論考集5

本多氏の「私のカンボジア報道について」に対する潮社への反論の申し入れ


以下に公開するのは、『潮』1999年10月号に掲載された本多勝一様の「私のカンボジア報道について」(398<註1>〜400頁)に関して反論掲載のための誌面提供を求めた『潮』編集部宛の書簡です。
残念ながら回答期限の10月15日を過ぎてもご返事がいただけませんでしたので、ここにその文面を公表する次第です。


1999年9月26日:本多勝一様の「私のカンボジア報道について」を読んで

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前略

数十年来の本多勝一様の著作の愛読者です。御誌10月号に掲載されました本多勝一様の「私のカンボジア報道について」(398〈註1〉〜400頁)を拝読し、取り急ぎ一筆したためます。

この一文を読まれた御誌読者諸賢の多くは私と同様、奇異な印象を抱かれたことであろうと思います。本多様の文章は読者からの質問(「指摘のお便り」、398頁)に対する答えという形をとっているにもかかわらず、その質問の原文がどこを探してもみあたらず質問者がどこの誰であるかも全く記載されていないからです。これでは、そもそも本多様の要約(「この後者の部分(背景説明)がその後の収録本から削除されているのはおかしいのではないか、という指摘のお便りをいただきました」、398頁)がもともとの質問を正確に反映しているのかどうか、読者には確認する術がなく、質問に対する回答ないし釈明としては極めて異例なものとなっています。

実のところ、この文章が当初の質問に対する答えには全くなっておらず論点逸らしに終始しているということを、私は別の経路からの情報で確認しております。と申しますのは、4年前の1995年の暮れ(本多様によれば「最近」、398頁)にこの件がはじめて電子ネットワーク上で問題になり読者有志から質問状が本多様宛に送付されて以来、私はその経緯をずっとフォローしてきているからです。そもそも「カンボジア革命の一側面」(『潮』1975年10月号掲載)で問題にされているのは本多様のいう「「カンボジア革命」を擁護する方向」(398頁)からの執筆姿勢などではありません。そのような「方向」のレベルをはるかに越えて、この記事の中で本多氏が「例によってアメリカが宣伝した『共産主義者による大虐殺』などは全くウソだった」などと、クメール=ルージュによる組織的な大量殺戮の事実を明確に全面否定しておられることの方が重要です。つまりこのころ本多様は「ジャーナリストとして、とにかくまず事実を知ろうと努力」(399頁)をせず、「解放勢力」への党派的肩入れと憶測から虐殺を全面否定しておられたわけです。後に本多様が「「虐殺はウソだ」と、根拠もなく叫んでいる幼稚な段階の方たちには、とてもまともな相手はできません。」(『検証カンボジア大虐殺』、420頁) とあざ笑っておられることを考えると、これは一体誰の文章なのかと唖然とせざるをえません。

なお余談ながら、本多様が「サイゴン陥落直後の当時、まだその【カンボジア国内の】実態が外部にほとんど漏れてきていません」(398頁)と欠いておられるのは不可解です。実際には当時すでにタイ国境に逃れ出た難民の証言を主たる情報源として、クメール=ルージュの想像を絶する暴政は広く報じられていました(例えば、『タイム』8月4日号)。本多様御自身が「カンボジア革命の一側面」の中で上記の虐殺否定発言に引き続き「それ【クメール=ルージュの大量殺戮説】を受けて宣伝した日本の反動評論家や反動ジャーナリストの姿はもっとこっけいだった」と書いておられることからも、当時そのような報道が既に行なわれていたことが読み取れます。本多様に件の脱出華僑女性を紹介したという永井清陽記者も、それに先だって他の難民からの聞き取り取材をもとにカンボジア国内情勢に関する記事を読売新聞紙上で発表しておられます。

因みにその後の調べで、「欧米人記者のアジアを見る眼」(『潮』1975年7月号掲載)では本多様がさらに強硬な虐殺否定論を展開しておられることもつきとめられました。そこには、クメール=ルージュが老人・幼児からはては重篤な傷病者までを病床から熱帯の炎天下に叩き出した(未必の故意による事実上の大量殺人)ことを弁護する立場から、逆に「追い出された」側の視点からのルポを書いたシドニー=シャンバーグ記者を攻撃するくだりもあります。いわく「「追い出され」といった表現の問題には、一応ふれないでおこう。しかしこの文章は、事実として噴飯ものだ。「高齢者」と「小さな子ども」と「病人」と「けが人」だけプノンペンに残して、あとみんなが「大脱出」したらどうなるのか。 」

