脱ゴーマニズム宣言裁判を楽しむ会議室
1998/04/19(19:43) from 130.158.104.180
作成者 :あれく(QYZ04726@niftyserve.or.jp)
Re: あれくさんへ。国際法と証言の信憑性問題。
こんにちわ、あれくです。
なかなか情熱的なレスですね。こちらとしても納得のいく様説明申し上げたく思いますのでよろしくお願いします。


>国際法違反を日本が放置したということをあれくさんはおっしゃいますが、実は、国際法違反が裁かれるのは一般的に敵国、或いは国際裁判所(例えば東京裁判です。結局複数の敵国って違いだけですが)によってです。例えば、便衣兵(ゲリラ)というものはハーグ陸戦協定で禁止されていますが、それを自国の裁判で裁いたという例はありません。それを裁くのは敵国側です。

すいませんが、私の問題にしているのは、国際法違反が、日本の罪であるかどうかです。
それが誰によって裁かれるのかは問題にしておりません。

ハーグ条約違反も罪でしょう、東京裁判を一方的に断罪したことも私は許せません。原爆を投下したことなど、筆舌に尽くし難い怒りを覚えています。悟のぱぱさんのご意見には細かい異論があるものの、大まかな点においてこれらはすべからく追求されるべきであると思います。しかし、国際法違反による「日本」の罪とは本質的に関係が無いと私は思っています(本筋から外れますのでこの点におきましては又の機会にいたしたいと思います)。
罪は罪です。他人の同様な行為ががみずからの免罪になることは有り得ないことはご理解いただけるものと思っています。ですので、このような例をわざわざ挙げることは「強制連行における国際法違反に対する日本の罪」に本質的に関係ないことですから、今ここであげることは適当でないと思いますが如何でしょうか?

別に私は日本の罪を強調しているつもりはありません。私のしたいことは「日本の罪」を明確にすることです。強調することではありません。もし、悟のぱぱさんの論理でいくならば例えば原爆という大罪の謝罪を求めても「自分のところの問題も解決してないし、中国も虐殺について謝罪してないし原爆ばかり強調するのはおかしい」とする論を許すことになるのではないでしょうか?


>あなたがどう思っているかは重要ではないんです。性犯罪国家であるという汚名は既に着せられています。それに値することならば、賠償を含めた謝罪をし、そのレッテルに甘んじなければいけませんし、そうでなかったらその汚名は返上しなければいけません。あなたがどう考えようと、日本に対してそのレッテルはすでに貼られています。このままでいいのかいけないのか、それが問題なのです。それをどうお考えでしょうか?

これについては既にお返事しておりますよ?お忘れですか?私は汚名を着せられることはいけないとしているはずです。汚名は返上すべきでその為には誰もが納得する証拠を持ってして世界に訴えねばならないとお話しました。その納得する証拠を出すためにはなるべくイデオロギーを廃した議論を出す必要があるともしました。これでいいですか?


以下、白馬事件についての議論があります。正直がっかりいたしました。私の主観を廃しつつ自らの主観を入れて議論としてしているからです。いわゆる小林氏などが平気で使う論です。歴史考察では全く有り得ません。この白馬事件などの具体的内容については一時おきまして、次の点について先に申し上げたいと思います。


>おかしいです(^^;
>自明な問題を証拠を立てて調べる必要性はないんですよ。それが判断ってものです。それを多数の人が支持できる一般性を持っていたらそれで十分です。この場合。

これは驚きました。自明な問題を説明する必要が無いとはどのような学問で使われている議論でありましょうか?私は理系の学生であります。理論を勉強なっていることもありまして、証明とかの勉強も欠かせません。証明においてはしばし「自明である」「こうなるのは当然である」とする言い回しもあります。しかしそれはそれ自体が証明ではなく「証明はきちんとできますが、皆さんご理解の事でしょうから割愛させて頂きます」とするものです。これは逆を言えば「自明ではないです。説明頂けますか?」としたならば「必ず」相手に納得できる証拠を提出できる状態にあらねばいけないのです。これこそ常識だと思います。これは理系ので場合ですが、学問にしろ、議論にしろ全ての人(多数ではありません、議論は多数決では有り得ませんから、一定の人間だけに満足する議論は自己満足と言います)に納得してもらうのが目的である以上当然だと思います。これは常識だ、当たり前だとするのはあくまで主観の問題でイデオロギーであります。それを入れて判断することは万人に理解することができなくなります。以後二度と主張において「あたりまえである」事を根拠にするのは止めて頂きたいのですが如何でしょうか?(例えば肝心の中国や、韓国に悟のぱぱさんの「常識」が通用しないと納得してもらえませんよ)

私は今、悟のぱぱさんのご説明が「自明ではない」為、個々の場合に則した証拠の提示を求めているものです。それができないのなら「検証された歴史的考察」ではありません。
以下、白馬事件に戻ります。


>吉見教授は、「孤立」させたということで、「戦後」国際問題が発覚しないようにしたと推測なさったわけですね。これは無意味です。学者の意見とは思えません。大笑い。だって、戦後、解放されたら誰とでも何でもお話出来るじゃないですか。事実、表沙汰になったわけでしょう?考えてみてください。現地の日本軍が人道的見地を持たず、発覚をおそれただけならば、ずっと簡単で確実な方法があるでしょう!

