脱ゴーマニズム宣言裁判を楽しむ会議室
1998/05/28(23:37) from Anonymous Host
作成者 : 北の狼(tngc@po2.nsknet.or.jp)
「反日的日本人」と慰安婦問題(2)
「反日的日本人」と慰安婦問題(2)

北の狼です。

前回投稿、『「反日的日本人」と慰安婦問題(1)』では、慰安婦問題に対する日本側の関与を、歴史に基づいてみていきました。

特に、1990年以前に、この問題で韓国側で、唯一、気をはいていたユンジョンオク氏の活動に焦点をあてました。彼女は、慰安婦と挺身隊を混同するという初歩的な誤解を元に調査を開始したのであるが、当時も今も、韓国においてはそういう誤解が一般的な認識であったので、これは無理もない話であった。そして、その漠とした概念を鮮明に具現化し、彼女をさらなる行動にかりたてたのは、紛れもなく日本側なのである。(もっとも、その確認を怠ったのは学者たる彼女の責任に他ならないが。)さらに、その誤れる認識が日韓のマスコミはいうに及ばず、日本の国権の最高機関たる国会までをも汚染してしまったのである。世の中の認識が総体的に狂いだす、とは正にこういうことを言うのであろう。
上杉氏の主張するように、”「慰安婦」問題の第一次の高まりは、それまで韓国で民主化運動の先頭を走っていた37の女性団体が連合して韓国艇身隊問題対策協議会を1990年に作ったこと”ということでは決してないのである。この「挺対協」が結成されたのは1990年11月であるが、この年の5月から既に日本の国会という場で大いに問題にされていたのである。国会で問題にされるということは、当然、その前に相当の準備時間、潜伏期間があるのが普通である。
事実、上杉氏等の所属する「刻む会」では1986年に、あの吉田清治氏が招かれて講演をしており、その機関誌「アジアの声」に採録されているではないか。吉田氏はそれ以前から日韓両国で勢力的に講演をこなし、新聞は勿論のことテレビなどのマスコミにも何度も登場しているのである。1983年には、あの「謝罪の碑」を韓国の天安市に建立している。
この頃から、上杉氏等がこの問題でいかに活発に運動してきたかは、上杉氏自信が一番良く御存知の筈である。そして上杉氏等がまいた種が、国会審議という最高の形で実を結んだのである。私は別に上杉氏等の活動そのものを非難するつもりはないのだが、それにしても、上杉氏は何故に、自分の信念に基づいた行動の成果を堂々と誇示なさらないのであろうか? また、自分の所属する会の行動の成果を過小評価なさるということは、会を支持してくれた人々に対して失礼にあたらないのだろうか? 実に不思議という他はない。

前置きはこれぐらいにして、本題に入ろう。

前回の投稿「反日的日本人」と慰安婦問題(1)では、ユンジョンオク氏の活動をみた後、”他方、日韓の「慰安婦協奏曲」は、これとは違うルートからも奏でられていくことになるのである。”と締めくくっておいた。
それでは、その別のルートの軌跡をたどってみよう。

ーーーーー 高木健一弁護士:その手口 ーーーーー

(1)「サハリン韓国人帰還運動」:朴魯学

この別ルートの中心人物は、間違いなく高木健一弁護士である。高木氏に比べれば、ユンジョンオク氏などは単に元気のいい狂言回しにすぎないと思えてくる程である。そして、この「高木ルート」こそ慰安婦問題の今日における混迷をもたらした、最大の「功労者」であると私はみている。
それでは、高木健一氏なる人物の経歴、及びその周囲をみていこう。
以下は、「サハリンの韓国人はなぜ帰れなかったか」(新井佐和子、草思社)、「日韓誤解の深淵」(西岡 力、亜紀書房)を大いに参考にさせていただいた。

