ここに収録するのは、1998年12月4日、金曜日奈良読者会の投稿ボード「週刊金曜日掲示板」に佐佐木が投稿し、数日後に無警告で削除されたものの再録です。リンク部のHTMLははのちほど追加しました。
(重複投稿ご容赦)
本多勝一さん(現『週刊金曜日』編集委員)といえばカンボジア大虐殺の現地実証取材でも有名です。1977年後半になってベトナムがカンボジアとの国境紛争を表沙汰にし外国人記者を招き入れて反カンボジア宣伝をはじめるや、本多さんは勇躍してベトナム側から両国国境地帯入りしました。その後はクメール=ルージュによる残虐行為を伝える記事を送る一方で、カンボジア大虐殺を事実無根と主張した親中国・親カンボジア派の人達を「アナクロニズム」「幼稚」「事実に立脚しないジャーナリスト」「虚偽をもとに危険な方向に世論を導く」などとあちこちで非難しています。
ところが、その本多さん御当人が実は「カンボジア革命の一側面」と題する記事(『潮』1975年10月号掲載) においてクメール・ルージュ支配下の「『共産主義者による大虐殺』などは全くウソだった」と断定するなど、ポル=ポト派擁護の論陣を張っていたことが判明しました。同記事より引用します。
(A)(1975年4月17日の「解放」以前から、クメール・ルージュが外国人ジャーナリストや技術者を数多く処刑していたことに関し)
「 《クメール・ルージュの指導者がそのような指導をしたとは思われない》 。末端まで指導が徹底していなかったのであろう。」
(同、278ページ。《〜》による強調は引用者による、以下同様。)
(B)「例によってアメリカが宣伝した 《『共産主義者による大虐殺』などは全くウソだった》 が(それを受けて宣伝した日本の反動評論家や反動ジャーナリストの姿はもっとこっけいだったが)、しかし末端にはやはり誤りもあったようだ。」
(同、278ページ)
(C)「カンボジアはいずれ必ず、門戸を開くであろう。もちろんそれは、《民族自決の上での、かれらの方式による、かれらのための開放》であろう。それはもはや外国人がでかい顔をして歩くことのできないときであろう。当然である。」
(同、285ページ)
(D)(ロン・ノル政府時代のプノンペン市在住のカンボジア人について)
「 多くは、女中だの下男だのといったいわゆる下働きを、それも主として外国人の下働きをつとめる《にすぎない存在》であった。でなければ売春婦やポン引きのような《賎業》である。つまり大ざっぱにいえば、プノンペンの町は外国人およびその“《下僕》”としての《国辱的カンボジア人》からなっていたと極論することもできた。」
(同、277ページ)
(E)(プノンペンの住民(「国辱的カンボジア人」)が、銃剣のもと否応なく農村に追い立てられ、それ以来日曜日も休まず連日の重労働を夜明けから日没ごろまで強いられたことに関して)
「 『労働』というものの意味を社会主義的に考えるかぎりでは、これはいわゆる《ドレイ労働ではない》のだろう…。」
(同、281ページ)
(F)「キュー・サムファン【 クメール・ルージュ政権の副首相 】はパリで教育を受けたインテリだが、一時シアヌーク内閣に入閣していたころも、きわだって質素な生活をしていたという。他の閣僚たちが夜はネオンのちまたに行くのを日課としていたころ、彼はおそくまで仕事をして、母のいる家に帰るだけだったと。プノンペンの市民の総入れ替えという《思いきった政策》は、こうした彼の態度も反映しているのかもしれない。そして、石油も農薬も一切拒否して、《自然のままの、まずしくとも平和な生活》を自主路線として求めているとしたら、あるいはこれは《近代文明の悪を見抜いたインテリの哲学》を実践しているのかもしない。」
(同、285ページ)
この本多勝一さんのクメール=ルージュ擁護の記事は翌年ほぼそのままの形で『貧困なる精神・第4集』(1976年3月20日初版初刷発行)に収録され、その後さして問題となることもないまま第8刷(1987年3月25日発行)まで増刷を重ねています。ところが『潮』掲載から15年後の第9刷(1990年3月10日発行)にいたって同書から上記の「『共産主義者による大虐殺』などは全くウソだった」などの文言が削り取られ、それにかわって「事実そのものが全くわからず」 「軽々に論じられない」云々と書き換えられるなど、クメール=ルージュに対する支持色を弱める方向で系統的な操作がほどこされています。前出の(A)、(B)、(C)にそれぞれ対応する部分を引用すると、
