基礎研究室

「カンボジア革命の一側面」書き換え比較表


「カンボジア革命の一側面」書き換え比較表

収録雑誌/書籍

『潮』

1975年10月号

当該記事執筆は
(1975年)8月19日との記載あり

すずさわ書店『貧困なる精神4集』

1976年3月20日発行

当該記事執筆は「(1975年)8月19日」との記載が本文中にあり

第1刷

1976年3月31日発行

第7刷

1984年7月20日発行

第8刷

1987年3月25日発行

第9刷

1990年3月10日発行

ISBN

---

なし

未確認

4-7954-0004-0

未確認

記事名

カンボジア革命の一側面」

プノンペン陥落の一側面」

p.276

私がここに報告するカンボジア革命の一側面は、実はこのことを理解するためのものである。

p.60

『潮』と同じ。

p.60

『潮』と同じ。

p.60

『潮』と同じ。

p.60

ここに報告するプノンペン陥落後の情況の一側面は、このこととも深く関連するだろう。

p.275 

周知のように、ベトナム全土解放より一足先立って、カンボジア解放は四月一七日のプノンペン陥落で終了した。

p.59

『潮』と同じ。

(未確認)

p.59

『潮』と同じ。

p.59

周知のように、ベトナム全土統一より一足先立って、カンボジア内戦は四月一七日のプノンペン陥落で終了した。

p.277

(これがのちにとりもどされたのは、フランスがタイに逆侵略した結果であった。)

p. 61

(これがのちにとりもどされたのは、フランスがタイに侵略した結果であった。)

(未確認)

p. 61

第1刷に同じ。

p.61

第1刷に同じ。

p.278

だがカンボジア解放区は、そうではなかった。ベトナムと同様だろうと甘く(?)みたジャーナリストが、次々と殺されたり行方不明になった。私の既知のジャーナリストも、カンボジア解放区で何人かやられている。ある一人は生還したが、それはほとんど奇跡的生還であった。生還できた大きな理由のひとつは、実はその解放区に北ベトナム軍兵士がいたことが幸いしたようだ。クメール・ルージュの場合、たとえば敵国アメリカの人間がつかまると、すべてのアメリカ人は、アメリカ人であることによって敵とみなされ、処刑したことが多いようだ。日本も、佐藤政権がアメリカの政策を支持したとき、日本は敵と判断すると、日本人すべてを、日本人であることによって処刑の理由とする没階級的な判断をした例が報告されている。ある技術者の処刑はその典型だったらしい。もちろん、クメール・ルージュの指導者がそのような指導をしたとは思われない。末端まで指導が徹底していなかったのであろう。

 さて、その別の例と思われるものに、プノンペン解放後の外国人対策がある。プノンペンの全市民を退去させたこと自体には、それなりのカンボジア革命路線があったのであろう。例によってアメリカが宣伝した「共産主義者による大虐殺」などは全くウソだったが(それを受けて宣伝した日本の反動評論家や反動ジャーナリストの姿はもっとこっけいだったが)、しかし末端にはやはり誤りもあったようだ。さきにのべたような背景を理解すれば、そうした誤りを犯す感情もよく理解できるけれども、これはやはり克服しなければ、帝国主義勢力に対する幅広い国際統一戦線にとってマイナスに作用するだろう。

 さる七月二四日、私はサイゴンで一人の若い中国人女性に会った。彼女はプノンペンにいた華僑だが、解放後やはりプノンペンを追われ、ある貧しい農村で労働に従事していた。以来二か月余りすぎたある夜、ここを脱走して七月二日にベトナムへ逃亡してきたのであった。

 ここに彼女の体験を報告するが、決してこれはカンボジア革命を否定するためのものではない。こうした体験者の話しを過大に増幅して書きたてる反動側の文筆家がいることを知っているので、それに対する一つのカウンター・ブロー(迎撃)として、こうした報告を出しておく必要にせまられたためだ。カンボジア革命に歴史的背景をややくどく説明したのも、そのためである。

p.63

だがカンボジア解放区は、そうではなかった。ベトナムと同様だろうと甘く(?)みたジャーナリストが、次々と殺されたり行方不明になった。私の既知のジャーナリストも、カンボジア解放区で何人かやられている。日本電波ニュースの鈴木利一氏は生還したが、それはほとんど奇跡的生還であった。生還できた大きな理由のひとつは、実はその解放区に北ベトナム軍兵士がいたことが幸いしたようだ。クメール・ルージュの場合、たとえば敵国アメリカの人間がつかまると、すべてのアメリカ人は、アメリカ人であることによって敵とみなされ、処刑したことが多いようだ。日本も、佐藤政権がアメリカの政策を支持したとき、日本は敵と判断すると、日本人すべてを、日本人であることによって処刑の理由とする没階級的な判断をした例が報告されている。ある技術者の処刑はその典型だったらしい。もちろん、クメール・ルージュの指導者がそのような指導をしたとは思われない。末端まで指導が徹底していなかったのであろう。