高木氏が最初に注目されるようになったのは、1975年12月1日に東京地方裁判所に提訴した「樺太残留者帰還請求裁判」(「樺太裁判」)からであろう。これは第二次世界大戦の戦前、戦中に、当時日本領だった樺太(現サハリン)に渡った朝鮮人(現韓国人)で、戦後同地へとどまらざるをえなっかた人々のうち、韓国への帰還を希望する四人を原告に立て、日本政府に対して帰還を請求するという内容のものである。原告側は十七人の日本人弁護士を代理人として立てて提訴したのであるが、その弁護団長が高木弁護士である。そして、この裁判では、以後の高木弁護士の行動の原点が窺われるのである。
「樺太裁判」に入る前に、やや長くなるが、「サハリン韓国人帰還運動」と朴魯学氏についてみてみよう。

「サハリン韓国人帰還運動」とは、戦後に樺太(サハリン)へとどまらざるをえなかった人たちのうち、希望者を出身地の韓国へ帰国させるという運動である。
運動の中心となったのが、朴魯学氏である。そして、「サハリン韓国人帰還運動」は朴氏を抜きにしては絶対に語れないのである。朴氏と妻の和子夫人は三十年以上にわたって黙々と帰還運動を続け、ついにはこれらの人々を日本に呼んで韓国の家族と再会させ、さらには日本が中継地となって彼等を韓国へ永住帰国させることに成功したのであった。本来、韓国とソ連のあいだの問題なのに、なぜ日本が中継地になったかというと、当時は韓ソ間に国交がなかったからである。(また、韓国の「棄民」政策も影響しているのであるが。)
朴氏は1914年、朝鮮の生まれで、1943年「樺太人造石油株式会社が労務者を募集する」との新聞広告を読んで、「だれしも一度は強制的に募集に応じなければならない立場にあった」(「戦時動員」のこと)として、樺太に渡る決心をする。ちなみに、樺太での一日の賃金は七円で、当時の朝鮮での労賃はだいたい一円から二円であったという。ここでいう「戦時動員」とは、1937年に公布された「国家総動員法」にもとづいて1939年に立てられた「朝鮮人内地移送計画」のことをいう。

ここで、関連する事実を一つ。以下は「サハリンの韓国人はなぜ帰れなかったか」(新井佐和子、34ー35貢、草思社)からの引用である。

朝鮮人内地移送計画であるが、『集団的に動員するといっても、個々の企業がこれをするのはなかなか難しい。企業間の競争も激しくなり、誇大広告に引っかかるものも出てきたことから、朝鮮総督府が労働力確保にかかわることになった。同じく十四年には「朝鮮職業紹介令」が公布され、戦後の「職安」のような機能ができ、企業の求人に応じるようになったのである。これによって労働者の集団移動が軌道に乗るようになった。大東亜戦争がはじまってのちは、さらに計画的な労務動員が必要となり、昭和十七年二月以降、「朝鮮人内地移入斡旋要項」にもとづく、いわゆる「官斡旋」の方法がとられることになった。これは、もともと朝鮮半島南部の貧しい農民を救うために、彼らを北部の工事現場や炭鉱の送り込む「労働者移動紹介事業」であった。官が介入することによって、ブローカーに搾取されたり、ひどい労働条件で働かされることを防ごうとしたのである。半島内(朝鮮)では昭和十二年(1937)から実施されていたが、これを内地への戦時動員に適用したのである。』

なにやら、どこかで読んだような記述ではないだろうか。慰安婦問題に詳しい方なら『「陸支密大日記」1938年第10号所収の「軍慰安所従業婦等募集に関する件」』等の資料を連想されるのではないか。(詳しくは、新ゴー宣 第3巻163ー187項「特別篇 ゴー宣版 従軍慰安婦資料集」を参照)例の、吉見教授が「発掘」し、朝日新聞が宮沢首相の訪韓直前の1992年1月11日に『軍関与示す資料』との大見だしで「スクープ」した防衛庁図書館所蔵の、あの資料である。
ところで、「朝鮮人内地移入斡旋要項」の目的は、上の文章から明らかなように、朝鮮人労働者が「誇大広告に引っかかる」ことを防いだり、「官が介入することによって、ブローカーに搾取されたり、ひどい労働条件で働かされることを防ごうと」することである。勿論、「いい関与、介入」に他ならないのである。
これが、当時の「官斡旋」というものの実態である。
ただし、民間業者が主体である慰安婦の場合は、「朝鮮人内地移入斡旋要項」のような法的根拠を有するものは当然なかったから、軍や官が介入して斡旋できる立場になかったのである。しかし、それでも「官斡旋」の精神にに準じてなんとか慰安婦を保護しようと努力したというのが、上にあげた「軍慰安所従業婦等募集に関する件」等の資料の意味するところなのである。
そういう資料を持ち出してきて、「軍が関与していた」と騒ぎたて、軍の強制連行の証拠だとして煽り、資料を後生大事に奉っているのが「反日日本人」達の姿なのである。「マッチポンプ」ならぬ、マッチで火をつけておいて、それを団扇で煽ぐような、なんともそら恐ろしい行為ではあるまいか。