吉見教授のお話も直接証拠が無い以上憶測ではありますが、大笑いとする悟のぱぱさんのお話も憶測です。吉見教授の論は少ない状況の解釈(憶測)の一つですが、悟のぱぱさんのお話は事実に対して「分からない」として、吉見教授の見解に憶測で応じているだけですから歴史考察ではあり得ません。是非悟のぱぱさんのご見解をお聞きしたかったのですが、残念です。しかし、結局のところ、この不可解な点にきちんとけりを付けないと白馬事件をして「軍が強制連行による慰安所を認めていなかった」とする根拠にはなり得ないと思いますが如何ですか?


>要するにこの問題で、吉見教授の言っている事は日本の行動を悪意に解釈しようとしてるだけなんだからダマされてはいけません。普通に考えれば私の言っていることが当たり前でしょ?
>歴史の真実をきちんと見極めようと思ったら、日本=悪という固定観念に縛られてはいけません。こんな無意味な説を自分の中で吟味しないあたり、あなたにはちょっとその傾向、ありますよ。

個人的な判断に対し「日本の行動を悪意に解釈しようとしてる」と断ずることや「大笑い」とすることは少し行き過ぎではありませんか?議論の中で行なうことでは無いと思いますが。
悟のぱぱさんが私の事をどう思おうが私の知ったことではありません。が、会議室という公共の場でそれを簡単に口にすることは私としても不愉快であり厳に戒めるべきであると思いますが如何でしょうか?悟のぱぱさんに知った口をきいていただくほどお互いに理解しているわけではないでしょう?


>いえ、これは違います。朝鮮にも、日本の刑法は適用されていましたし、判例もあります。そうなると、先ほどと同じで、国際法上の問題以前に、日本の刑法上の問題なのです。つまり、国際法上の「植民地除外規定」などという紳士協定以前に日本の刑法上の犯罪なのですから、犯人が「ここは植民地だ!国際法上問題ない!」といっても、「あ、そうかい、そりゃよかったね。でもこの国じゃ犯罪なんだよ」でおしまい。

>苦しい解釈をわざわざ持ち出す必要などないでしょうに。自分でも納得できない解釈を無理に述べる意味はなんですか?ご自身で納得した上で、持ち出すべきです。そうでないと、上のような吉見教授の無意味な言説を垂れ流すだけになりますよ。


この点に特に異論はありません。しかし、犯人と裁く側の考えが一緒だったらどうなるか?これが「慰安婦強制連行問題」の核の一つであり、現在真相究明が進められているものであると思います。詳しい話は本筋からそれるので割愛します。もちろん確証はないのですから、仮定になりますが、そう考えると白馬事件の行動が少しはっきりすると言う一つの例であります。偏って苦しい例であることは承知の上ですが、それをあえて出した真意には「白馬事件」において不自然な軍の対応を認識されておられるならただ単にきちんと軍が対応したいたことに対するアンチテーゼを紹介しようと思っただけです。いろいろな点から吟味すると言うことは必要なことです。例えそれが一個人にとって「偏った」ものであったとしてもです。そうではないでしょうか?


>それは反対で、これらの慰安婦の証言の裏付けをとるための議論なんですよね、これは。慰安婦証言の裏付けが慰安婦証言だって言ってることになりますよ、これじゃ。

違います。これは悟のぱぱさんは「従軍慰安婦補償問題」と「強制連行問題」をごっちゃにされているからです。補償問題においては慰安婦証言の裏付けが必要ですが、「強制連行問題」とするならば、元慰安婦の方々の証言は証拠の一つです。この点については以前佐々木さんとお話したと思いましたが、特に異論は挟まれませんでしたね?


>それは、問題が別です。発覚しないと裁けませんよ。警察や裁判所の能力を問題にしているんですか?

当時発覚、さばけなかったのはある面仕方ないのかもしれません。しかし戦後半世紀を経過したとはいえ、新たな事実が発覚したなら国際法にのっとり処理しなくてはいけませんよね。白馬事件は幸いに発覚しましたが、発覚しない例も元銃慰安婦の方々の証言から示唆されています。


>処罰されなかったら国際問題でしょうね。しかし、それは通常の状態ではあり得ません。法治国家ですから。
>例えば、アメリカと交戦中に警官が捕虜のアメリカ人を射殺したとして、そのとき裁かれなかった。それが、戦後、国家が責任をとって賠償することになるか?と言い換えましょうか?

