本多勝一研究会重要文献解題

本多勝一

「報道と言論におけるタブーについて」

時事通信社『講座・現代ジャーナリズム』第六巻「ジャーナリスト」収録(1974年発行)

朝日文庫『事実とは何か』収録

文責:佐佐木嘉則

解説

社会主義国の国内における言論の自由の問題について、本多氏の主張をもっともはっきりと伝える論考。

ここに注目!

日頃の「人権」だの「言論の自由」だのという建て前をかなぐりすてて、「プロレタリアの権力」を護るためには軍隊を動員してでも暴力を加えて言論弾圧をするのが当然、とホンネまるだしの発言にご注目。

読みどころ

赤字による強調は引用者による;引用は朝日文庫『事実とは何か』第11刷より)

「天皇は一般紙では最高かつ完全な、公然たるタブーであって、その点については論議の余地がない。…国立大学の教授を含むほとんどの公務員たちも、少数の例外(たとえば井上清氏など)を除くと、かなり進歩的ポーズをとっている人でも、このタブーに公然と挑戦することは避けている。…タブーが可能だということは、そうさせる力があることを意味し、その力によって多数の人々が---この場合でいえば新聞や放送の現場記者たちが---屈服させられていることを意味する。…少数とはいえ、猛烈に勇敢なタブー挑戦者は存在する。極端な例は、天皇に関したものでは『金剛石』という個人新聞の発行者であろう。天皇の犯罪を糾弾し、罵倒するだけを目的とした大変な新聞だ。しかしこうしたミニコミは、広告はもちろん、一切の体制側につながる機構---とくに流通機構の協力を得られないから、なにもかも個人の財力と手間でやるほかはなく、あくまでミニコミにとどまり、したがって影響力は少ない。」

「タブーを成立せしめている最大の圧力は、結局は経済支配であることが、ほぼ明らかになったと思う。…では、その経済支配を可能にさせているものは何であるか。日本でいうなら、それはもちろん自民党に代表される独占資本の権力である。そして権力を支えている具体的な力は、武力すなわち暴力としての軍隊(自衛隊)と警察にほかならない。地球はじまって以来、暴力なしの、丸ハダカの経済支配が成功したためしはないだろう。…中国その他のように、反対のプロレタリアによる権力でも、タブーとしては同じことが生ずる。すなわち、反革命や資本主義復活を推進させるような言論を、大っぴらに許すはずはないのだ。中国の権力、すなわち革命側にとっては、これはタブーであり、それを支えているのは、結局は人民軍というカウンター(迎撃)力である。そうであれば、もはや『タブー』という現象そのものは、本質的問題ではないことが理解されるだろう。このことは、たとえば『戦争が悪い』という言葉と似ている。近代から現代の『戦争』の多くは、侵略『した側』とい『された側』とのケンカであって、悪いのは決して『戦争』という現象そのものではないあくまで『侵略』が悪いのだ。侵略に対するカウンター暴力としての抵抗の結果、戦争という現象が見られるにすぎない。同様に、タブーもまた単に現象そのものであって、タブーそのものを正面に据えて論じてみても、あまり重大な意味を持つ成果をもららさぬであろう。要するに当り前のことである。権力のあるところ、タブーは避けられない一現象にすぎない。そのタブーに挑戦するということは、したがってその政権に挑戦することの戦術の一部と理解すればよいのではないだろうか。」

「タブー、とくに天皇タブーというと、よく右翼の狂信者のテロが連想される。中央公論社の嶋中事件は好例だが、私がここに述べてきたような本当の大暴力--軍隊と警察に比べると、こうしたテロなどは本質的に次元が違うと思っている。もちろん、本当の大暴力のための引き金にはなりうる。しかしそれは、大暴力が引き金として利用するにすぎず、こんなテロがあろうとなかろうと、権力はその気になりさえすれば何でもでっち上げるし、利用しつくすであろう。」

(184〜196ページ)

整理してみましょう

本多さんによれば、

「悪いのは決して『戦争』という現象そのものではない。あくまで『侵略』が悪いのだ。侵略に対するカウンター暴力としての抵抗の結果、戦争という現象が見られるにすぎない。」

つまり、

です。

「同様に、タブーもまた単に現象そのものであって、タブーそのものを正面に据えて論じてみても、あまり重大な意味を持つ成果をもららさぬであろう。要するに当り前のことである。」