話を、戻そう。
朴氏は樺太で炭山労働に従事したが、これら労働者の性の問題も重要であり、当時の樺太でも十指を下らない数の慰安所があった。朴氏は慰安婦のことを、「娘子軍(じょうしぐん)」と呼んでいた。この呼称は、一般の女子でも戦争に勝つためには、それなりの責務をはたすのは当然という、当時の考えからきているらしい。
全国の炭鉱には、朝鮮半島出身の青年たちに定着してもらうために、慰安所のみならず、福利厚生施設や常設の映画館、演芸場、スポーツ施設、朝鮮将棋や囲碁が楽しめる娯楽施設、朝鮮文庫、ラジオ等を備えていたという。朝鮮人と内地人(日本人のこと)の融和をはかるため親睦会を催したり、家族を呼び寄せたときの住居や子供たちの学校設備を用意し、内地人の労働者には差別意識をもたせないような教育もしていた。裏を返せば、石油の供給を断たれた当時の日本は、それ程までに石炭を重要視していたということである。しかし、それ故に炭鉱労働というのは厳しく、場合によっては命懸けの仕事であった。戦争に勝つためという至上命令があるため、能力以上の無理な生産を強いられ、保安施設も十分には整っていなかった。さらに、労働者を管理する寮長や班長は、成績を上げるため、時には暴力を使い労働者たちを震え上がらせることも少なくなかった。これら管理職のなかには、戦後に労働者から仕返しをされたものもいたらしい。朴氏は当時の炭鉱のことを「戦場の第一線の兵隊と変わりなく厳格で、この世の生き地獄であった」と記している。
賃金は比較的、恵まれていたようである。昭和二十年(1945年)六月、朴は故郷の家が火災にあったことを知らされ一千円を送金している。うち、六百円は友人や寮長からの借金なので、四百円が手持ちということになる。樺太へ渡ってからわずか1年半で、家に月々の仕送りをした上にこれだけの貯金ができたのである。当時は内地でも一千円もあれば独立した家を建てることができたという。

