脱ゴーマニズム宣言裁判を楽しむ会議室
1998/05/25(23:25) from Anonymous Host
作成者:北の狼(tngc@po2.nsknet.or.jp)
「反日的日本人」と慰安婦問題(1)
「反日的日本人」と慰安婦問題(1)

こんにちわ、北の狼です。

「続脱ゴーマニズム宣言」上杉 聰 氏の”マンガに洗脳されてしまう若者たち”(以下”マンガに洗脳”と略)に関する質問を続けさせていただきますーーーー
と思ったのですが、上杉氏も御多忙のようで、返答が期待できないようです。そこで、今後は「質問」改め「批判」ということで、投稿を続けさせていただきたいと思いますので、ご了承下さい。
また、一応は「”マンガに洗脳”批判」がメインという体裁をとりますが、論点がそれを超えて広範囲に渡る場合もあり、必ずしも議論が”マンガに洗脳”に限定されない場合もありますので、あらかじめお断りしておきます。


前回まで、「著作権」(No238)、「事実の誤認」(No248)、「民主化と慰安婦問題」(No264, No277)と投稿してきた。
前々回、前回と「民主化と慰安婦問題」を論じた理由を再度いいますと、発端は”強制連行の「狭義」から「広義」へのスリカエ論”(以下「スリカエ」ないしは「スリカエ論」と略)である。
上杉氏は、”マンガに洗脳”の、”歴史を見通す力の欠如”や”被害者の名乗り出が与えた衝撃”という章で、『「スリカエ」なるものはなかった』との趣旨で反論を展開なさっておいでなのですが、その論理構成を論点別にまとめると以下の如くになる。

1) 慰安婦問題なるものは、そもそも、被害を受けた各国で独自に惹起されてきたものである。(「民主化」の関与は、北の狼が既に論駁した。)
2) 1)は、もっぱら外国での出来事であり、日本人の関与は殆どないのである。
   例えば、青柳敦子氏等の努力は、全く徒労に終わっているのである。
3) 日本国内での言論はいざ知らず、人狩り的な「狭義の強制連行」はこの時告訴した
   被害者のほとんどが問題にしていないではないか(1991年12月「アジア太平
   洋戦争韓国人犠牲者保証請求訴訟」のこと)。
4) それなのに、頑なに「狭義の強制連行」にこだわり続ける秦氏等の姿勢を批判する意味もあって、吉見氏が持ち出してきたのが「広義の強制連行」なのである。

上杉氏の所論を整理すると、ざっと、こんなところでしょう。
要するに、「慰安婦問題には、総体的には、上杉氏も含めて日本人は実質的に殆ど関与していませんよ」という、非常に奥ゆかしいといいますか、誠に謙虚なご意見であります。

