本多勝一研究会重要文献解題

本多勝一

「欧米人記者のアジアを見る眼」

『潮』1975年7月号(入稿は5月か?)

すずさわ書店『貧困なる精神第3集』191〜200ページ(初版1975年7月10日発行;第8刷(1982年4月20日)より削除)

文責:佐佐木嘉則


解説

1975年4月17日のプノンペン陥落直後にクメール=ルージュが強行した全市民の強制疎開は世界を驚愕させた。新政権の異常性を指摘する報道が西側のメディアを飾り、その一部は日本の新聞にも紹介された。そんな風潮に対して敢然と立ち向かい、カンボジア革命の理念とクメール=ルージュの民族解放の大義を訴えたのがこの「欧米人記者のアジアを見る眼」と題する記事である。この記事は直接には、シドニー・シャンバーグ(ニューヨーク=タイムズ記者)のルポ「プノンペンの2週間--陥落から脱出まで」(『朝日新聞』五月一二日朝刊掲載)に対する反論の形をとっている。

なお、『貧困なる精神第3集』第8刷(1982年4月20日付け)から、この記事は削除されている。

ここに注目!

クメール=ルージュの暴虐ぶりを現地で見聞したうえで報告するジャーナリストのいうことには耳を貸さず、ひたすら「解放勢力=正義、清廉」という御題目を信じて絶叫する本多勝一記者の純情ぶりをご覧あれ。この記事を書くにあたって本多記者は現地を全く取材していない。それ以前にも、飛行機の接続便待ちによる短期滞在(1968年)を除けば、カンボジアを満足に取材した経験すらない。つまり、頭の中だけでこしらえあげた「理想のカンボジア解放軍」をさも実在するかのごとく滔々と読者に向かってお説教しているのである。(ここで槍玉にあげられているシドニー・シャンバーグ記者のルポ「プノンペンの2週間--陥落から脱出まで」ともぜひ比較して検討されたい。)

成田空港建設・旧南ベトナムの「戦略村」・南米の先住民族隔離政策などに対しては住民を土地から追い立てる非を鳴らしている本多記者が、ここでは一転しクメール=ルージュが銃をつきつけて強制した即時疎開を「まことに賢明な戦略」と賞賛するという究極のダブル=スタンドード。「外国人(華僑/越僑)=金持ち=民衆の敵」「外国人の使用人=堕落した人間」という決めつけもすさまじい。そして、傷病者まで追い立てるクメール=ルージュの残虐ぶりを弁護することばに窮すると「欧米人(白人)対日本人(東洋人)」という図式にすりかえるお決まりの「論理」。本多記者が唱える「殺される側の論理」とやらの実態が一体どういうものか、再考せざるをえない。

さらに、「こんな危険な都市は、反革命の拠点にいつなるかわからない」から先手を打って住民を追い出し村落で強制労働をさせろ、というのは破壊活動防止法も遠く及ばぬ予防拘束の思想である。『金曜日』はオウムへの破防法適用に反対していたはず。プノンペン市民にはオウムのメンバー程度の人権も認められないのか。

読みどころ

赤字による強調は引用者による;引用は『貧困なる精神3集』より)

欧米の違った間尺の価値観をすべて上等と見させるのに貢献した大きな力は、基本的には明治以来の帝国主義体制だが、直接的には、知識人のレベルでは学者たち、大衆レベルでは新聞や放送であった。欧米の侵略者の説教を、無批判に、そのままか、ときには増幅して民衆に流したのだ。今なおそれは続いている。その説教の最近の一例を、ジャーナリズムの分野に拾ってみよう。」

「欧米人(白人)のジャーナリストは、完全解放後のカンボジアをどうみたか。その典型は、たぶん『ニューヨーク・タイムズ』特派員シドニー・シャンバーグ記者のルポ(『朝日新聞』五月一二日朝刊)にみられる。一言でいえば、これはかれら欧米人記者の眼による救い難い偏見で充満していて、アジア人の生活も心も全く理解できない欧米人記者による不幸な記事といえよう。

「五年間にわたった内戦に勝利を占め四月十七日プノンペンに入城したカンボジアの解放勢力は、いま農民革命を推し進めて、カンボジア全土を大きな変動の渦に巻き込んでいる。三百万から四百万人にものぼるカンボジア人が都市から追い出されて、農村部の奥深くへと徒歩での大脱出を強いられたのだ。解放勢力側の説明によれば、これは農民として畑を耕させるためだという。例外は認められず、高齢者も小さな子どもも、病人もけが人も、一人残らず旅を強制された。その中には、とうていそんな旅に耐えられない人たちもいたのに」

「追い出され」といった表現の問題には、一応ふれないでおこう。しかしこの文章は、事実として噴飯ものだ。「高齢者」と「小さな子ども」と「病人」と「けが人」だけプノンペンに残して、あとみんなが「大脱出」したらどうなるのか。」

「全体を通じてこの記者は、プノンペンの市民を農村へ分散させることを、頭から「悪」と信じて疑わぬ(私たち日本人も、戦争中はこの記者の国のB29による都市爆撃によって、農山村へ部会からの「大脱出」が強いられたものだ)。いったいカンボジアの解放勢力つまり本当にクメール人民から成る新政権が何を考えているのか、かれは本気で考えようとしたことがあるのか。」