(A')「クメール・ルージュの指導者がそのような指導[外国人ジャーナリスト・技術者の処刑]をしたのか、あるいは末端まで指導が徹底していなかったのかは《まだ分からない》。」
(B')「アメリカが宣伝した『共産主義者による大虐殺』によって全市民がただちに虐殺されたとも思われぬが、すべては鎖国状態の中にあっては《事実そのものが全くわからず》、噂や一方的宣伝ばかりでは《軽々に論じられない》。」
(C')「これらの《結果がどうなるか予断はできない》が、鎖国をいつまでも続けられるものではないことは確かであろう。」
このようにクメール=ルージュ支持色を薄める方向で書き換えがなされているにもかかわらず第9刷でも記事の末尾にはあいかわらず「『潮』1975年10月号」が出典として掲げられている上、書き換えたことを明記する断わり書きはまったくありません。そのため、裏のからくりを知らない読者は、“記事文中で「いま」(執筆日)とされている1975年の8月19日に本多さんがこの記事全文(改稿箇所も含め)を書いたものであり、当時本多さんは虐殺の真偽については(賢明にも)判断を保留していた”と信じさせられるという仕掛けになっています。実際には、ポル=ポト派による大虐殺を明確に事実と認定した本多勝一さんの著書『検証・カンボジア大虐殺』が朝日文庫に所収されたのは『貧困なる精神・第4集』第9刷発行に先だつ1989年(11月20日発行)、そして『検証・カンボジア大虐殺』の核心部分をなすカンボジア現地実証取材の報告『カンボジアの旅』(朝日新聞社刊)はそれよりさらに早い1981年に発行されています。つまり、本多さんは事件の概要がわかった上でそれに沿うように過去の誤った断定や憶測・予想を人知れず書き改めた上、実際の最終加筆日とは異なる日付を付して発表していることになります。
1995年に至ってようやくこの粉飾が明るみに出てニュースグループ上で問題になり、議論に加わった有志のうちお一人(この方はご本人も「本多氏の著作には共感をおぼえる点が多い」と公言しておられる通り、いわゆる「右」の人物ではありません)が代表となって本多勝一さん御自身に直接真意を問いただそうということになりました。1995年12月6日に『週刊金曜日』編集長本多勝一様宛の質問状が送付され、追って本多さんから一度は“お答えします”と確約するご返事がいただけました。
しかし、その後今に至るもなお回答がありません。その間、回答が遅いのを案じた質問者側から2度にわたり“まだ質問に答える御意志がおありですか。”という督促のメールが本多さん宛に送られました。それに対する本多さんからの御返事によりますと、質問に答えないのは“忙しいから”なのだそうです。
結局、最初の質問状送付以来あしかけ4年、まる2年半後の去る1998年3月に至り、社会通念に照らしてこれ以上待っても回答は期待できないという判断のもと、ニューズグループ上に終結宣言が投稿されました。これに先立ち本多勝一さん宛にも、質問状をとりさげたい旨の打診がなされましたが、その後もこの件に関して本多さんからの回答や連絡はないようです。
以上のさらに詳しい経緯説明と論考は、次にあります。
「本多勝一論」
http://www.coara.or.jp/~pwaaidgp/honda.html
「『金曜日問題』とは何か」
http://www.coara.or.jp/~pwaaidgp/kinyoubi.html
また、この件をめぐっては「はなしのひろば-週刊金曜日広島読者会」の「とうしょ広場」で議論が進行中です。
http://www.ne.jp/asahi/minna/hiroba/
http://www.ne.jp/asahi/minna/hiroba/anssys.html
(この件に関する議論は、バックナンバーのNo. 20以降に掲載されています。)
なお、この件に関しては『週刊金曜日』初代編集長・和多田進さんからもコメントを頂戴し、ご本人の承諾を得てAML上で公開しました。
「『金曜日』初代編集長に質問状を出しました」
http://www.jca.ax.apc.org/aml/9811/10256.html
「『金曜日』初代編集長からご返事をいただきました」
http://www.jca.ax.apc.org/aml/9811/10257.html
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最終更新日1999/11/01 (Y/M/D).