脱ゴーマニズム宣言裁判を楽しむ会議室 |
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1998/04/30(00:16) from 202.211.65.137 |
作成者 :悟のぱぱ(ymaeda@ps.inforyoma.or.jp) |
あれくさんへ。 |
あれくさん、こんにちわ。 >この例がいつのものかにによると思います。今確かめますと「不良分子の…」は1937年8月に出されています。やはりそういう状態があって、制定されたと言うことは想像が出来ます。 そうでしょうね。私もそう思いました。 >で今気がついたのですが先の判決の例はやはり1937年なのでぎりぎりか、もしくはアウトで私の論拠はそれこそ崩れるかもしれませんが一応申し添えておきます。 1937年だとすると、少なくとも、朝鮮での判例はアウトですね。1921年です。日本での判例は難しいところですね。 >一定の主観による判断を、別の論拠に持っていくかいかいかないかの違いです。例えば吉田証言では「疑わしい」と思いましたが、それを持って断定することはしません。証拠をそろえて「最後に」判断すると言う意味です。 最後に判断するために必要な証拠とはどの程度のものでしょうか?秦教授の調査では足りず、さらなる調査を待ついうことはどこまで続ければよいのでしょうか?その線引きがわからないのですが。私は吉田証言についてはアリ派のみなさんと言えど、未練など残さずはっきり最後の判断をするべき時期ではないかと思いますが。そして、当然、それを流布させた上杉氏はじめ謝罪派の方々は責任を取って謝罪と撤回をするべきだと思います。当然韓国に対しても撤回を働きかける義務がありますね。 >まず、兵士は全ての兵士が最後まで戦闘を行なったわけではありません。投降兵・捕虜が多くいたことは分かっております。捕虜は当時日本が批准していた「ハーグ条約23条」により、害敵行為の禁止として「兵器を捨てまたは自衛の手段尽きて降をこえる敵を殺傷すること」とありますので、彼らの処刑が正当な軍事裁判にのっとって行なわれたものでない限り、これを虐殺に数えることは妥当だと思われます。戦闘行為については数に入れません。 「数に入れません」とおっしゃいますが、では、どれだけの数の兵士が戦闘行為で死亡し、どれだけの数の兵士が捕虜となったあと虐殺されたのでしょうか?多くいたことは分かっていますが、それを虐殺した証拠がありますか?便衣に着替えて戦闘行為を続行した兵士の処刑は行われたと聞いておりますが。さらに捕虜の反乱の鎮圧で死者が出たことも分かっています。 >それから民衆が逃げ込んだわけは容易に想像できます。南京城が落ちるとは思っていなかったのでしょう。 >11月23日の南京市政府の書簡には「現在の人口は約50万である。更に難民が20万見込まれる」と書かれています。彼らの一部は逃げまた、外(南京市外)から逃げ込んだ数も含めて40万人から50万人としています。 11月23日では、不拡大方針による逡巡のため、日本軍が南京攻略を命じる前の時点ですので、全く参考にはならないと思われます。 また、当時の日本軍の強さは内外に鳴り響いていたのです。10倍以上の軍を以てしても蒋介石は日本軍に勝てるとは思っていませんでした。それは、中国人にとっても当たり前の認識でした。また、松井石根司令官は、降伏勧告をしたのです。中国軍が有利ならば降伏勧告などするわけもないでしょうし、民衆が、降伏勧告された町に逃げ込むというのはどう考えても無理がありませんか? >兵士の方はかなり明確な論拠があるのですが、人口の場合は極めて資料が少ないと言わざるを得ません。 ちなみに、中国軍の数ですが、公文書では5万だったと聞いていますけど。15万という数は多すぎませんでしょうか? >ただ、12月下旬の人口が20万人と言うのは少なすぎるか、南京城内の数値ではないでしょうか。 南京城内の安全区の数字です(これは難民の食料を調達するためにかなり正確に把握されたものです)。重要なのは、同じ南京城内における人口が1ヶ月の間に20万人から25万人に増加しているという事実です。あなたのおっしゃりたいことは周辺部を計算に入れていないということでしょうが、中では人口は増えているわけですから、では、虐殺があったのは、南京城の中ではなく外という事でしょうか? >また、再び人口が増えたという事はまず、治安が回復してきたこと、それから、他にいくところの無かった難民が戻ってきたことが考えられます。実際のところ南京陥落後の「南京市(南京城とその周辺)」の人口がどれだけであったのかは分かりません(私には今のところ)。 1ヶ月の間に治安が回復し、5万人も人口が増えた町で虐殺が行われたというのはとうてい信じられませんが?例えば、10万人の虐殺があったとすれば、1ヶ月の間に15万人が帰ってきたということになります。 >ただ、30万人虐殺が不可能であるとする論拠は、やはり、人口が特定しにくく、虐殺は人口の引き算でなく実際の虐殺資料の様子等から数えられるべきで、現在その方面からの研究が進んでいるそうです。これは受け売りなんですが現在の段階においても数万から二十万程度と非常に幅広い数が示唆されていまして一概には言えない状況なのだそうです。 何故、あり得ない30万という誇大な数字が出てきたのかという点を考慮することも歴史的考察ですので、考えてみてください。 >>東京裁判の検察側の文書「南京地方法院検察処敵人罪行調査報告」というのは判決文ではありません。検察側の調査報告です。これに30万という虐殺者数が記されています。なんかごっちゃになっているのはあなたの方で、検察側の調査報告と、判決文とを混同しています。(中略) >この点も私のあいまいな点があったことは認めます。了解しました。謝罪して撤回します。 あいまいな点があったというより、この点は明らかにあなたの事実誤認です。 >これについては良く分かりません。ただ、マギー氏は証言で「そういう写真および活動写真を撮ったのであります。それによりますと…」としていますので、提出したのかもしれません。 一枚も提出されていません。岩波の本にはそういう虐殺アリ派に不利になることは書いていないでしょうね。岩波のやり方については後述しますが。 >ただ、これは余談ですが、写真と言うのは基本的にいつ取られたのか、どこで取られたのか判断するのが難しいらしく直接証拠になることは難しいらしいです。マギー氏のフィルムと言うのは以前ニュースで発見されたとか無かったとか聞きましたが、確認していないので、言及は控えさせていただきます。 にも関わらず、南京虐殺の写真というモノは無数に出回っており、その殆ど全てが偽物だということが暴かれているってことをご存じですか?酷いのになると、かの済南事件における日本人の被害者の写真を南京虐殺の被害者の写真と偽ったというケースすらあります。(済南事件をご存じないかもしれませんが...。) >分かりました。本意ではありませんでしたがが、そのように受け止められると言うことで、その点については謝罪致したいと思います。 小林よしのりが資料を作為的に用いてなどいなかったということもお認めになられたのですね? 作為的と言えば、私は最近知って大いに呆れさせていただいたのが、岩波です。 また、清の最後の皇帝でのちに満州国皇帝となった溥儀の家庭教師ジョンストンの手記が、「紫禁城の黄昏」という邦題で、岩波から出ていますが、なんと、意図的に10章以上が削除され、原書の意義が損なわれているということです。(以上二点、渡部昇一「かくて昭和史は甦る」より) これらこそ、資料の作為的な用い方です。これらの削除が一体どういう意図によるものかもご想像ください。 >それから、会議室ですが、私は nifty の会議室に出入り(発言はしていないのですが)しています。インターネット上の会議室で個人的に好きなものは見たことはありません。歴史論争は大抵泥沼化しています。 了解しました。ありがとうございます。ニフティのアカウントはありますので、のぞいてみます。 では。 |
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