 さて、その別の例と思われるものに、プノンペン解放後の外国人対策がある。プノンペンの全市民を退去させたこと自体には、それなりのカンボジア革命路線があったのであろう。例によってアメリカが宣伝した「共産主義者による大虐殺」などは全くウソだったが(それを受けて宣伝した日本の反動評論家や反動ジャーナリストの姿はもっとこっけいだったが)、しかし末端にはやはり誤りもあったようだ。さきにのべたような背景を理解すれば、そうした誤りを犯す感情もよく理解できるけれども、これはやはり克服しなければ、帝国主義勢力に対する幅広い国際統一戦線にとってマイナスに作用するだろう。

 さる七月二四日、私はサイゴンで一人の若い中国人女性に会った。彼女はプノンペンにいた華僑だが、解放後やはりプノンペンを追われ、ある貧しい農村で労働に従事していた。以来二か月余りすぎたある夜、ここを脱走して七月二日にベトナムへ逃亡してきたのであった。ここに彼女の体験を報告するが、決してこれはカンボジア革命を否定するためのものではない。こうした体験者の話を過大に増幅して書きたてる反動側の文筆家がいることを知っているので、それに対するひとつのカウンター・ブロー(迎撃)として、こうした報告を出しておく必要にせまられたためだ。カンボジア革命の歴史的背景をややくどく説明したのも、そのためである。

p.63

第1刷に同じ。

p.63

第1刷に同じ。

p.63

だがカンボジア解放区は、そうではなかった。ベトナムと同様だろうと甘く(?)みたジャーナリストが、次々と殺されたり行方不明になった。私の既知のジャーナリストも、カンボジア解放区で何人かやられている。日本電波ニュースの鈴木利一氏は生還したが、それはほとんど奇跡的生還であった。生還できた大きな理由のひとつは、実はその解放区に北ベトナム軍兵士がいたことが幸いしたようだ。クメール・ルージュの場合、たとえば敵国アメリカの人間がつかまると、すべてのアメリカ人は、アメリカ人であることによって敵とみなされ、処刑したことが多いようだ。日本も、佐藤政権がアメリカの政策を支持したとき、日本は敵と判断すると、日本人すべてを、日本人であることによって処刑の理由とする没階級的な判断をした例が報告されている。ある技術者の処刑はその典型だったらしい。クメール・ルージュの指導者がそのような指導をしたのか、あるいは末端まで指導が徹底していなかったのかはまだ分からない。

 さて、その別の例と思われるものに、プノンペン解放後の外国人対策がある。プノンペン全市民を退去させたこと自体には、それなりのカンボジア革命路線があったのであろう。アメリカが宣伝した「共産主義者による大虐殺」によって全市民がただちに虐殺されたとも思われぬが、すべては鎖国状態の中にあっては事実そのものが全くわからず、噂や一方的宣伝ばかりでは軽々に論じられない。さきにのべたような背景を理解すれば、外国人対策で誤りを犯す感情もよく理解できるけれども、これはやはり克服しなければ、帝国主義勢力に対する幅広い国際統一戦線にとってマイナスに作用するだろう。

 さる七月二四日、私はサイゴンで一人の若い中国人女性に会った。彼女はプノンペンにいた華僑だが、解放後やはりプノンペンを追われ、ある貧しい農村で労働に従事していた。以来二ヶ月余りすぎたある夜、ここを脱走して七月二日にベトナムへ逃亡してきたのであった。ここに彼女の体験を報告するが、決してこれはカンボジア革命を否定するためのものではない。こうした体験者の話しを過大に増幅して書きたてる反動側の文筆家がいることを知っているので、それに対する一つのカウンター・ブロー(迎撃)として、こうした報告を出しておく必要にせまられたためだ。カンボジア革命に歴史的背景をややくどく説明したのも、そのためである。

p.279

看視はみんな逃げていた。

p.65

看守はみんな逃げていた。

(未確認)

p.65

第1刷に同じ。

p.65

第1刷に同じ。

p.280

ここで一日休んでいる間に、スーさんは家族と合流できた。

p.67

ここで休んでいる間に、スーさんは家族と合流できた。

(未確認)

p.67

第1刷に同じ。

p.67

第1刷に同じ。

p.280

四月二十五日、一行はスンの町を通過し、…

p.68

四月二十五日、一行はスンの町を通過し、…

(未確認)