すなわち、

したがって、

「中国その他のように、反対のプロレタリアによる権力でも、タブーとしては同じことが生ずる。すなわち、反革命や資本主義復活を推進させるような言論を、大っぴらに許すはずはないのだ。中国の権力、すなわち革命側にとっては、これはタブーであり、それを支えているのは、結局は人民軍というカウンター(迎撃)力である。」

つまり、

のと全く同様に

そうであるならば、本多さんにとってはそのような「武力すなわち暴力」の行使(逮捕・監禁・強制労働・拷問・虐殺など)を支持するというのが論理的帰結です。(現に、中国の「プロレタリアの権力」は漢人伝来の居住地区のみならずチベット、東トルキスタンなど各地で共産党政府のいいなりにならない膨大な数の人達に残忍な拷問を加え、虐殺してきました。)

本多さんが言論弾圧のための「武力すなわち暴力」の行使自体に反対しているのではないことは、次のくだりからもあきらかです。

「そうであれば、もはや『タブー』という現象そのものは、本質的問題ではないことが理解されるだろう。」

以上からあきらかなとおり、この「報道と言論におけるタブーについて」なる論文は本多氏が「進歩」を達成するために人権・自由や民主主義を犠牲にすることを当然視する思想の信奉者である(あった)ことを立証しています。

さらに

「権力はその気になりさえすれば何でもでっち上げるし、利用しつくすであろう。」

とあるところをみると、ひょっとしたら

ということなのでしょうか?

「紅衛兵」なる毛沢東派の私兵が捜査令状や逮捕令状すら持たないまま政敵に監禁・拷問・虐殺を加えるなど暴虐をほしいままにし百万〜千万人単位の死者を招いた(しかもその「罪状」なるものは多くの場合、言いがかり・冤罪であった)のが「文化大革命」なる世紀の愚挙ですが、本多さんがそれを礼賛した思想的背景をここにみることができます。また、1975年4月にクメール=ルージュが傷病者・老人・乳幼児を含む全都市住民を銃剣のもと地方に追い立てたことを「まことに賢明な戦略」と賛美した(「欧米人記者のアジアを見る眼」)ことも、これで説明できます。

なお、本多氏の論考に若干補足しておくと:上の引用には

「すなわち、【プロレタリアの権力が】反革命や資本主義復活を推進させるような言論を、大っぴらに許すはずはないのだ。」

とありますが、日本の「独占資本の権力」の方は、今のところ「反市場経済や社会主義を推進させるような言論」を「大っぴらに」は禁止しておらず、少なくとも建て前としては憲法に言論の自由が明記されています。現に、『赤旗』など社会主義政党の合法機関紙や本多さんが例として揚げている『金剛石』の存在はいうにおよばず、『週刊金曜日』という

「権力やスポンサーの干渉を排して、プライバシー以外の一切のタブーに挑戦できるこの貴重な雑誌」

(『週刊金曜日』定期購読申込書の裏面掲載、本多勝一「ご支援のお願い」1996年8月)

が日本に存在し「紀伊国屋や丸善など主要書店や一部大学生協でも入手でき」(同上)るということこそが、曲がりなりにも日本に言論の自由が存在するということの何よりの証拠でしょう。さらには、井上清京大名誉教授の『天皇の政治責任』は大手書店で平積みになって売られていました。

本多さんが賛美してやまなかった文化大革命のころ、中国ではそれに対応するような「猛烈に勇敢なタブー挑戦者」が数千万人の命を奪った毛沢東の悪政を批判することは可能だったでしょうか?とんでもない、そのような自由は決して認められず、残虐な迫害の対象となっていました。したがって、日本における言論の自由の情況と中国におけるそれとを、どちらも「権力のあるところ、タブーは避けられない」と単純にくくってしまうのはいいところ過剰な単純化であるといわざるをえません。(『週刊金曜日』の公称発行部数が5万部程度では世論を大きく動かすには少なすぎると御不満かもしれませんが、それに対しては、雑誌が多くの読者に支持されるか否かは何よりもまず内容次第だと申し上げておきます。)そういう意味では私も、『週刊金曜日』を、誇るべき日本の自由社会の象徴として「応援」せねばならないかとも考えます。

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最終更新日1999/11/01 (Y/M/D).