それでは、まず1)、2)検証するため、如何に「反日的日本人」が慰安婦問題に関与してきたか、日韓の歴史をみてゆこう。


1967年 韓国教会女性連合会 結成。
1972年 「太平洋戦争犠牲者遺族会」結成(以下「遺族会」)。
1973年 千田夏光氏『従軍慰安婦』が出版 。
1976年 金一勉氏『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』が出版。
1977年 吉田清治氏『朝鮮人慰安婦と日本人』が出版。
1980年 ユンジョンオク氏(梨花女子大学英文科)挺身隊の調査開始。
1982年 6月 吉田氏 大阪で「私は朝鮮人慰安婦を徴用した」と講演。
      9月、11月 吉田氏「第一次樺太朝鮮人裁判」(原告代表 高木健一
      弁護士)で原告側証人として、朝鮮人奴隷狩りを証言。
1983年 吉田氏『私の戦争犯罪』が出版 、吉田氏「謝罪の碑」を韓国の天安市に建立。韓国のテレビが
      「謝罪の旅」として1時間番組を流す。以後も、各地で講演等を積極的にこなす。
1985年 千田氏『従軍慰安婦、慶子』が出版。
      「戦争犠牲者を心に刻む会」(以下「刻む会」)が結成。
1986年 吉田氏「心に刻む会」で講演(『アジアの声』に証言を採録)。
1987年 韓国女性団体連合 結成。
1988年 四月 ユンジョンオク氏 韓国教会女性連合会主催のセミナーで「挺身隊踏査報告」。
      七月 ユンジョンオク氏 韓国教会女性連合会に「挺身隊研究委員会」設置させる。
1989年 この年、吉田氏『私の戦争犯罪』が韓国語に翻訳され、後にドラマ化。
      五月 青柳敦子氏「朝日ジャーナル」に十五回にわたって意見広告掲載。
      六月 高木弁護士 「第一次樺太朝鮮人裁判」の提訴取り下げ。後に韓国政府から、国民勲章を授与され、
      “これをモデルケースとしてこれからも同じように補償裁判を起こしていく”と発言。
      八月 『済州新聞』が吉田氏の『私の戦争犯罪』を全くの嘘と糾弾。
      十一月 青柳氏 裁判を提訴する原告探しのため韓国を訪問するが成果があがらず、意見広告のコピー等を
      マスコミに配布して帰国。数週後、青柳氏にソウルの「太平洋戦争犠牲者遺族会」から協力の申し出あり。
1990年 一月 ユンジョンオク氏 『「挺身隊」怨念の足跡取材記』をハンギョレ新聞に連載。
      三月 青柳氏 再度、渡韓し「対日公式陳謝賠償請求裁判説明会」で”まず十人を原告として裁判を始める
      予定です。”と発言。これに感激した「遺族会」会員たちと供に、日本大使館に向けてデモ(これが、補償
      を求める最初の集団行動である)。
      五月 国会で竹村泰子議員(社会党)が慰安婦の調査要求。以後、吉岡吉典議員(共産党)、本岡昭次議員
      (社会党)が慰安婦で質問。
      臼杵敬子氏 「遺族会」の戦後処理要求イベントを取材。
      十月 二十二人の韓国人遺族らが、東京地裁に提訴。
      「遺族会」が青柳氏に協力できないと通告。
      この頃、「遺族会」と高木弁護氏が接触。
      十一月 「韓国教会女性連合会」(1967年結成)、「韓国女性団体連合」(1987年結成)等が参加して
      「韓国挺身隊問題対策協議会」(代表ユンジュンオク氏)(以下「挺対協」)を結成。
      十二月 臼杵敬子氏等が「日本の戦後責任をハッキリさせる会」を結成。
 1991年四月 「ハッキリ会」韓国へ調査に向かう。以後も数次にわたり訪韓調査。
      八月 高木弁護士(「ハッキリ会」と「心に刻む会」が支援)が中心となり「戦後補償国際フォーラム」開催、
      「遺族会」から五十三人が参加。
     「挺対協」の呼びかけに応じて、キムハクスン氏が名乗り出る。
      十二月 高木氏を主任弁護士として、三十五人が東京地裁に提訴。
この問題に詳しい方なら、いずれも周知の事実でしょう。このあたりは、新ゴー宣 第4巻131ー160項の「特別篇 従軍慰安婦論争はもう終わっている」が詳しいが、私なりに補足を加えます。

「太平洋戦争犠牲者遺族会」(「遺族会」)というのは1972年に発足したもので、韓国政府からの戦後補償を受けるために戦争犠牲者の遺族からの届出を受け付けていた。家族の生死確認や遺骨調査、援護の拡充などを求めて活動してきた。しかし、除々に活動の性格が変貌し、1989年には天皇あてに「昭和天皇の後を継いだアキヒトは、戦争責任をきちんと取れ」というメッセージを送ったり、日本政府への訴訟の計画もあったという。ちなみに、1991年8月14日ににキムハクスン氏が、ソウルで初めて実名で記者会見(カミングアウト)を行ったが、その”4日前”に「朝日新聞」でこれをスクープした植村隆記者は、実は「遺族会」の常任理事 梁順任氏の義理の息子(氏の娘の夫)である。

