脱ゴーマニズム宣言裁判を楽しむ会議室
1998/05/02(16:32) from Anonymous Host
作成者 :あれく(QYZ04726@niftyserve.or.jp)
Re: あれくさんへ。
悟のぱぱさん、こんにちわ。あれくです。

>とおっしゃっていたはずですが?確認の意味でお伺いしたんですけど?

ええ、ですから、記事にあったことそのままをワザと言ったとしたら作為かもしれないし、悪意かもしれない。しかし、インタビュー記事からではそれは読み取れないし、私自身悪意があったとは思わないと言う意味です。


>私が、もし上杉さんの立場として、吉田証言がウソだという結論に達したら、「今まで、コレを論拠にしていたんですけど、間違いでした。韓国のみなさんも、この吉田証言は公式見解から外してください。どうも申し訳ありませんでした」
>と言います。確実に。それが責任ってものです。
>それともなんですか?イデオロギー的に、その撤回は謝罪派にとって不都合だから黙っていよう、ってことでしょうか?だとしたら、何をかいわんやですが。

何度となく、吉田証言については触れましたが、私は上杉氏が「吉田証言がウソである結論に達した」と主張しているとは思っていません。また私自身も達したとは思っていません。ただこれは主観・憶測の問題で「現時点」においては「ウソとしても仕方ない(ウソである)」としている訳で、今後どのような展開になるかによって変わってくると思っています。その理由が吉田証言をめぐる調査の数々の疑問や、上杉氏の場合は実際にインタビューした手応え等から感じたことだと思います。疑問が残っているのに安易に「ウソ」と断定したり「本当」と主張したりする方がよほど信頼が置けないと思っていますし。私自身もこの点に関しては前に「ウソならウソで疑問をすべて払拭した証拠をそろえないと政治イデオロギーも絡んで納得はしてもらえないだろう」と申し上げたと思います。

疑問をすべて払拭する結論を導き出す。私はそれが上杉氏の責任だと思っています。とにかく、政治や基本的な「常識」すべてはイデオロギーです。その考え方は一人一人違って、違うこと自体非難に値するとは思えませんし、非難に意味があるとは私は思えません。自由主義史観にしても「東京裁判史観からの脱却」を考えること自体が悪いとは一度も思ったことはないです。とにかく、イデオロギー問題は泥沼化した割に有意義でない結果になる。だから言及を避けたいと思っているだけです。


>あれくさんもおっしゃる通り、まず、当たり前のことでも疑ってかかる。これは確かに重要な事です。そして、この「南京事件」も、それに当てはまります。忠告させていただきますが、疑ってかかる方向も一方にのみ向いていたら全く盲信と同じことですよ。

そうですか、盲信ですか。私自身は別に笠原氏の著作だけを読んでいたわけではないのですが(資料出典において笠原氏の著作を利用しただけです)。その中から、笠原氏の推測と事実を選り分けてその中の資料からかなりひねった考え方も取り入れて自分なりの見解を出したつもりなんですが。まあ、それが盲信だとおっしゃるなら別にかまいませんが。確かに私自身勉強不足の感も否めませんしね。南京市の人口に関しては定説が固まっている訳ではないので、笠原氏の説に異議があっても別に不思議ではありません。一人の方の説はその一つ一つを検証の上批判すべきで「間違った写真を取り入れたからこの本は信用できない」等とは私はしないつもりです。

さて、最後に通州事件について感想を聞きたいと言うことですので、もう作為について言及しないし、議論の拡大をしないと申しましたが、いくつか述べたいと思います。一つの歴史を書こうと思うとき事件の取捨選択を行なうのは結局一個人の主観であり、イデオロギーに左右されます。同じ歴史的事実を前にしてそれを取り上げて歴史を作るとき主観が入るのは極々自然なことだと思っています。同じ歴史的事実を持ってしても2つとして同じ歴史は出来上がらないと思います。それこそ「史観」と呼ぶべきものでイデオロギー上の問題である以上「史観」の取り方によって非難を受けることに意味があるとは私は思っていません。この世にある史観論争は「史観」の取り方が、自分達の主観と違う場合「悪意」や「作為」を感じ、似ている場合「これこそ事実」だと思う。それだけの事だと思っています。ですので、私自身「偏っている」「作為がある」とかいう史観論争をするのは本意ではありません。乱暴な話史観なんて「偏っていて」「作為が入っていて」当たり前で、それを非難し会うことではなく、お互いにそういう見方があることを認めることが重要だと思っていますので。前に小林氏の作為について述べようと思ったのは決して作為の無い史観が無いことを強調しようと思ったのですが、まあ、作為があるないと言うことを述べること自体が意味が無いし、建設的でないですし、憶測のぶつけ合いになるので取り下げさせていただきました。

ともかく、その上で通州事件を見てみますと私自身は読んだことはないのですが「通州事件」自体を歴史上においてどれだけ重要視するかと言う主観がその掲載に関わっていると思います。私自身は少しくらい言及すべきと思いますが、載せなかったこと自体を非難しようとは私は思いません。それはその人の歴史の取り方だったのですから。悟のぱぱさんが例えばそれに対して非難しようとするならそれはお止めいたしません。が、私はそれをしようとは思いません。同様に自由主義史観に関しても「これは作為じゃないか」と思えることはもっと他にも多々あるのですが、もうそれを非難しようとは私は思いませんし、いちいちあげるつもりもありません。私は自分で素人なりに何が歴史上起きたのか見極めたいと思います。無論通州事件を避けて通ろうとは思いませんが、「今」私が集中したいのは従軍慰安婦問題であり、南京大虐殺問題等の戦後問題です。そういう態度が非難に値するのなら、仕方ありませんが、私も少ない時間を工面して勉強している都合上いろいろと手を広げられないのも事実です。勉強していない以上詳しい言及は避けようと思いました。

まあ、「感想」と言いましてもこれまた主観の問題ですから、建設的で意味のある議論になるとは私は思えません。それなのでその点についても言及はこれ以上避けたいと思います。

ではでは。


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