脱ゴーマニズム宣言裁判を楽しむ会議室
1998/04/30(18:42) from 130.158.104.180
作成者 :あれく(QYZ04726@niftyserve.or.jp)
Re: あれくさんへ。
悟のぱぱさん、こんにちわ。

>1937年だとすると、少なくとも、朝鮮での判例はアウトですね。1921年です。日本での判例は難しいところですね。
>吉見教授の憶測、「軍の依頼があった場合見逃していたのではないか」はかなり怪しいと思います。で、結論的には、もしあの文が吉見教授の手になるものならば、あれくさんも、吉見教授が日本に対して悪意がある、と思いませんか?

私は思いません。私はきちんとインタビューの内容やその時の状況みたいなものが含まれて生まれたと思っています。それが省略されてああいう形になったものと思っています。どの道、短いインタビュー記事だけでは、そこまで判定することは不可能だと思います。

ところで小林氏の件に関してもそうですが、私はこれ以上他人の作為について言及は止めることにします。考えてみれば、一個人が悪意がある、無いなどと言うことを判断する事は記事等から判断し主観に頼っているだけですから建設的でないですしね。本人の意志を確認できない以上、結局「憶測のぶつけ合い」になりますので。私も話を振っておいて申し訳ないのですが、不毛論争になりそうなので、止めておきます。ですので小林氏の作為の件に関しましては全て撤回したいと思います。まことに軽率なことをしたと思っております。申し訳ありませんでした。

また後述されています通州事件については名前と簡単な内容は知っていましたが具体的には良く知らないのでこれも言及は控えます。


>最後に判断するために必要な証拠とはどの程度のものでしょうか?秦教授の調査では足りず、さらなる調査を待ついうことはどこまで続ければよいのでしょうか?その線引きがわからないのですが。私は吉田証言についてはアリ派のみなさんと言えど、未練など残さずはっきり最後の判断をするべき時期ではないかと思いますが。そして、当然、それを流布させた上杉氏はじめ謝罪派の方々は責任を取って謝罪と撤回をするべきだと思います。当然韓国に対しても撤回を働きかける義務がありますね。

撤回義務云々と言う話は、イデオロギー上の問題ですので言及を控えます。ただ、調査は恐らく永久に行なわれることでしょう。その上で現時点での見解を作らなくてはいけないと思うのですが、それにはあまりにも証拠が無いと思います。どの程度と言われるとまことにあいまいですが、現時点では少なくとも結論を出す事は無理、と言うのが私の考えです。特に今はイデオロギーが絡んでいますので、余計にわかりにくくなっていると思います。


>「数に入れません」とおっしゃいますが、では、どれだけの数の兵士が戦闘行為で死亡し、どれだけの数の兵士が捕虜となったあと虐殺されたのでしょうか?多くいたことは分かっていますが、それを虐殺した証拠がありますか?便衣に着替えて戦闘行為を続行した兵士の処刑は行われたと聞いておりますが。さらに捕虜の反乱の鎮圧で死者が出たことも分かっています。

この点に関しましては、はっきりいって分かっていないと思います。分かっていたら、まだ、数の認定が楽になるでしょうけど。とにかく、捕虜、市民ともその具体的数は未だ研究中だそうです。しかし、投降捕虜の処刑が行われたのは事実らしいです。このような場合日記や戦闘詳報にその跡を垣間見ることも出来ます。一例として戦闘詳報などでは「旅団命令として捕虜は全部殺すべし」「監禁室より50名ほど連れ出し(中略)刺殺せしむこととせり。(中略)おおむね午後7時30分刺殺を終り、連隊に報告す。」(第114師団第66連隊第1大隊戦闘詳報)などとあります。また当時の日記にも同様に「片端より殺戮す」(佐々木日記)という記述が見られます。本来ならば軍事裁判を経なくてはいけないはずですが、それらの裁判記録と言うものが残っていないと言う事実から考えて虐殺と考えられると言うことだと思います。(以上全て出典は笠原十九司「南京事件」より)

便衣兵の扱いはハーグ条約で否定されている以上非常に難しいと思うのですが、やはり、正式な軍事裁判にかけた上で、処刑と言うのが一番適当だと思います。でないと冤罪の可能性もあるわけですし。軍事裁判にのっとった処置であれば妥当と思います。もちろん、便衣兵をして戦闘行為をしたものについては論外であると思われます。


>また、当時の日本軍の強さは内外に鳴り響いていたのです。10倍以上の軍を以てしても蒋介石は日本軍に勝てるとは思っていませんでした。それは、中国人にとっても当たり前の認識でした。また、松井石根司令官は、降伏勧告をしたのです。中国軍が有利ならば降伏勧告などするわけもないでしょうし、民衆が、降伏勧告された町に逃げ込むというのはどう考えても無理がありませんか?

降伏勧告された旨、当時の中国軍と日本軍の戦力差などは全ての住民、難民に正確に行き渡っていたのでしょうか?仮にそれに知っていたとしても行き場が無かったと言うことも有り得るでしょう。また地図を見る限りでは長江を渡らないと日本軍の包囲からは逃げ切れないでしょうし。とにかく人口に関してもあいまいな点が多く、うかつに結論に急ぐことは控えたいと思います。今現在におきまして出来ることは憶測するのみです。


>南京城内の安全区の数字です(これは難民の食料を調達するためにかなり正確に把握されたものです)。重要なのは、同じ南京城内における人口が1ヶ月の間に20万人から25万人に増加しているという事実です。あなたのおっしゃりたいことは周辺部を計算に入れていないということでしょうが、中では人口は増えているわけですから、では、虐殺があったのは、南京城の中ではなく外という事でしょうか?

>10万人を虐殺するためには1日1万殺したとしても10日間必要です。その後の20日間に急速に治安が回復し、15万の人間が帰ってきたということでしょうか?ちなみに、マギー神父の証言が「真実」とすれば、1月になっても治安が回復していたとはとても思えないのですが?(昭和13年になってからも500人規模集団虐殺があり、放火も毎日続いていたと証言しています。さらに落城後数週間経っても城内に帰ってきた人が殆どいないという証言もあります。)彼の証言と、実際のデータに基づく人口の変化からあれくさんが推測する治安の回復との矛盾はどう考えるべきでしょう?

虐殺は南京城の外でも中でも行われたと思います。それから先に悟のぱぱさんが申されました人口が安全区の人口だとしましたら、城の外から安全を求めた市民が押し寄せてきた、と言う解釈が成り立つと思います。先に申しました通り、一般に「南京の人口」とした場合、南京城の安全区の人口と、南京市の人口とは区別して考えねばならないと思います。安全区は城内のごく一部ですしそれを持って人口を推するのは無理でしょう。当時の南京市の人口が正確にどれだけか分からない以上数の引き算だけで判断するのは危険だと思います。


ではでは。


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