p.68

第1刷に同じ。

p.68

第1刷に同じ。

p.284

 スーさんの体験は、以上のようなものであった。革命の過程での、いわば被害者としての華僑スーさんの説明には、あるいは誇大なこともあるかもしれない。また、たとえば米の配給量を差別したことなど、あるいはクメール・ルージュの中央の方針ではないのかもしれない。末端の誤りなのかもしれない。しかしそれでも、やはりこうした全体の情況は、私たちベトナム報道に長くたずさわった者の目からみると、とうてい擁護することはできない。一方しかし、こうした混乱もあるていど仕方のないものだとすれば、逆にベトナム革命がいかに巧みで輝かしい例かという証明にもなろう。

p.75

 スーさんの体験は、以上のようなものであった。革命の過程での、いわば被害者としての華僑スーさんの説明には、あるいは誇大なこともあるかもしれない。また、たとえばクメール・ルージュの中央の方針ではないのかもしれない。末端の誤りなのかもしれない。しかしそれでも、やはりこうした全体の情況は、私たちベトナム報道に長くたずさわった者の目からみると、とうてい擁護することはできない。一方しかし、こうした混乱もあるていど仕方のないものだとすれば、逆にベトナム革命がいかに巧みで輝かしい例かという証明にもなろう。

p.75

第1刷に同じ。

p.75

第1刷に同じ。

p.75

 スーさんの体験は、以上のようなものであった。革命の過程での、いわば被害者としての華僑スーさんの説明には、あるいは誇大なこともあるかもしれない。また、たとえばクメール・ルージュの中央の方針では、あるいはなかったのかもしれない。しかしそれでも、やはりこうした全体の情況は、私たちベトナム報道に長くたずさわった者の目からみると、とうてい擁護することはできない。一方しかし、こうした混乱もあるていど仕方のないものだとすれば、逆にベトナム革命がいかに巧みで輝かしい例かという証明にもなろう。

p.285

キュー・サムファンはパリで教育を受けたインテリだが、一時シアヌーク内閣に入閣していたころも、きわだって質素な生活をしていたという。 (略) プノンペンの市民の総入れ替えといった思い切った政策は、こうした彼の態度も反映しているのかもしれない。そして、石油も農薬も一切拒否して、自然のままの、まずしくとも平和な生活を自主路線として求めているとしたら、あるいはこれは近代文明の悪を見抜いたインテリの哲学を実践しているのかもしれない。

p.76

キュー・サムファンはパリで教育を受けたインテリだが、一時シアヌーク内閣に入閣していたころも、きわだって質素な生活をしていたという。 (略) プノンペンの市民の総入れ替えといった思い切った政策は、こうした彼の態度も反映しているのかもしれない。そして、外国の介入を許しやすい石油も農薬も一切拒否して、まずしくとも平和な自主路線として求めているとしたら、あるいはこれは近代文明の悪を見抜いたインテリの哲学を実践しているのかもしれない。

p.76

第1刷に同じ。

p.76

第1刷に同じ。

p.76

第1刷に同じ。

p.285

 とはいえ、現代はすでに鎖国が不可能である。げんに、カンボジアの重要な戦闘には北ベトナム軍が決定的役割を果たしたではないか。(そうした戦闘に加わった北ベトナム軍兵士と、私はサイゴンで会って話した。)六月はじめに私たちがハノイにいたとき、カンボジアの最高首脳からなる代表団がハノイに来たし、その後まもなく、こんどは北ベトナムの第一人者レズアン第一書記がプノンペンを訪問している。いま平壌を訪問しているカンボジアの代表団は、そうした動きの結末でもある。カンボジアはいずれ必ず、門戸を開くであろう。もちろんそれは、民族自決の上での、かれらの方式による、かれらのための開放であろう。それはもはや外国人がでかい顔をして歩くことのできないときであろう。当然である。

p77

潮に同じ。

p.77

潮に同じ

p77

潮に同じ。

p.77

 とはいえ、現代はすでに鎖国が不可能である。げんに、カンボジアの重要な戦闘には北ベトナム軍が決定的役割を果たしたではないか。(そうした戦闘に加わった北ベトナム軍兵士と、私はサイゴンで会って話した。)六月はじめに私たちがハノイにいたとき、カンボジアの最高首脳からなる代表団がハノイに来し、その後まもなく、こんどは北ベトナムの第一人者レ・ズアン第一書記がプノンペンを訪問している。いま平壌を訪問しているカンボジアの代表団は、そうした動きの結末でもある。これらの結果がどうなるか予断はできないが、鎖国をいつまでも続けられるものではないことは確かであろう。

p.77

<第九刷からの追記>

この脱出華僑の話しはすべて正しく、鎖国カンボジアは全土が刑務所化していたことが、この四年後に明らかになる。詳細は拙著『検証・カンボジア大虐殺』(朝日文庫)参照。

p.78〜 ポル・ポト政権の大虐殺と報道(対談=木谷八士氏)『赤旗』日曜版=1979.2.4

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最終更新日1999/11/01 (Y/M/D).