「本来の市民がどのような人々であったかは、いくら鈍感な男でもプノンペン特派員なら知っているはずだ。次の記事を見られよ。

「カンボジア人の九割はもともと農民で、農村居住者である。その半面、プノンペンばかりでなく主要都市住民は、華僑、ベトナム人、あるいはその温血者がほとんど。たとえば、プノンペン中心部、繁華街の居住者はほぼ一〇〇%華僑であり、都市から農村への疎開といっても、純粋カンボジア人は元来都市には住んでいなかったのである」(『朝日』五月一七日、和田俊もとプノンペン特派員

このような特殊都市に住むカンボジア人は、例外的な金持ちと特権階級にすぎない。サイゴンやハノイとは本質的に異った性格の都市なのだ。東京や大阪の中心部が、外国人の金持ちだけで占められ、日本人は例外的成金と、外国人のもとで女中や門番として使われる者だけ、といった都市だったら、どういうことになるだろう。こんな危険な都市は、反革命の拠点にいつなるかわからない。そのため、搾取のない農村経済のもと、みんなが正しい意味で働きながら、まず自給を確立することから自立しようと考えたとしても、まことに自然なことではないか。合州国の退廃文化(帝国主義文化)でダラクさせられた都市の人々も、それによって健全なものに立ちなおるだろう。」

「邪推すれば、米軍は実はプノンペンを爆撃したかったのではないのか。カラッポにされてその意図を果せなかったのではないのか。そうであれば「大脱出」はまことに賢明な戦略でもあったことになり、多数の市民を米軍爆撃による虐殺から救ったことになる。」

「もちろん、合州国のキッシンジャー氏ら、ノーベル「平和」賞を受けた詐欺師たちは、プノンペンで解放軍による大虐殺が行なわれたというデマを言いふらした。それを受けて、シャンバーグ記者は書く。

「おそらく将官クラスらしい解放側の指導者の一人が、捕虜を前に話をした。彼は、裏切り者は七人の元指導者だけで、旧政権の他の指導者、高官については公正に扱うと保証した。そして『報復はしない』とも述べたが、捕虜たちの緊張した表情は、彼の言葉を信じたい気持ちはあっても、実際は信じられないことを物語っていた」

つまりこの記者は、現実に虐殺など見たこともないし、解放軍の「報復はしない」という言葉を直接きいているにもかかわらず、どうしても虐殺があったことにしたいのだ。実はこれは「合州国ならばそれが当然のハズだ」と告白しているようなものである。」

侵略者が、かれらの物の考え方で、かれらの価値観で、かれらの文化の間尺で、いわゆる「事実」を報道する。それが日本の新聞でも大々的にまかり通る。かれらのことを「アメリカ人記者」といわず「欧米人記者」としたのは、同じ『朝日』でいえばフランス人ベルナール・ゴード氏などを引用した次のようなAP電が出ていたからである。

「中には、病院からベッドのまま街中を運び出される病人もいた。『これを見る兵士の目には、あわれみがあった。しかし、彼らは、何もできなかった。彼らは鉄の手で管理されていたのだから』とゴード氏はいう」

「パックス・アメリカーナ(合州国の平和)が侵略と虐殺を意味していたように、その反世界としての「アジアの平和」は、どんな人間的なものであっても、無知な欧米人記者の目には「野蛮」としか見えないのである。私にとってカンボジアの農村は、ぜひ訪ねて報道したいところのひとつとなった。」

「〈追記〉【引用者注:『貧困なる精神3集』収録時に追加】その後、やはりプノンペンに残っていた日本人写真家・馬淵直城氏【引用者注:後に、ポル=ポト擁護派の論客として活躍】は、『アサヒグラフ』の五月三〇日号で「都市を農村にとり込んで浄化する」という文章と写真を発表した。その内容は欧米人記者のものと誠に対照的である。一部を引用しよう。

「パニック状態になって一番最初にホテルから脱出したのは国際赤十字の連中だった。薬も負傷者もすべて置きざりにしたままだった」

「途中の解放区では、整理された水田やかんがい施設を見た。食料はすべて解放班から提供され、二日目のプルサートでは野菜、くだもの、鳥、豚、たばこ、酒といった具合に手厚いもてなしを受けた。そこで解放軍の幹部から、今回の都市住民の“下放運動”について説明を聞いた。内容はこういうものだった。アメリカとフランスの両帝国主義に対する解放闘争であるこの戦争が、ともにカンボジアの革命であり、米帝を招じ入れた都市を農村に取り込んで浄化するためだ。階級闘争をも含むカンボジア独自の政策だと自負している……」

「いま私は、厳しいが楽しかった旅のあと、こうして無事国外へ出してくれた解放軍に対し、ほんとうに感謝している。一刻も早く、新生カンボジアが戦争の傷を癒し、力強い再興のツチ音を響かせてくれることを祈っている」

【引用者注記:第7刷(1980年4月30日)で下の追記を挿入;第8刷(1982年4月20日)増刷時に記事ごと削除──削除した旨の記載はなし】

<第7刷からの追記>その後、ポル・ポト政権による虐殺の問題が表面化してきたが、その問題と本論とは質的に別問題である。(一九八〇年四月)

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最終更新日2000/02/27 (Y/M/D).