本多勝一研究会重要文献解題

本多勝一

「男芸者になることを拒否したジャーナリスト--松浦総三著『天皇とマスコミ』書評--」

『潮』1976年2月号,朝日文庫『職業としてのジャーナリスト』

文責:佐佐木嘉則

解説

表題が示すとおり、松浦総三氏をヨイショする記事。

ここに注目!

すさまじいまでの「芸者」攻撃。

読みどころ

赤字による強調は引用者による;引用は朝日文庫『職業としてのジャーナリスト』から)

「こうした発言をフリーのライターがするということは、実は大変な勇気がいる。これによって松浦氏は、もはや男芸者すなわち「一流ライター」にならぬことを宣言したようなものであり、それは確実にメシのこと(生活のこと)にはねかえってくることであろう。なぜか。

たとえば、ここにいわゆる“一流”大新聞のX紙があるとしよう。このX紙はさすが“一流”だけあって、記者の実力としても第一級の人物が多い。そうした記者は、基本的にはもちろん「しょせん日本支配層の男芸者」であることが多いが、それほど破廉恥ではないから、あまりにも丸出しの男芸者ぶりを仕事で示す例は案外少ない。このX紙に、記者の実力からみて第二級の人がいたとしよう。もしこの記者が「一流ライター」になろうとしたら、どうすればいいか。X紙内部ではもはや無理だ。となれば、フリーになって体制側の雑誌の露骨な男芸者になるのが一番早い。実力は二流でも、大変重用されて「有名」にしてくれよう。

反対の例をあげよう。もし体制側の雑誌を場にしてあるフリーの有能なライターが世に出てきたとしよう。…座を守るためには、体制側を適当にくすぐったら、次は反体制側に対して猛反撃し、体制側を攻撃したときよりもはるかに執拗に反体制側を攻撃するこちによって、彼の男芸者ぶりを「支配層」に示してみせる以外にないであろう。

松浦氏は、そのような男芸者になることをはっきり拒否している。こうしたホンモノの視点から見れば、ニセモノをたちまち見破れるのは当然である。大宅壮一だの清水幾太郎だのが、いかに男芸者と化していったか。マスコミ全体が天皇をめぐっていかに男芸者だったか。さまざまな具体的人物を含めて、これはホンモノ松浦氏によるニセモノ鑑別帳ということもできよう。

ひとつだけ警告しておきたい。最近急激に男芸者ぶりを体制側雑誌に認められはじめた一派に、しろうとには一見「高級」であるかのごとくに見えて実は論理の全く欠如しているまがりくねった天皇擁護者がいる。…男芸者を拒否した松浦氏は、なるほど「現代の一流ライター」にはなれないかもしれない。だが何とそれは名誉なことであろうか。体制側諸雑誌に顔を並べた男芸者どもなど、いずれ歴史のカスとして消えてゆくことだろう。」

(137〜140ページ)

ざっと数えてみると、本多さんの地の文だけで「男芸者」が9回でてきます。

一方、この本の「あとがき」(309〜310ページ)には次のようにあります。

「…本書はそのような作品をつくる職業の意味を考えるものが多いといえましょう。

本書の中にも出てきますが、たとえば「男芸者」というような言葉があります。こういうときタトエによく出される芸者という職業は、お呼びさえかかればどんな奴の前にでも無節操に出ていって芸を売る典型として考えられているようです。しかし少し厳密に検討してみれば、芸者の中には無節操どころか大変な反骨精神に満ちた人物がいた(いる)こと、いわば「非芸者的芸者」の存在は明らかなのですが、世間的にはこれが無節操な職業の代表にされているのは、世に充満する偏見の中でも特にひどい例の一つといえましょう。

この偏見とは正反対の側にあるかにみえる職業の例として、高給官僚や文筆業者を挙げることができます。表面的には非芸者的よそおいを構えていながら、その内実は何と“芸者的”な人間が多いことでしょう。芸者の非芸者性と文筆業者の芸者性と。---すでに「男芸者」になりきってしまった哀しい人(有名無名をとわず)は別として、とくにこれから文筆業やマス=メディアの世界にはいろうとする若い世代には、これは一度は考えていただきたい問題であります。

    1983年12月26日(中国・南京にて)」

「男芸者」という表現が偏見に基づくものであることがわかっているのなら、「不適当な表現がありましたので修正しました」と明記の上でそういう表現を著作の中から削除するというのが誠意のあるやりかただと思うのですが、どうしてそうしないのですかね。「非芸者的芸者」、「芸者の非芸者性と文筆業者の芸者性」のような言い回しは一見「人物」と「職業」を切り離すかのようなポーズをとりつつ実際には職業への偏見・差別を温存するものであって、考えようによってはむきだしの差別表現以上に悪質なものであるともいえます。

「“芸者的”な人間」というところに本多さんの無責任さがもっとも端的にあらわれています。---カギカッコ(「〜」)やヒゲカッコ(“〜”)をつけて「これはオレがいっているのではなく、世間がそういっているのだ」と責任転嫁をはかったところで、多数の読者の前でそういう差別表現をひろめたという事実がきえてなくなるものではない。こういう表現というのはくりかえして耳/目にするたびに次第に自然に感じられてきて自分で使うのにも抵抗がなくなるものです。

岡庭昇『メディアと差別』

「くりかえしいうが”差別用語。などというのものは存在しない。ただしまぎれもなく差別言辞と差別表現はある。それは劣性や負性の比喩に被差別対象を引き合いにすることによって、差別と偏見を焼き直し、再生し、増幅し、絶対化する。そのような行為として糾弾されなけれぱならないのである。そしてマスメディアは、その無人称的匿名性(擬制された一般性)によって、もともとあらゆる俗念、俗信、俗論を合意された常識に仕立てあげる力学として存在する。両者の結びつきを、二重の規範力学として認識する必要がある。そこを対象として、真の差別批判を打ち立でなければならぬ。」

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最終更新日1999/11/01 (Y/M/D).