千田夏光氏、金一勉氏、吉田清治氏はご承知のとうり、慰安婦の本の著者である。

ーーー ユンジョンオク氏:挺身隊と慰安婦の混同 ーーーー

そして、ユンジョンオク氏である。1990年以前は、韓国側では、唯一人、気をはいているのだが、上記三人(千田氏、金氏、吉田氏)の影響を非常に強く受けているのは自他ともに認めるところである。
挺身隊の調査を始めた彼女が、何故、慰安婦問題を扱ったかというと、韓国では戦中も戦後も挺身隊と慰安婦は全く同一のものと誤解されているからである。今だに韓国の中学や高校の教科書にははっきりとそう書かれているのである(「女性までも挺身隊という名で引いていかれ、日本軍の慰安婦として犠牲になった。」)。また、1991年12月から翌年1月にかけて韓国マスコミが行った大キャンペーンもその例に漏れず、内容を一口でいうと「日本国が『挺身隊』という名目で数万人の韓国人女性を強制連行して慰安婦にした。中には12才の小学生や赤ん坊を抱いていた母親もいた。」という凄まじいものである。この12才少女慰安婦という記事を書いてしまった韓国人記者は、後に、西岡力氏(元「現代コリア」編集長)に「彼女らは朝鮮人によって慰安所に連れていかれたことが、取材を重ねていくうちに分かってきた。自分はもうこの問題を書くことは止めた。」と語っているのだが、未だに慰安婦と挺身隊の混同が解けていないのだから、おめでたい話である。また、「赤ん坊を抱いていた母親」の強制連行とは、例によって吉田氏の本からの引用である。
1992年2月には、韓国のある大学教授が記者会見を行い、韓国人「慰安婦」動員は天皇の署名入りの勅令「女子挺身勤労令」を根拠に行われたとして、「全文を公開」しており、韓国の新聞、テレビはこぞって大きく扱った。こんなものは、公開するまでもなく歴史年表にでてくるくらい周知のもので、勿論、日本人女性にも等しく適用され、工場等の勤労奉仕に動員したのである。ところが、あろうことか、日本のマスコミまでが、このニュースをそのまま報道しているのだから、お粗末である。もっとも、朝日新聞などは、上記の植松記者のスクープのリード部分に平気で「挺身隊」と書くは、あの「慰安所 軍関与示す資料.........」(1992年1月11日、一面トップ)なる記事の用語解説で「従軍慰安婦:太平洋戦争に入ると、主として朝鮮人女性を『挺身隊』の名で強制連行した」などと明記するはで、全くもって救いようが無いとはこのことである。
こういうふうに、慰安婦問題というのは、日韓両国で歪められていくのである。ユンジョンオク氏が慰安婦と挺身隊を混同しても、当然といえば当然であるが、仮にも彼女は元大学教授である。基本的な事実を誤認したまま、義論を展開するというのは、学者として最も許されざる行為であると思うのだが、彼女は未だに訂正した様子がない。殆ど、素人の床屋談義の域を出ていないのである。
彼女は、反体制紙である「ハンギョレ新聞」に1990年1月4、12、19、24日の4回に渡って「挺身隊取材記」を連載しているが、慰安婦の知識は千田夏光氏、金一勉氏、吉田清治氏の話と本に全面的に依存しているのである。この連載は、これらの日本人の影響を知るのに重要であるから、ちょっと長くなるが、「検証『従軍慰安婦』」(上杉千年氏)から引用しておこう。
「朝鮮の女性を慰安婦にした目的の一つは民族を衰退させるためであった。在日同胞の金一勉さんは『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』(1976年)のなかで、日本は朝鮮民族を衰退させるために、その民族に基盤となる家庭、そしてその家庭の柱となる女性を破壊することが近道だとかんがえたのであろう。」「慰安婦の需要はニクイチといって軍人29人に対して慰安婦1人の計算だった。しかし、敗戦の直前には一人の慰安婦が百人の軍人を相手にしたともいう」(「沖縄」編)
「初めて挺身隊の慰安婦について文章を書いた千田夏光さんは私にユユタさんが会ってくれないかもしれない、また会ったとしても「従軍慰安婦」については話しくれないかもしれないと語ってくれた。」(「タイ」編)
「日本軍は全ての前線に慰安婦を配置しようと考えた。陸軍省は「聖戦のため大義親を滅す政策だ」と記した極秘通牒を出し、朝鮮人女性を慰安婦として動員した。日本軍は慰安婦の年齢を一七歳から二○歳の未婚女性としたが、その条件は無視した。吉田清治さんは『私の戦争犯罪』(一九八三年)中の「第三話 済州島の慰安婦狩り」という章で、労務報国下関支部の動員部長だった自分がどのように慰安婦”狩り”を行ったかを告白している。彼は済州島に駐屯していた日本陸軍の協力で十一人の歩兵と軍用トラック二台を得た。」(「タイ」編)以下、吉田氏の著作を引用し奴隷狩りを紹介している。

