脱ゴーマニズム宣言裁判を楽しむ会議室
1998/05/08(15:57) from Anonymous Host
作成者 :悟のぱぱ(ymaeda@ps.inforyoma.or.jp)
あれくさんへ。(戦犯供述書について)
あれくさんこんにちは。
議論すべき論点が尽きつつあるのを感じるのですが、取り敢えず戦犯管理所についての情報がありましたので、紹介します。

6月号の正論に、田辺敏雄氏が、『朝日・岩波が報じる「中国戦犯供述書」の信用度』なる記事を書いています。その中で、あれくさんがもっとも興味をもつだろうと思われる部分を引用します。

【引用開始】
横山光彦氏の著作『望郷』のなかに、中国検察官による取り調べの描写がある。一九五四年三月、いわゆる「認罪運動」が始まった頃のもので、その一部を記すと、
<「お調べがついているでしょうから、それをお示し下さい。そうすれば私も思い出せることもあるでしょう」というのだが、検察員がこれを聞き入れない。
「中国はお前が自らの記憶に基づいて述べることを要求する。誠実な態度であれば思い出せるはずである。今日は監房に帰れ」となんべん言われたことか。
 同室の左古さんも検察員に同じようなことを言われているとみえ、「援助者」に批判されていた。左古さんは一度、「わしゃ死んだ方が楽じゃ。深石さんお願いだから殺してくれんか」と言ったことがあるし、私にも、「あんたはいつか監獄の中で自殺した者の話をしたことがありますね。どんな方法かね」と泣きそうな顔で真剣になって尋ねてくるので、私はゾッとして恐ろしくなったこともあった>
【引用終了】

「援助者」というのは、「認罪済み」となった日本兵の事で、認罪態度の悪い人について、答えられない理由を尋ねたり、批判したりする立場の者だそうです。
「学習」「取り調べ」は、尉官以下の組に対して先行して行われ、その証言を証拠として佐官以上の者に認罪を迫るという構図になっているそうです。

こうなると、鈴木中将の供述もやはり、控えめに言っても検証抜きに証言として採用することはできないと結論することに問題があるとは思えませんね。
戦犯管理所がこういう状態だったとしたら、あれくさんは、この戦犯管理所で「強姦所」「強姦集計表」の捏造が行われたと結論することに異論はあるでしょうか?まだ、資料や研究を待つとおっしゃいますか?

次は吉田証言についてです。

>疑問をすべて払拭する結論を導き出す。私はそれが上杉氏の責任だと思っています。

その通りですね。ところが、上杉さんは、

>吉田証言は根拠のない嘘とは言えないものの、「時と場所」という歴史にとってもっとも重要な要素が欠落したものとして、歴史証言としては採用できない というのが私の結論である

としているわけです。吉田証言に結論を出したわけですね。
対してあれくさんは、

>「現時点」においては「ウソとしても仕方ない(ウソ>である)」としている訳で、今後どのような展開になるかによって変わってくると思っています。

とおっしゃいます。
上杉さんにもおたずねしたのですが、例えば、「実は強制連行をしたのは全羅南道だった」という吉田氏の発言を検証しているでしょうか?吉田証言に対する新しい研究が現在なされているでしょうか?もし為されていないならば、新しい展開などあり得ません。その点は重要です。
少なくとも吉田証言を反証を以て「ウソ」と結論づけた人はもはや、吉田証言をこれ以上研究するはずはありませんので、その責任は当然、上杉さんのように、「根拠のない嘘とは言えない」と発言されている方にあるはずです。
その研究を誰もしていないならば当然、「ウソ」という結論に対して新しい研究の成果を待つなどというのは出もしない新しい資料を待っているだけという事です。
つまりポイントは吉田証言の支持派が検証を続けているか否かなのです。

>そうですか、盲信ですか。私自身は別に笠原氏の著作だけを読んでいたわけではないのですが(資料出典において笠原氏の著作を利用しただけです)。その中から、笠原氏の推測と事実を選り分けてその中の資料からかなりひねった考え方も取り入れて自分なりの見解を出したつもりなんですが。まあ、それが盲信だとおっしゃるなら別にかまいませんが。
>確かに私自身勉強不足の感も否めませんしね。南京市の人口に関しては定説が固まっている訳ではないので、笠原氏の説に異議があっても別に不思議ではありません。一人の方の説はその一つ一つを検証の上批判すべきで「間違った写真を取り入れたからこの本は信用できない」等とは私はしないつもりです。

あなたがどのような判断基準を持って、笠原氏の推測と事実を選り分け見解を出したのかに大変興味があるのですが、まあ、それは御返事くださらないでしょう。
ところで、以下のホームページをご存じでしょうか?
南京問題を研究していらっしゃる松尾一郎さんという方のホームページです。

http://www02.so-net.or.jp/~jack-213/

この中で特におすすめなのは、

http://www02.so-net.or.jp/~jack-213/peace.htm

です。当時の新聞に載った南京の写真は、私達が南京大虐殺から想像するのとはあまりにも大きくかけ離れています。もし、これらの新聞の記事や写真がヤラセでなければ、南京虐殺など無かったという結論を出すのに私は躊躇しません。また、特に注目は占領後1ヶ月以内の新聞で(実際に虐殺があったとすれば、まさにその真っ最中!)これほどのヤラセが出来るとはとても思われません。

>一つの歴史を書こうと思うとき事件の取捨選択を行なうのは結局一個人の主観であり、イデオロギーに左右されます。同じ歴史的事実を前にしてそれを取り上げて歴史を作るとき主観が入るのは極々自然なことだと思っています。同じ歴史的事実を持ってしても2つとして同じ歴史は出来上がらないと思います。それこそ「史観」と呼ぶべきものでイデオロギー上の問題である以上「史観」の取り方によって非難を受けることに意味があるとは私は思っていません。

>ともかく、その上で通州事件を見てみますと私自身は読んだことはないのですが「通州事件」自体を歴史上においてどれだけ重要視するかと言う主観がその掲載に関わっていると思います。私自身は少しくらい言及すべきと思いますが、載せなかったこと自体を非難しようとは私は思いません。

「史観」によって「解釈」が異なるのは当たり前ですが、出来事としての通州事件を書かないというのはどう考えても悪意ある資料の用い方としか思えませんね。歴史上、その出来事があったかなかったかは、解釈の問題ではあり得ません。この事件で国内世論が沸騰したのはまったく確かな事なのです。それには当時の新聞などの書証があります。

>前に小林氏の作為について述べようと思ったのは決して作為の無い史観が無いことを強調しようと思ったのですが、まあ、作為があるないと言うことを述べること自体が意味が無いし、建設的でないですし、憶測のぶつけ合いになるので取り下げさせていただきました。

言い訳めいていますよ。

>「ゴー宣」はあまり信用していません。資料のもちいかたが作為的なので。

この発言は作為のない史観がないことの強調とは思えません。明らかにあの時点では、あなたは小林よしのりの資料の用い方を批判する意図でこの発言をなさっています。作為がない史観がないという強調ならば、「信用していません」という発言は全ての歴史に関する書を信用していないという事になりますが、敢えて”「ゴー宣」は”と断っていますから。

>同様に自由主義史観に関しても「これは作為じゃないか」と思えることはもっと他にも多々あるのですが、もうそれを非難しようとは私は思いませんし、いちいちあげるつもりもありません。

疑問点が多々あるのならば、別に批判してもよいのではないですか?
それに対しての解答がここで得られるかもしれませんし、私としても知りたいですね。

では。


前の発言へ 次の発言へ List Index