脱ゴーマニズム宣言裁判を楽しむ会議室
1998/04/24(12:24) from 130.158.104.180
作成者 :あれく(QYZ04726@niftyserve.or.jp)
Re: 悟のぱぱさんへお返事
悟のぱぱさん、こんにちわ、あれくです。

>「軍の依頼がある場合」とわざわざ断っています。つまり、あれくさんがお考えになったように、「朝鮮半島などでは犯罪を見逃していたのではないか」では、おかしいのです。彼に「悪意がある」と私が感じたのは、「軍の依頼がある場合」という部分です。朝鮮でも適用されていた刑法が、「軍の依頼があった場合は見逃していたのではないか」という部分は前に私が指摘した「日本=悪」というイメージによる憶測に過ぎません。その部分に私は悪意を感じたのです。

なるほど、これは多分、この犯罪が上海で発覚していることを問題にしているのではないかと思います。つまり、朝鮮でこれが発覚せず、上海で発覚したと言うことです。朝鮮から渡航する際はきちんとした手続きを踏み、厳重な身元調査の上渡航許可を出しますからその気になれば十分この時点で発覚したのではないかと思われる、ということを踏まえての発言であると思われます。ただ、新聞に載るときは記者がインタビューしてもかなり削り取って時にはこのように悪意のある文になることはままあると聞いております。(恐らく電話コメントでも求めたのではないかと思います)以上はやはり憶測ですが吉見教授がそのままを言ったとはちょっと思っていません。もし本当にそのままをワザと述べたとするなら、確かに「悪意」でしょうね。あるいは記者の悪意かとか。一つの考えとして考えていただければ幸いです。


>この文章の対象が内地であることに異論はありませんが、こういう歴史的な背景から真意を推測することもまた重要であろうと考えます。しかも、この通達は内地に向けてのものではなく、北支、中支の軍に対して発せられたものであることにも留意してください。現地の軍が、朝鮮からならば、業者による強制的な連行、社会問題上の遺漏も見逃してよい、と判断したでしょうか?それについては、あれくさん自身の知識、情報に加えて、私の上記の文も考え合わせて推測してみてください。

非常に参考になるご意見を頂きましてありがとうございます。今後の考察の参考にさせていただきます。個々の論には少し異論はありますが、議論の拡大を防ぐためとりあえず今はおいておきましょう。ただ、もし悟のぱぱさんがおっしゃるようなお考えを、日本の陸軍省が持っていたとするならば、やはり「植民地」も「内地」と同様に入れるべきではなかったかと思います。受け取る方は確かにそのように感じたかもしれませんが、発した側は「植民地も同じだよ」と言う意志を持って発したのかは疑問があります。これは北支、中支の軍がどう受け取ったかではなく、陸軍省の方針を見る一つの材料ではないかと思います。


>これだけで十分ですよ。私は最初から本音で言ってるだけなんで。直截すぎるのがあなたに不快感を与えている部分があるのかもしれませんが、私ははっきりと考えを表した方が誤解が少ないと思ってますんで。

私はそうでない場合の方が多いと思います。私はこれで元来結構口が悪い(らしい)のでなるべく表に出さぬようにしています。人は人の発言を好きなようにとりますから、必ずしも、本音を言えば自分の真意が相手に伝わるとは思いませんし、逆にこのようにイデオロギーに接点を見出しにくい場合には酷いときには最悪の方向にとってしまったりします。
で、人格否定合戦になる(例えば戦争責任を追求することを「反日」といい、戦争の正当性を主張することを「軍国主義」という)そういう例を見てきておりますので慎重になっています。自分自身完璧だとは思っていませんし、行き過ぎで、逆に不快感を与えたことはお詫びしたいと思います。思ったことを言えば良いと言うものではないと言うのはそういう事です。


