代の世俗世界になってからは、宗教的ドグマは個人の内面に閉じこめられて、公共的な社会システムができるわけですけれども、そのシステムはテクストとしては、宗教の経典に基づいているのでも神話に基づいているのでもなく、客観的とされる歴史に基づくものです。つまり近代国家、国民国家は歴史を教典にするのです。神話で社会を説明するのではなくて歴史でこの社会の成り立ちを説明することによって、世俗世界は根拠づけられるわけです。それが国家の、国民のアイデンティティということですね。その意味では歴史というのは、世俗化の時代−−近代−−の社会を支えるテクストです。そういうふうに近代が神話ではなく歴史の時代だとすると、その歴史のテクストそのものを捏造して原理化するということ、それによってある一つの共同体をつくり直すというのは、まさしく無宗教の時代の原理主義以外のなにものでもない。とくにこの場合、他者との関係を抹消して自分たちだけに向けられた「誇れる」歴史を作れというのだから。その意味では、最もソフィスティケートされた万人向けの原理主義というのが、いま日本で登場しつつあるということだと思います。

 港 アクチュアルな共通の話題が最後に出てきたわけだけれども、いまの教科書問題を毎日テレビで見たり新聞で読んで思うのは、五年続いたユーゴスラビアの内戦がどうやって始まったかということ以外のなにものでもないわけです。あらゆる作家、あらゆるジャーナリストが何度も何度も繰り返しいま言うのは、「戦争は最初の銃弾が発せられる前に本の中で起こっていた」と。本屋のショーウインドーの中で、あるいは学校の教室で使われる本の中で、すでに戦争は始まっていた。何十万という死者を出した後ではまさしく後の祭りですけれども、作家たちは、大きな自責の念をいまも持っているわけです。つまり、書くことを職業とする自分たちが、なぜその段階でくい止めることができなかったのか。しかし、最初の民族主義的な本がセルビアで出てから、最初の銃弾が発せられるまでの期間は非常に短かった。当然、計画全体は何年もかけて準備されていたものだったわけですけれどもね。日本でいま起きている問題も、やはり突然始まったわけじゃないでしょう。何年かの間に醸成されてきた。

 鵜飼 教科書問題は八〇年からで、十数年の流れの中にある。

 港 出てきた時点ではもう相当準備ができていて、確固とした武器になっている。これは思考に対する武器なのです。二〇万人ぐらいは死んでしまうような思考の爆弾です。

 西谷 ぼくは初めはあまりたいしたことないと思っていたんだけれども、鵜飼さんから電話でその話の展開を聞いたときにワーッと思って、それからしばらく暗澹とした気持ちになりました。たとえば原理主義に関するこういうアプローチに関心を持つ人が日本に何千人いるか。それに対して彼らの本は、きょうの新聞の広告見たら上下あわせて七、八〇万部とか、圧倒的に勝負にならないんですよ(笑)。いや冗談じゃない。笑っていられないですね。

 鵜飼 客観的に言えば、衆人環視で裸踊りしているようなものだから笑うしかないんですけれども、数十万部という数字がその笑いを凍らせてしまう。その不快感。実際にこの問題は、とりわけユーゴの問題を見てきた人間にとっては、瓜二つですね。東アジアには、中国の体制の問題がありますし北朝鮮の存在もあって、要するに体制間矛盾が残っていますから、そのことによってポスト八九年型の民族紛争がもろに到来する事態がいわばくい止められている形になっていたわけです。それが数年遅れで、全く同じ形がでてきている。とりわけこの問題に関心をもってきた我々の目には、そうとしか見えないですね。

 港 もう一つ、状況だけじゃなくて、日本という国の全体の情報の均質化も非常に似ているし、政府の官僚主義的な硬直性が地震や原油事故というあらゆるところで露呈しているんですけれども、その硬直性も旧ユーゴがもっていたものと非常に似ていると思います。

 西谷 ええ。

 鵜飼 そうですね。このような現象がこう対処すればなくなるというものではないですから、自分たち自身の思想的な相対的「健康」をどう守りつつ、この状況に耐えて抵抗していくかということが、アルジェリアの人々にも、もちろんヨーロッパの人々にも、我々にもいま求められているんじゃないかと思います。

 最後に、これは『クーリエ・アンテル・ナショナル』というフランスで出ている新聞でみつけた言葉、この新聞のアルジェリア特集号に出ていた、アルジェリアのある知識人の言葉です。「原理主義は死のようなものだ。たった一回しか経験できない」。つまり、本当に出会ったら少なくとも精神的に死んでしまう。これと同じように、港さんの表現を使えば原理主義の毒ガスが、もちろんガスですから姿は見えないんですけれども、いま我々の周りに広がり始めているのではないか。ぼくたちの本について日本経済新聞で書評してくれた方が「いやな雰囲気が広がり始めたいま」という言い方をされているわけですけれども、この本を手にされた方は、そうした我々の身の回りの時代の空気を敏感に感じながら読んでいただきたいと思います。


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