もっともこれだけなら、本多様は和田俊様や馬淵直城様など他にもおられた“カンボジア虐殺否定先駆け衆”のうちの一人であるというに過ぎないとも言えるかもしれません。しかし、ことはこれだけにとどまりません。本多様はその後さらに奇怪な、言論人として職業人として信じ難い行動をとっておられます。上記の記事をほぼそのまま収録した『貧困なる精神4集』は第9刷増刷時(1991年)に至って書き改められ、上記の「全くウソだった」という文言が削除されたかわりに「事実そのものが全くわからず軽々に論じられない」云々とさしかえられています。しかも、書き換えた旨の断わり書きは全くない上、記事の最後にはあいかわらず「『潮』1975年10月」という出典記載まであります。そのため事情を知らない読者は、記事中「いま」(記事執筆日)とされている1975年8月19日には本多様はポル=ポト派の虐殺の真偽に関して(賢明にも)態度を保留していた、と信じさせられるという仕掛けになっています。

このような「虐殺否定」および「すりかえ」の事実は、その後本多様がポル=ポト派の虐殺報道で名声をあげられたということによって消失するものではありません。過去の報道の間違いが判明したのなら、時期を明示した追記などの中で訂正すべきではないでしょうか。日々の動きを追うのに精一杯の日刊紙の記事ならまだしも、雑誌掲載のルポが後に単行本に収録され刷を重ねたとすればそれは後世に対する時代の記録としての役割を担います。原著者といえども無断で自分の都合のよいように本文を書き換えることは、職業倫理の上から許されるものではないはずです。本多様は釈明文の中で「のちに私自身のルポによって自ら訂正した」(399頁)と書いておられますが、普通の日本語ではこういう文言のすりかえ行為は「訂正」ではなく「粉飾」(人によっては、「改竄」)と申します。

一方、クメール=ルージュ政権成立の「背景説明」そのものは『貧困なる精神4集』第9刷でもほぼそのままで、削除などされていません。「この後者の部分(背景説明)がその後の収録本から削除されているのはおかしいのではないか」(398頁)などという指摘はそもそも誰もしていないわけです。

現に、1995年に本多様宛に送付された公開質問状は大略次のような主旨のもので、そこでは1975年当時本多様がポル=ポト派を擁護していたということよりもむしろ、その後自らの著作歴を偽るような意図的な文言のすりかえを行なっておられるということの方に主眼がおかれています。

(1)「例によってアメリカが宣伝した『共産主義者による大虐殺』などは全くウソだった」というくだりで本多氏が全面否定した「共産主義者による大虐殺」とは具体的には何をさすのか?

(2)この部分を「事実そのものが全くわからず軽々に論じられない」という文言にさしかえたことを含め、『貧困なる精神4集』第9刷増刷時に「カンボジア革命の一側面」を書き換えた意図は何か?どうして書き換えたことを明記しないのか?

(3)書き換えの後もあいかわらず上記記事の末尾には「『潮』1975年10月」という記載がある。これは読者を騙していることになるのではないか?

(4)本多氏の他の著作においても同様の無断書き換えがなされているのか?今後もするのか?

本多様の今回の釈明を読むとあたかも「最終的にまとめた前述の本」(=『検証カンボジア大虐殺』および『カンボジア虐殺』)に「カンボジア革命の一側面」や「欧米人記者のアジアを見る眼」が収録されていないことを質問者が問題にしているかのような印象を受けますが(399頁)、実際には質問の主眼はあくまで『貧困なる精神4集』の文言が無断ですりかえられていることにあります。読者が特定の言論人の言説や報道の信憑性を判断するにあたっては過去における的中率が重要な指標の一つになる以上、このような無断書き換えによる事実上の経歴詐称がまかりとおるようでは本多様の著作を逐一眉唾で読まなくてはいけなくなる、というのが正直なところです。(御誌とは直接かかわることではありませんが,『噂の真相』誌編集部が98年10月に本多勝一様にあてて『カンボジア革命…』の書き換え問題についての質問状を出しているそうです──この質問状は『トーキング・ロフト3世』Vol.1に掲載されています。この問題については職業ジャーナリストの間からも疑義が出されている証左です。)

以上の経緯については次のホームページに詳しい記載がありますので、あわせてご参照いただければと思います。

「本多勝一研究会ホームページ」

http://hello.to/hondaken/

本多様は「本誌のあの一文だけを読んだ人であれば、右のように思われる人もあるかもしれませんが、その後の活動を全くご存じないのだな、と改めて残念に思いました。」(398頁)とも書いておられますが、ベトナムとカンボジアの国境紛争が公然化するころから本多様が反ポル=ポト陣営の方へ徐々に軸足を移しはじめられたことなどこちらは百も承知しております。問題の核心がそんなところにあるのではないということは、昨年の夏に福岡在住の西村有史医師がこの件をめぐって本多様とやりとりをなさった時にも本多様宛の電子メールの中で明言しておられます。(西村医師は、このやりとりをいつでも公開する準備があるとのことです。)それなのに本多様がなぜ今ごろになってそんなことを蒸し返してこられるのかも、理解に苦しむところです。