>よくいわれるのは、明治以降の日本の戦争はすべて侵略戦争だったってやつですね。私も全然疑ってませんでした。
>当たり前のことでした。でもいろいろ聞いているうちに、アレ、違うぞって思ってきたんですね。特に日清日露戦争。この戦争は明らかに正当防衛なんです。
>最初に私が、自虐史観ってものに不審を感じたのはこの戦争に対する記述ですね。ま、異論もありましょうが、これは本論からずれますんで...。

私も明治以降の戦争がすべて侵略戦争と言う側面のみで語られることには、同意できないものです。日本は西欧列強に対抗するために戦争したし、結果アジアの人々が日本を含む列強に翻弄され苦しんだのも事実です。一方的な面からではなく、様々な面から見ないと歴史は見えないと思うし、自分がどのように思うにせよ、そのスタンスを知っておくことは重要だと思います。


>私は意に添わない人を「精神状態がおかしい」としたのではなく、あなた自身が(建前はともかく)本音では「怪しい」とおっしゃってくれた如く、「強姦集計表が存在する可能性はある」と堂々と主張する人がいたとしたら、私の主観ですけれど、「大丈夫かな?」と思うという事を直截に述べたのみです。

主観による、人格の否定的表現は無用の誤解を避けるために避けた方がよろしいと思います。私が謝罪を要求したのは受け止める人によっては悟のぱぱさんに対してもよからぬ感情、先入観をいだき、建設的な掲示板の存在を阻害すると思ったからです。


>その方々は、論理学と歴史考察を同一視しているってことですか。それでは、結論などなにも出ないでしょうに。決して、裁判と歴史考察を私は同一視しているわけではないですが、あえて言うなら、論理学よりは裁判の方が近いんじゃないかなと思っただけです。
>で、結局あなたの思索の方法を突き詰めていけば、全ての議論は、

裁判は白黒をはっきり決着付けます。疑わしいだけだったら、無罪になります。しかし、歴史はそうではないと思います。第一歴史論争において誰が裁くと言うのでしょうか。裁判でも裁判官の判決が必ず一致するわけではないですよね。正直言いまして、現時点において従軍慰安婦問題に決着を付けることは不可能と思っています。それはあまりにも資料に乏しいからです。この前完全否定のお話をしましたが、逆に完全肯定も不可能なのはご賢察の通りです。その中で何が確かかを決めるのは結局自分の主観でしたがって解釈も多くあります。どれが正しいのか、間違っているのかという議論は証拠が無ければ無いほど不毛で、全ての論について知り、そのうちで一番自分に合った立場を選び、違う立場を取ったものも自分から見て「笑う」に値しても尊重する。そして議論を深めて真実に近づいていくことが重要だと思っています(到達できるとは限りませんが)。

乱暴な話、歴史はすべて憶測だと思います。だってチンギス・ハーンが世界を席巻したのを見たと言うのを今現在誰が見たと言うのでしょうか?それは歴史資料により憶測されたものです。ただし、その憶測があまりにも多くの人に支持される場合、史実として歴史となると思います。反面多くの人が支持し、本に載っているからと言ってそれが永久に覆らないものである保証はないと思います。しかし、多くの人に支持されるならば事実として問題ないだろうというものです。それが人間の限界だと思いますし。

国際的世論、日本としての立場、元慰安婦の方の事情、いろいろあるでしょうが、それは歴史考察に直接的に考えに入れるべき物ではなく(歴史においてです)結論を急ぐことは純粋に歴史から見れば意味はないと思います。軍の関与による従軍慰安婦強制連行問題は証拠が少なくそういう問題であろうと思います。


>吉田証言も主観による済州島調査に対する疑惑をずーっと引っ張ってこられて(何度やりとりしたことか!)、やっと主観を排したら「うそ」とおっしゃいました。これほどまでに主観を重要視してたのはあなたでしょうに。

