脱ゴーマニズム宣言裁判を楽しむ会議室 |
---|
1998/04/28(14:28) from 130.158.104.180 |
作成者 :あれく(QYZ04726@niftyserve.or.jp) |
Re: 悟のぱぱさんへ |
こんにちわ、悟のぱぱさん。あれくです。
この例がいつのものかにによると思います。今確かめますと「不良分子の…」は1937年8月に出されています。やはりそういう状態があって、制定されたと言うことは想像が出来ます。で今気がついたのですが先の判決の例はやはり1937年なのでぎりぎりか、もしくはアウトで私の論拠はそれこそ崩れるかもしれませんが一応申し添えておきます。
悟さんが、どう思おうとそれは良いけど、それを安易に口に出さない方が良いとしたまでです。悟さんの主観を否定する意味は込められておりません。あくまでおせっかいです。余計でした。
これからチェックしてみます。
一定の主観による判断を、別の論拠に持っていくかいかいかないかの違いです。例えば吉田証言では「疑わしい」と思いましたが、それを持って断定することはしません。証拠をそろえて「最後に」判断すると言う意味です。
まず、兵士は全ての兵士が最後まで戦闘を行なったわけではありません。投降兵・捕虜が多くいたことは分かっております。捕虜は当時日本が批准していた「ハーグ条約23条」により、害敵行為の禁止として「兵器を捨てまたは自衛の手段尽きて降をこえる敵を殺傷すること」とありますので、彼らの処刑が正当な軍事裁判にのっとって行なわれたものでない限り、これを虐殺に数えることは妥当だと思われます。戦闘行為については数に入れません。それから民衆が逃げ込んだわけは容易に想像できます。南京城が落ちるとは思っていなかったのでしょう。それから南京の人口と言う場合今手元に南京安全区国際委員会の資料が無いのですが、一般に「南京市の人口」は城内だけでなく、その周辺の人口も含まれますし、また虐殺被害者の対象として数えられると思います。11月23日の南京市政府の書簡には「現在の人口は約50万である。更に難民が20万見込まれる」と書かれています。彼らの一部は逃げまた、外(南京市外)から逃げ込んだ数も含めて40万人から50万人としています。兵士の方はかなり明確な論拠があるのですが、人口の場合は極めて資料が少ないと言わざるを得ません。ただ、12月下旬の人口が20万人と言うのは少なすぎるか、南京城内の数値ではないでしょうか。また、再び人口が増えたという事はまず、治安が回復してきたこと、それから、他にいくところの無かった難民が戻ってきたことが考えられます。実際のところ南京陥落後の「南京市(南京城とその周辺)」の人口がどれだけであったのかは分かりません(私には今のところ)。ただ、30万人虐殺が不可能であるとする論拠は、やはり、人口が特定しにくく、虐殺は人口の引き算でなく実際の虐殺資料の様子等から数えられるべきで、現在その方面からの研究が進んでいるそうです。これは受け売りなんですが現在の段階においても数万から二十万程度と非常に幅広い数が示唆されていまして一概には言えない状況なのだそうです。
この点も私のあいまいな点があったことは認めます。了解しました。謝罪して撤回します。
これについては良く分かりません。ただ、マギー氏は証言で「そういう写真および活動写真を撮ったのであります。それによりますと…」としていますので、提出したのかもしれません。ただ、これは余談ですが、写真と言うのは基本的にいつ取られたのか、どこで取られたのか判断するのが難しいらしく直接証拠になることは難しいらしいです。マギー氏のフィルムと言うのは以前ニュースで発見されたとか無かったとか聞きましたが、確認していないので、言及は控えさせていただきます。
分かりました。本意ではありませんでしたがが、そのように受け止められると言うことで、その点については謝罪致したいと思います。
|
前の発言へ 次の発言へ List Index |