慰安婦と挺身隊の混同を出発点とし、これら日本人の著書による「薫陶」を元に誤れる情報を流し、それで波紋を引き起こしたのが彼女の業績である、と言ったら言い過ぎだろうか。これが、韓国で(挺身隊)慰安婦問題で早期から、唯一人、気をはいていた人物、そしてその活動の中身なのである。
注意すべきは、活動の初期に、彼女を誤れる方向に導いたのは、紛れもなく日本側であるということである。
私は、彼女が慰安婦と挺身隊を混同しながらも、調査を開始した時点までは特に問題はなかったと思うのだが、いい加減な本を一方的に信じ込み、それを全く検証しようとしない態度に、彼女の学者としての良心の欠如を感じる。
この時点では彼女は、しきりに日本を糾弾こそすれ、(こういっては失礼だが)日本政府を提訴する法的根拠や具体的アイデアを全く有しておらず、その能力もなかったようである。
ここで、以下の年表をみてみよう。

1990年5月18日 韓国の女性団体連合、韓国協会女性連合会、ソウル地域女子大生代表者協議会の三者連盟で「ノテウ大統領の訪日および挺身隊に対する女性界の立場」と題する声明を発表。その中に「一、挺身隊問題に対する日本当局の謝罪と補償は必ずなされなければならない」とある。
1990年5月24日 ノテウ大統領訪日。韓国外相が「慰安婦」ではなく「強制連行者」の名簿づくりを要請したにとどまる。
1990年5月30日 参議院予算委で竹村泰子議員(社会党)が、国会で初めて、従軍慰安婦の調査要求。
1990年6月1日 参議院内閣委で吉岡吉典議員(共産党)が朝鮮人強制連行、朝鮮人慰安婦一四万人以上犠牲になったことなど質問。
1990年6月6日 参議院予算委で本岡昭次議員(社会党)が「強制連行の中に従軍慰安婦という形で連行されたという事実もある」と質問。清水職安局長が「やはり、民間の業者がそうした方々を軍とともに連れて歩いているとか、そういうふうな状況のようでございまして、こうした実態について私どもとして調査して結果を出すことは、率直に申しましてできかねると思っております。」と答弁。
1990年10月17日 韓国の39団体(韓国教会女性連合会、韓国女性団体連合会、等)の代表がソウル日本大使館を訪れ、海部首相に連名で「公開書簡」を送付。6月6日の”清水職安局長の答弁”を引用し、これを無責任とし、「日本政府は朝鮮人女性たちを従軍慰安婦として強制連行した事実を認めること」などど、吉田氏の著書を証拠としながら、補償や謝罪を要求。
1990年11月16日 韓国教会女性連合会、韓国女性団体連合会等16団体が参加して「韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)、代表ユンジュンオク氏」を結成。
1990年12月18日 参議院外務委で清水澄子議員(社会党)が6月6日の”清水職安局長の答弁”について質問。「従軍慰安婦という、強制連行の中で女子挺身隊として強制連行された朝鮮の女性たちの問題は国家も軍も関与しなかったという、それをそのままお認めになるわけですね。」戸刈利和職安局庶務課長「それにつきましては先ほど申し上げたとうりでございまして、.....(そのまま認めます、ということ)」と答弁。
1990年12月19日 挺対協が「公開書簡」の回答をせまる督促状を出す。
1991年3月26日 挺対協が二度目の督促状を出す。
1991年4月1日 参議院予算委で本岡昭次議員(社会党)が「政府が関与し軍がかかわって、女子挺身隊という名前によって朝鮮の女性を従軍慰安婦として強制的に南方の方に連行したということは、私は間違いない事実だというふうに思います。......この問題をどういうふうに対応していったらいいと思われますか。」などと質問。海部首相「(誠意をもって対処しておるところ)」と答弁。
1991年4月24日 ソウルの日本大使館に挺対協のユンジュンオク氏を招致して、「公開書簡」の回答ではなく、日本政府の説明を行う。
1991年5月28日 挺対協が再度「公開書簡」を海部首相に送付。
1991年8月14日 挺対協の呼びかけに、キムハクスン氏がカミングアウト。
1991年8月27日 参議院予算委で清水澄子議員(社会党)が戦争責任と戦後補償について質問。「これまでは請求権は解決済みとされてまいりましたが、今後も民間の請求権は一切認めない方針を貫くおつもりでございますか。」柳井俊二条約局長「.......いわゆる個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたという意味のものではございません。日韓両国間で政府としてこれを外交保護権の行使として取り上げることはできない、こういう意味でございます。」と答弁。
1991年12月6日 東京地裁に提訴。