重要ですが、「判定の根拠、証拠」にすべきではないと思っています。どうとでも言えるからです。吉田証言は資料的に見ても自分の否定があるし、済州島調査もあるし、それに対する疑問は証拠の無い主観です。その主観を判断材料として「済州島調査はうそ、吉田証言は真実だ」とは断定できない、としています。極端に一言で言えば「うそ」と認めるということですが、その前には非常に長い主観的疑問文がだらだら続きます。でも、主観を判定基準に出来ない以上現時点においては却下されて文句は言えません。吉田証言は証拠にならないとする(言葉を飾ってもしょうがないですから要するにウソだとする)のはそういう意味です。ただ疑問があり、そういう考え方もあると理解していただくだけです。
同様に「これは怪しいから却下」「当時は多分こうだったに違いない」というのは無理だと申しております。厳密に言えば判断の根拠としてあまりにも貧弱であると思います。

対して私が主観が入るとしているのは資料(もちろん信憑性の高い証拠です)を見てそれを認めつつ主観を入れて歴史考察(考察すると主観が入るのは否めません)することです。
例えば副官通牒から悟のぱぱさんが見た当時の歴史考察のようなやつです。主観ですが反論のしようもないです。と言いますか、反論に意味があるとは思えません。なかなか説明が難しく、ご迷惑をおかけしています。その点はお詫びしたく思います。ただ、歴史観は入ると思いますが当時意外の政治情勢、国民感情、個人的政治イデオロギーなどは入れるべきではないと思います。


>こういう論陣を張っているあなたに私の姿勢がダブルスタンダードと言われるとは思いませんでした。
>「強姦所」の存在や「強姦集計表の可能性」も新しい資料を待ちたいところでしょうか?

そうです。察するに悟のぱぱさんは「ゴー宣」と「朝生」だけでその史料が出てきただけ
で、それを「怪しい」と判断されていますよね。繰り返しますが中身も良く知らずにそういう態度をとらないとしているのです。存在自体は認めていますが、それがどのような経緯で出てきたのか主観で判断せず、否定はしませんが、肯定も出来ない。とします。

それから「三光」と言う本は戦後に出た本です。中国で作られた言葉でありますが、当時の供述通りの犯行をした人たちが、反省の意味を込めてあえてつけた名です。自分達のやったことを反省し「三光」としてみとめている、と言う意味でそれが怪しい理由になるとは思えないのですが。戦後日本でも用いられるようになった「三光」の名を使ったから怪しいのはちょっと理由として納得はいきません。それに当時の中国の収容所の様子を現わすのは、三光が唯一のものではないですし。供述がウソ、強要なら、帰還してから否定すればいいわけですし。ましてや出版しなければいいはずですし。全員が全員「偽りの記憶」を刷り込まれたと言うのも可能性としては低いと思います。(中国の資料の中に当時の日本の公文書資料があってそこに「三光」と書かれていたら怪しいですけど、戦後なら供述に使われても全然おかしくないでしょう。そういう言葉を知っていれば良いのですから。
多分看守達を通じてそういう言葉を知った事は考えられますし)


>なんども言ってます。お読みくださってないのですか?私が持ち出した「一般的で自明なライン」ってのは存在の証明されない「強姦所」で「年齢入り強姦集計表」を作ることが出来る人などどこの国にもいませんって事だけ。もう繰り返しませんので、理解するなり否定するなりお好きなようにしてください。
>ところであなたはこうおっしゃいました。

だから、「強姦所」で「年齢入り強姦集計表」を作ることが出来る人などどこの国にもいませんという基準をどうやって決めたのか聞きたかったのですが。では私は「悟のぱぱさんの自明の理論によって証明してもそれが事実である保証はない、これは自明である。」
としましょう。強姦所にしても「慰安所」などの比喩表現を用いて、それが誤ってあたかも存在したように記録された可能性もあるわけですし。「集計表」も実際そうだったのかもしれません。事実は個人のの主観には本質的に関係なく根拠になり得ないのです。「強姦所」と言う言葉でそれが実際あったのか無かったのかだけを論ずるのには無理があります。要するに証拠が少なすぎて集計表にせよ強姦所にせよ自明の取り方を変えれば否定も肯定もどうとでも言えるわけです。そんな証拠を強引に当たり前だけで使いますと事実が見えないと申しております。繰り返しますが、資料の選択、判断等に主観を入れるべきではありません。出来るのは当時こうだったのだと「憶測」することだけでそれを持って別の論拠に持っていくべきではないと思います。