そうです。ハーグ条約に違反してますから。発覚した場合国家は謝罪する義務があると思います(もちろんこの場合軍事裁判で死刑判決を受けたわけではないですよね??)。それが国際法を批准した国に対する責任だと思いますがどうでしょうか?


>一言言わせて頂きますが、あなたの姿勢では結局真実はなんにも解らないとい(中略)
>のは我々の持つ一般性なのでは?そこが納得行くか行かないか、説得力を持つか持たないか、それが実は重要なことではないですか?あなたの引用した憶測に私が怒りを感じたのは、それが一般性を持たない、つまり説得力のない言いがかりだったからです。それについては前述しました。

私は論を紹介しただけです。「こういう解釈もありますよ」としただけで、真実であると主張したつもりはありません。特に従軍慰安婦問題の場合資料が著しく少ないと言う点があります。私はもとより慰安婦強制連行について「あったとは思われる」が「あったと断言できる資料に乏しく最終的な判断は出来ない」としています。きっちりした結論が出ていないのはご指摘の通りでありますが、それは「資料が少なく判断が出来ない」としているからです。判断が出来ないものに無理矢理判断を付けることは無茶と言うものです。主観が入って結果が千差万別になるからです。一つの見解に対しても疑問が残る以上その結論に飛びつくようないいかげんなことはいたさないつもりです。例えそれが国際問題であったとしても。

次に一般的におかしいことを言っていないのは「悟のぱぱさん」にとって「一般的におかしくない」のですよね。世の中には千差万別の価値観があり、悟のぱぱさんと逆の考え方を持った人だっていてもおかしくありません。まさがご自分の判断がこの世で一番公平で一般的だとは思っていらっしゃいませんよね?歴史的事実を議論する際は、様々な価値観を持つ人が集まって様々な観点から話し合い結論を出す、あるいは結論に近づく努力をします。その際に「当たり前だ」を根拠とされても失笑を買うだけでしょう。そういう歴史書があったとしたらそれは歴史書ではなく、自分の思い込みを暴露したに過ぎないのです。

私があげた論が言いがかりなら、中国の収容所では釈放を前提に供述を迫ったとするのもいいがかりではないのですか?繰り返しますが説得力が無いから駄目だとか、あるから、いいとかそういうのは歴史論議ではありません。思い込みです。どのような論も思い込みを廃して検証する事が大切であると思います。そして、それを主張するならきちんと証拠を示す。私は私のあげた「憶測」に証拠はないから主張したつもりはありません、あくまでたくさんの考え方の一つとして紹介したまでです。悟のぱぱさんはご自分が真実であると「思って」いる事しか言ってはいけないとおっしゃっているみたいですが、そんな事はないと思います。その方が豊かな議論が出来ると思います。


>で、これら、「三光作戦」「強姦所」などの戦犯管理所からの供述の「怪しさ」から考えると、鈴木中将の証言も最低ラインとして「検証は必要」という表現にはなるでしょうね。
>「オオカミが出た」というのが1度は怪しく、2度目はウソ、となれば3度目はこの目で見るまで(証拠がないと)信用できない。

これも、思い込みですよね。2回までは信用できて、3回目からは信用できないとするのはどのような論によるものですか?繰り返しますが他の書証の誤りを別の書証の誤りの根拠には出来ません。ウソが入っているとするならばきちんと証明してください。そういうのを言いがかりと言うのではないですか?


>こういうのってダブルスタンダードじゃないですか?

ちゃんと引用していて全然読まれていませんね……。ちがいます。まず、第一に検証にイデオロギーを入れてはいけない。これは大前提です。しかし、イデオロギーを排除すると数少ない証拠では全然真実に迫れ無い場合もあります。例えば邪馬台国論争などそうですね。少ない証拠を埋めて判断するのは「主観」です。こういった数少ない証拠から主観を持って判断することが歴史考察としてあがるわけですが邪馬台国論争にしても様々な説がある事はご存知ですよね?それぞれに論拠がありますが断定は出来ていないと思います。
従軍慰安婦問題も同様な面があります。主観を入れるのはあくまで一番最後の作業です。
しかし決定的証拠が無い場合「…と思われる」以上の事は言えません。しかも、結果は分かれますから最終結論には程遠いもになります。つまり、あくまで主観を入れるのは最後の作業です。またその場合には資料選択の作為が無いようにしなくてはいけないと思いま
す。証拠資料の採用から主観を入れまくっていいはずもありません。悟のぱぱさんは「怪しい」「大笑い」「当たり前」「常識」と証拠資料の検証から主観をいれてお話されています。それはおかしいのではないか?と言うことです。


>でも、真実に近づくにはそれではいかんでしょう。イデオロギーを排して歴史の真実を追求する、これはあなたが最初に主張したことです。

ならば、「あたりまえ」なんて言わないでくださいね。私は心情で判断したことは一度もありません。あくまでわかる、としたのみです。


ではでは!(引用におきましてはかってに改行、省略しております)


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