このような経緯を知る者としては、今回の本多様の文章は真摯な回答とは到底思えず、むしろ問題点をことさらにおおいかくす意図で書かれたものであると考えざるをえません。これまで本多様が御自分以外の言論人の社会的責任についてことあるごとに厳しい発言をしてこられたことを知る者としては、いざことが御自分の身に及ぶと日頃の主張を一向に実行しようとなさらないのをまのあたりに見て、なおさら残念でなりません。このような事実を読者の前に明らかにし、正確な情報にもとづいて読者諸賢に判断をくだしていただけるよう、御誌編集部のご協力をいただきたいと願っております。

つきましては、公正を期する意味でも本多様と同様の3ページ分の誌面をこの件の説明に御提供いただきたく、ここにお願いする次第です。勝手ながらこのお願いへの回答は来たる10月15日までにいただければ幸いです。もし誌面を御提供いただけるのでしたら、上に述べましたような経緯を丁寧にご説明いたしたいと考えております。あるいは、この手紙をそのまま掲載していただいても結構です。ただしその場合、削除や書き換えを一切することなく、表題も含めてこのままの形で全文を掲載してくださるようお願いします。

最後に、諾否いずれの御決定にしても、御誌からいただいた回答は公表させていただきたいと考えておりますので、その旨もあわせてご承知おきください。

追伸:

御誌編集部のご参考までに本多様の記事文言の「書き換え」比較対照表を同封いたしますので、御査収ください。(これは、上記の「本多勝一研究会」ホームページの一部のハードコピーです。)

http://www.hondaken.webprovider.com/research/cambodia/sokumen-kakikae.html
<註2>

佐々木嘉則 拝

〜〜〜〜〜

【追記】

以上が『潮』編集部にお送りした書簡の全文です。これを読んでなお、本多さんが「カンボジア革命の一側面」に加えられた「書き換え」をあくまで正当な「訂正」の範囲内であると主張なさる方に対しては、蛇足を覚悟で次の点のみ指摘させていただきたいと思います。

一体、クメール=ルージュによる大量殺戮の真偽を「事実そのものが全くわからず、軽々に論じられない」と判断したのはいつの時点での本多勝一様なのでしょうか。これが「1975年夏の本多記者」でないことはいうまでもありません。その時には「全くウソだった」と断定しておられたわけですから。しかし一方、書き換えが行なわれた「1991年の本多記者」ですらありません。その時点までには本多様はすでに大虐殺は「事実」である(『カンボジアの旅』、1981年)という結論に達しておられたわけですから。

もし過去の記事の「訂正」をしたいというなら、書き換える時点(1991年)での最も正確な知見を書かねばなりません。つまり、「例によってアメリカが宣伝した『共産主義者による大虐殺』は紛れもない事実だった」と。(『貧困なる精神4集』第8刷から付け加えられた《追記》にはそういう趣旨の記述があります。)本多様はどうして「カンボジア革命の一側面」の《本文》をそのようには「訂正」なさらなかったのでしょうか?考えられる理由はただ一つ、あくまで“「1975年夏の本多記者」が虐殺を否定していなかった”と読者に信じさせたかったから、としか考えられません。(1975年夏の時点ですでに虐殺を事実と判断していたとなると、“どうして直ちにそのことを記事にしなかったのか”と読者が疑問を持つし、クメール=ルージュに対する「理解」(!)を求める「カンボジア革命の一側面」の他の部分の文脈にもはまらなくなります。かといって当時虐殺を否定していたことを読者に知られたくないとすれば、“真偽は不明”と書きかえるのが唯一の解決策だったのでしょう。)

要するに、「事実そのものが全くわからず、軽々に論じられない」と判断したのは「1975年夏に実在した本多記者」でもなければ「1991年に実在した本多記者」でもありません。それは、「1991年の時点でふりかえってみて『あの時にはこう書くべきだった』と頭に思い浮かべた『架空の、1975年夏の本多記者』」に他なりません。架空の存在が書いた記事をそうと断わらずに公表することは、読者を騙していることにはならないでしょうか。これが正当な「訂正」と呼べるでしょうか。

註1
最初、389と書いておりましたが、398の間違いだとわかりましたので、訂正します。

註2
上記の”http://www.hondaken.webprovider.com/research/cambodia/sokumen-kakikae.html”は
ここで読むことができます。


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Copyright (C) 本多勝一研究会

掲載日 1999/11/1 (Y/M/D).

最終更新日 2000/02/29 (Y/M/D).