本多勝一研究会重要文献解題

シドニー・シャンバーク

「プノンペンの2週間--陥落から脱出まで」

朝日新聞1975年5月12日6面

文責:佐佐木嘉則

解説

クメール=ルージュがプノンペンに入城して以来くりひろげた異常行為の数々を伝えるシドニー・シャンバーク(ニューヨークタイムズ記者)のルポは、カンボジア大虐殺報道の先駆とよぶにふさわしい。この記事のことを本多記者は「欧米人記者のアジアを見る眼」で罵倒し、クメール=ルージュを賛美している。

ここに注目!

本多氏の「欧米人記者のアジアを見る眼」と読みくらべて、どちらが「民衆の思い」を代弁し「殺される側」にたっているか判定しましょう。

読みどころ

赤字による強調は引用者による)

「三百万から四百万にものぼるカンボジア人が都市から追い出されて,農村部の奥深くへと徒歩での大脱出を強いられたのだ。解放勢力側の説明によれば,これは農民として畑を耕させるためだという。例外は認められず,高齢者も小さな子供も,囚人もけが人も,一人残らず旅を強制された。その中には,とうていそんな旅に耐えられない人たちもいたのに。」

「プノンペンでは二百万の人々がひとまとめになって,ショックのあまり押し黙ったまま,首都から出ていった。歩くもの,自転車に乗るもの,ガソリンの切れた自動車を押すものなど,人間のじゅうたんが道路を埋めつくした。だれもが,大急ぎでまとめた所蔵品の包みを背負っていた。病院にすし詰めだった負傷者も,一人残らず立ち退かされて,びっこを引きながら,はいながら,松葉づえに頼りながら,身内の背に運ばれながら,あるいは病院のベッドに乗せられたままで,市内から出ていった。解放勢力にはほとんど医師もおらず,医療品もお粗末なので,生命が助かる見込みのない患者も多かった。」

「戦闘で鍛え抜かれた兵士たちが登場した。…手投げ弾,ピストル,小銃,ロケット弾などで完全武装した彼らは,直ちに市内に展開して,ラウドスピーカーを使ったり武器を振り回したりしながら,市民に家から出るように命じた。」

「その日の昼過ぎ,私は…プレア・ケト・メレア病院がどうなっているかを見に出かけた。医師たちが怖がって出動しなかったため,廊下に放置された負傷者が出血多量で死にかけていた。午後一時に手術棟から出て,正面入口に向かって走り出したところ,ちょうど病院の構内には行ってきた重装備の兵士の一団に停止を命じられた。彼らは私たちの頭に銃口を突きつけ,怒りの叫びをあげながら,処刑すると脅した。そしてカメラやラジオ,現金,タイプライターなどあらゆるものを取り上げ,装甲兵員輸送車に乗るように命じて,とびらを閉めた。これで終わりだと思った。結局,ディト・プラン【引用者注記:シャンバーク記者のカンボジア人助手】が私たちの命を救ってくれた。二時間半にわたって兵士たちと交渉して,私たちは決して彼らの敵ではなく,彼らの勝利を取材している外国の報道陣に過ぎないのだと納得させてくれたのである。」

「情報省では,おそらく将官クラスらしい解放側の指導者の一人が,捕虜を前に話をした。彼は,裏切り者は七人の元指導者だけで,旧政権の他の指導者,高官については公正に扱うと保証した。そして「報復はしない」とも述べたが,捕虜たちの緊張した表情は,彼の言葉を信じたい気持ちはあっても,実際は信じられないことを物語っていた。」

「情報省を出てル・プノン・ホテルに向かったが,そこでも驚くことが待っていた。赤十字が前日,同ホテルを中立の国境地帯に指定し,大きな赤十字の旗でおおっていたのに,共産側は意に介しなかったのである。午後四時五十五分にはロケット弾が敷地に飛び込み,全員,三十分以内に立ち退けという指令が出ていた。」

「私たち八百人の外国人がフランス大使館で過ごした二週間にわたるろう城生活は,無秩序に圧縮された人間の一生のように思われた。…深い悲しみの日々が続いた。外国の旅券を持たないカンボジア人は,地方への強制移住を強いられた。友人同士が離れ離れになったし,ヨーロッパの女性と結婚していたカンボジアの男性は妻から引き離された。こんな日には,大使館のあちこちからすすり泣きが聞こえた。

「私の赤ちゃん,たった一人の赤ちゃんを助けてください。お願いです…」−

強制移住の長旅に出れば生きる力はないと悟っている数人のカンボジア人女性が,涙を流しながらフランス人一家に,赤ん坊の引き取りを頼んでいた。

「カンボジア人達が大使館を出ていった日は雨が降っていた。約五百人が大使館の門をくぐって連れ出されたとき,私たち外国人は前庭に立ち,恥も外聞もなく泣いていた。」

「四月三十日朝,タイへの脱出行のため,我々はフランス大使館をあわただしくあとにした。…憂うつな光景にも出会った。プノンペンなどから追い立てられた農民たちが,手押し車を押したり,重たい荷物を担ぎながら,内陸部に向けてまだ歩き続けていたのだ。国道にはあちこちに車が立ち往生し,敗走した旧政府軍が捨てていった鉄カブトや武器なども散らばっていた。死体も見受けられた。しかし,それが行進に耐えきれずに死んだ人たちなのか,あるいは以前の戦闘で死んだ市民,兵士たちなのか,見きわめることはできなかった。」


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最終更新日1999/11/01 (Y/M/D).