>今回あなたがおっしゃったようにその人が異常な犯罪者(常軌を逸した犯罪を犯す人はそう呼ばれますね)なら話は別ですが、それならばなおのこと、その供述は信用に足るものとはいえないような気がします。もっとも供述者を異常であるとするあなたのお説こそ「大笑い」どころではなく、その人に対する誹謗だと思いますけども。その辺はよく考えてお書きくださいね。

それは検証次第であると思います。ところで私の申しました「常軌を逸した犯罪の犯人」
の何が「常軌を逸した」かと申しますと、あくまでその「犯罪行動」が一般社会の常識をかけ離れているとしたもので、その「犯人を異常」とする趣旨は全く込められておりません。両者は必ずしも一緒ではないと思っております。こういうのを一緒に考えることが思い込み、先入観と言うのではないでしょうか。それでもご自分の自明である判断は正しいのでしょうか?


>それにしても憶測をぶつけ合うことにこそ、あんまり意味があることとは私には思えませんがね。

いえ、それによって自分の今まで考えていなかった部分を知り、みずからの考察に豊かさ、と申しますか幅を持たせることに意義があると思います。また、それが目的です。重ねて申し上げますが先の悟のぱぱさんの考察は今後の参考にさせていただきます。それと、一応文意からは読み取ってはいるのですが下記いたします白馬事件のように私の主観が入り込み、悟のぱぱさんの趣旨を曲げることもありますので、明言していただこうと思いました。私が悟のぱぱさんがこう思っていると言うのは自明でない思い込みですから間違う事だってあり得るのです。要するに他人を知った気になるのが相互理解において一番危ないかと思っているからです。


>違いますって!憶測に憶測で答えたっていうから、最後の一文はいらないって外しただけ。
>あなたのするべき返答は、「いいえ、これでも憶測です」か、「これで、憶測ではなくなりました」の二つにひとつ!
>自分のお書きになった論旨ですから正確に把握してください。

自明なことって言うのは主観によるもの、したがって憶測の一つだと思いましたので。個人的に「憶測」と言うことが自明でありましたので、明言致しませんでした。それに悟のぱぱさんにとって自明は根拠の一つみたいでありますし、先のようなレスを返した次第です。ともかくはっきりお答えするなら、これはまだまだ私から見れば「憶測」です。ところで私の言いたかったのは、憶測に憶測を重ねてはいけないと言うのではなく、「憶測に対して(大笑いして)憶測で対抗するだけでなく、きちんと自分の見解も言いましょう。それが歴史考察です。」とするのが論旨で(その後の引用で悟のぱぱさんのご意見を当方で消してしまったことは改めて深くお詫びします)そういう見方もある、こういう見方もあるとして尊重すべきではないかと言うことが言いたかったので、憶測である、憶測でないと言うのは本質的に問題ではないのですが。


>え、違いますよ。この場合、「慰安婦証言は検証の結果、事実だった」となります。だって、検証のために書証を探してるんでしょうに。

慰安婦証言をして何を差すかですが、私は元慰安婦の方の証言の具体的中身について述べております。だって、仮に書証(命令のような直接に証言を裏付けるものではないもの)が見つかったとしても、その人の証言が何等かの勘違いである「偽りの記憶」可能性が消えたわけではないでしょう?そういう意味です。慰安婦証言をして「軍による強制連行の有無自体」を差すならば、その通りだと思います。


>容疑者の尋問をするのに何年も掛けた場合、容疑者にかなり確固たる偽りの記憶が植え付けられるだろうことは、この事例から明らかになりそうな気がします。

いや、ですから、実際に鈴木氏が歪曲が起きるような尋問されたとか、それを示唆する(例えば他人の証言とか)証拠が出てないと言うだけです。(私が知らないだけかもしれませんが)もし仮にあるとしましたら、その通りであり、その分信憑性は薄くなると思います。ただ、中国の戦犯管理所のあり方に何等かの先入観は入っておりませんでしょうか?
「戦犯管理所=悪」のイメージは入っておりませんでしょうか?ところで、こういう偽りの記憶は必ず発生するものなのでしょうか?それとも、そういう例もあると言うことでしょうか?鈴木氏は十分大人になってからの記憶と思われますので、そこで何等かの偽りの記憶が刷り込まれるのはちょっと思えないのですが、それも十分大人になった方が偽りの記憶を埋め込まれたそういう例はあるのでしょうか?