日本の社会党や共産党と挺対協の、なかなか「息の合った連携プレー」である。そして、これが、挺対協すなわちユンジョンオク氏のこの頃の活動方針ではなかったのか? 韓国では挺対協が「公開書簡」やマスコミで、日本では社共両党が国会で追及するというのは、極めて効果的な方法である。狙いは、勿論、立法措置であろう(実現の可能性は別にして)。
上をみると、日本の国会議員までが、慰安婦と挺身隊を混同しているのであるから、嘆かわしい限りである。勿論、その根拠はユンジョンオク氏の調査結果、すなわち千田氏と吉田氏の本の受け売りなのである。こんな誤りは、少し調査すれば簡単に見抜けるはずだが、何故か、この誤れる主張を、国会という場でそのまま繰り返しているのである。

ちなみに、社会党は当初こそ積極的に活動していたが、村山内閣成立後は急速に熱が冷めている。以下は、共産党議員 吉川春子「従軍慰安婦」からの引用である。
「社会党は自民党と連合政権を樹立し、その結果これまでの従軍慰安婦政策も当然変化した。社会党が野党のときは、従軍慰安婦に対して個人補償を行えと、国会でも度々追及した。超党派の女性議員が行う政府に対する申し入れにも参加した。むしろ社会党が積極的に呼びかけて私たちも参加するという形が多かった。
初めて元従軍慰安婦が来日して、参議院会館で自分の体験を訴えるのを聞いて私はすごい衝撃を受けたが、その集会に私をさそったのも社会党の女性議員である。しかし社会党は変わってしまった。
1995年の北京の第四回世界女性会議に行ったとき、(従軍慰安婦に対する=筆者注)日本の女性国会議員の活動を世界にアピールしようということになった。.......(中略).......結局アピールの件は、最終的には社会党が参加せず、議員が数名しか集まらないということになってしまった。これではインパクトもない、それまで参加するとしていた議員からも、記者会見は諦めようということになった。.....(中略)......以前は出席していた議員会館での従軍慰安婦の各種集会にも、彼等は出席しなくなってしまった。」
社会党というのは、こういう政党である。
もっとも、共産党も今だに慰安婦と挺身隊を混同したまま議論しているのだから、あまり人のことは言えないであろう。
共産党は挺対協と親密な関係を維持しており、最近(1997年3月)もユンジュンオク氏と日本で懇談している。そして、両者は供に、村山内閣がうちだした「女性のためのアジア平和国民基金」に猛烈に反発しているのである。

以上のように、慰安婦問題は、1991年の提訴の前から、日本の国内で高まるだけ高まっていたのである。なにしろ、国権の最高機関たる国会で幾度も取り上げられているのであるから、これ以上の高まりかたがあるというのなら、是非、教えていただきたいものだ。
しかも、千田夏光氏のいう慰安婦と挺身隊の混同がそのまま持ち込まれており、その唯一の根拠としているのが吉田清治氏の証言なのである。正に”「反日的日本人がでっちあげた『慰安婦』問題」”が、そのままの形で、韓国のみならず日本の国会まで汚染していったのである。

ここまでの検討で明らかなように、ユンジョンオク氏は紛れもなく密接に「反日的日本人」と関与してきたのである。むしろ「反日的日本人」やその著書に出会ったからこそ、あそこまで活動できたといっても過言ではないのである。
「反日的日本人」の罪というものが、如何に大きいか、嫌でも分かるであろう。

他方、日韓の「慰安婦協奏曲」は、これとは違うルートからも奏でられていくことになるのである。

次回は、そちらの方から、日本人の関与をみてみよう。


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