そして、昭和二十年(1945年)八月九日、晴天の霹靂のごとく、ソ連軍が国境線を越えて南樺太に攻め込んできた。八月十五日正午、天皇の玉音放送が樺太全土に流れたが、ソ連軍はそれまで以上に激しい攻撃に出た。この時、樺太には陸軍第八十八師団、二万四千の軍隊がおり、文字どうり死闘を繰り広げた。
戦争末期、満州、沖縄、樺太などで、敵の辱めを受けぬために自ら命を絶った女性は多い。樺太の真岡郵便局の九人の女性交換手はソ連軍が間近に迫るまで電話連絡の任務を果たし、八月二十日、「みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら。」と呼びかけ、全員が青酸カリを服用して自決した。大平(ウダルニイ)では重傷患者の看護にあたっていて逃げ遅れた看護婦の集団自決があった。
八月二三日、ソ連軍はようやく停戦におうじたが、ソ連の宗谷海峡封鎖にあい、本土へ緊急疎開できたのは全住民四二万人のうち、二割の八万七千六百人にすぎなかった。また、自力で約二万四千人が脱出している。朴魯学氏も取り残された内の一人である。南樺太の全域を占領したソ連軍は、ただちに日本軍を武装解除した。ソ連軍司令部は当初、治安については責任を持つといっていたが、ソ連兵たちの略奪、暴行は凄まじかった。占領直後に「エンゲバー」(MGB)と呼ばれる特殊情報機関が設置されたが、これはKGBの前身である。万一、政治犯ということになれば、エンゲバーに夜中の二時三時頃、人知れず車で連れ去られシベリア送りになったという。
また、昨日まではともに戦いの中を生き抜いてきた日本人と朝鮮人が、敵、味方のレッテルを貼られることになった。ソ連側は朝鮮人に対して「君たちは敗戦国民ではない。八月十五日で朝鮮は解放され君たちはれっきとした戦勝国民なんだ」といって、徹底的にアジったわけである。それまで日本人に敬意を表していた朝鮮人まで「われわれは日本に勝ったのだ。これからは、われわれの時代だ」というようになった。ただ、朝鮮人も一枚岩ではなく、戦前や戦中にやってきた「先住朝鮮人」、戦後に北朝鮮から派遣されてきた「派遣労務者」、ソ連の共産党員や軍人である「ソ連系朝鮮人」の三グループが常に対立していたという。ちなみに、「派遣労務者」とは昭和二十一、二十二年に、ソ連の軍政下にあった朝鮮北部(後の北朝鮮)から移住させられてきた労働者のことで、その家族と合わせて2万人に達している。
昭和二十一年(1946年)9月7日、朴氏は日本人の和子さんと結婚。
同年十一月、「米ソ引揚げ協定」が結ばれ、同年十二月五日から昭和二十四年(1949年)七月までに29万人が樺太から引揚げている。しかし、GHQから日本政府に出された指令書によれば、引揚げの対象者は「(イ)日本人俘虜、(ロ)一般日本人」のみであり、和子夫人は対象となるが朴氏は対象外である。結局この時は、和子夫人は朴氏とともに樺太に残る決意をする。
昭和三十一年(1956年)、日ソ国交正常化。
昭和三十二年八月一日より、残留日本人、朝鮮人の夫を持つ日本人妻とその家族の引揚げが始まり、翌三十三年一月十四日、朴氏、和子夫人、三人の子供が舞鶴港に帰還した。

ちなみに、この頃(昭和三十四年)に在日朝鮮人の北朝鮮帰還事業がはじまっている。日本赤十字社が中心となって行った事業で、日本政府が総費用を負担し、運営は日本共産党と朝鮮総聯が共同で担った。
これには、朴氏はかなり驚いたようだ。日本では北朝鮮が「地上の楽園」だとさかんに宣伝されていたが、サハリンにいたものは、その悲惨さをよく承知していたからである。朴氏は外務省へ出向き、北朝鮮人帰還事業反対の陳情までしている。

朴氏は帰国後、直ちに約50人の同胞とともに帰還促進運動のための「樺太抑留帰還同盟」を結成し、会長に推された。これはまもなく「樺太抑留帰還在日韓国人会」と改称されたが、「樺太裁判」がはじまると、弁護団からの忠告で(ソ連を刺激してはいけないという理由で)「抑留」の二文字をとり、「樺太帰還在日韓国人会」となった。しかし、帰還運動の前途には、幾多の困難が待ち受けており、帰還はなかなか実現しなかった。

昭和四十八年、十数年におよぶ運動もいよいよいきずまり、万策尽きたかと思われたあるとき、朴氏は宗斗会という在日朝鮮人と出会い、一時期行動をともにするのである。実は、この宗斗会氏こそ、何を隠そう、あの青柳敦子氏が私淑していた人物である。また、高木弁護士はこの時すでに宗斗会の運動に関与していたのである。そして、間もなく高木弁護士と朴氏は協力して「樺太裁判」を提訴することになる。
要するに、後に挺身隊や慰安婦問題で活躍することになる青柳氏、宗斗会氏、高木氏はこの頃からの旧知の仲なのである。そして、高木氏の背後には、日本のある政党の影が見え隠れするのである。

ーーーーーーー以下次回


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