>どのように、ゴー宣は資料のもちいかたが作為的なのでしょうか?例示してください。

従軍慰安婦の話ではなく(その点は上杉氏に任せましょう)南京大虐殺の方について例示致したいと思います。

例えば30万人虐殺説とかありますよね。それに対する反論として当時の南京の人口が22人であったとする論旨があったと思いますが、これは南京大虐殺の定義を考えてないと思います。南京大虐殺は一般的に南京における掃討戦だけでなく、上海戦からの南京攻略戦における不法虐殺と考えられていますので、前者の30万人はそこから来ていると思われます。それと南京の人口を比べるのは本質的に意味はないと思います。有り得ないことを強調するイメージ操作の作為ではないかと思いました。また、南京城の周りにも人は大勢住んでいたそうです。もしご存知ならその辺の定義から言及して欲しいですしね。もっとも30万人説が崩壊したのはとっくの昔の事実らしいでが。事実ならいいと言うものではないですし。

それからこの前藤岡氏と渡部氏が対談で使用していた例についてです。南京大虐殺において「マギー神父が見た虐殺は一人である」(これはゴー宣でも触れられていたと記憶しています)は事実を反映しておりません。作為的に資料を選定すればその通りだと言えるかもしれません。正確には自由主義史観の方々の言葉を借りれば「あいまいな証言」となります。まずマギー神父は極東軍事裁判の資料によると

「私は自分の証言の中ではっきりと申してあると思ひますが、唯僅か一人の事件だけは自分で目撃しました」

としています。この証言だけを見ればああ、一人だけなのだな、と思われますが、別の証言で

「時々中国人が列を作つて引張られて行く、さうして殺されるのを私は目撃したのであります」

ともしています。矛盾が生じてます。少なくとも「マギー神父が見た虐殺は一人である」とするのは無理があり、検証が必要と思われます。この点については何等かの見解があるのでしょうか?それとも、作為的に資料を用いたのでしょうか。ただ単に知らずに検証されていないだけでしょうか。そうすると「作為」とは強弁できませんけど。もう少しちゃんと調べて欲しいですね。


それから白馬事件のスタンスですけど、私自身は変えていません。あくまで、「慰安所の閉鎖は国際的批判を避けるため」で「国際法尊重」ではないかと思いますが、確証はないです。善意に考えても人道的見地ではないかと言うのは国際法上、「罰しなくてはいけない」としているので「国際法尊重」とは言い難いのではないか?「慰安所を閉鎖」し、「関係者を処罰」しなかったと言うことを踏まえ、「慰安所閉鎖」について(少し見方を変えて行動を善意に解釈しても)「人道的見地」ではないか、としたものです。もっともこの見解自体は苦しいので私自身は「国際非難を恐れたため」であるとし、「女性を隔離した」のは噂が広がり戦後国際問題になることを恐れたのではないかという見地です。(結局しゃべれば同じとしますが性被害を受けた女性が必ず被害を訴えるとは限りません。隔離して情報を制限しておけばそれだけ発覚する確率は少なくなると思います。完璧ではないがなるべく自分達にとってベターな方向で処置したと思います。もっともこの目論見は逆効果を生みますが。そこまで思い付かなかったとすることも可能でしょう。儒教の影響を受けているがゆえに、女性に「一人では性被害を訴えることは事は出来ない」という先入観が無かったとは言えないでしょう。結局どうとでも言えます。)

とりあえず、そんなところで。


ではでは!


前の発言へ 次の発言へ List Index