本多勝一研究会重要文献解題

本多勝一

『検証カンボジア大虐殺』

朝日文庫 1989年11月20日初刷発行

文責:佐佐木嘉則

解説

本多勝一記者の2度(1978年3月;1980年8〜9月)にわたるカンボジア虐殺問題取材の結果の集大成。『カンボジアはどうなっているのか』(すずさわ書店、1978年)の関連部分と『カンボジアの旅』(朝日新聞社、1981年)をまとめなおしたもの。ただし、『カンボジアはどうなっているのか?』に資料として収められていた次の記事(全てカンボジア寄りの内容)は削除されています。

紙面の都合で削除するのは仕方がないとして、その断わり書きがないのはどうしてなのでしょうか?(伊藤氏の記事についてのみ、『検証カンボジア大虐殺』48ページ【注2】に次のような記載がある。「カンボジア側(ポル=ポト政権側)の取材については結局入国が許されなかったが、共同通信の伊藤正記者は入国できたので、拙著『カンボジアはどうなっているのか?』(すずさわ書店=一九七八年)に付録としてそのルポを収録した」。)

ここに注目!

かつては自分も「欧米人記者のアジアを見る眼」「カンボジア革命の一側面」でクメール=ルージュによる大量殺戮を根拠もなく否定していたのに、風向きがかわるとさっさと反ポル=ポトに鞍替えし、後発の虐殺否定派を罵倒しはじめる変わり身の早さには感心させられます。

自分に都合のいいように、“タイ領内のカンボジア難民を取材対象とした虐殺報道はほとんどなかった”などと、まったく事実に反することを書いているのにもご注目ください。

読みどころ

赤字による強調は引用者による;引用は1992年発行第3刷より。)

「『虐殺があったか、なかったか』を私としても最も重視したのは、この点で共通認識がなかったら、そのあとの一切の議論が無意味になってくるからです。とにかくこの事実の有無をまず確定しなければならない。そのためには一切の国際的エコヒイキを捨てて、冷静にファクト(事実)を拾わなければならない。(中略)『虐殺はウソだ』と、根拠もなく叫んでいる幼稚な段階の方たちには、とてもまともな相手はできません。」(419〜420ページ)

「今となってはポル=ポト政権下での大虐殺を疑う者など、なにか特別なアナクロニズム的集団以外にはなくなりましたが、10年ひと昔まえにはこんなことで、“大論争”が行なわれていたものです。その雰囲気の一端は、本多勝一篇『虐殺と報道』(すずさわ書店)に見ることができるでしょう。大マスコミに現われた一例として、朝日新聞1978年5月24日朝刊の「声」欄に出たある代議士の投書「カンボジアの実情よく写す」を挙げておきましょう。『大虐殺などあろうはずがない』『温和な顔に、自信をもって語るポル=ポト首相の言葉』といった論評です。事実に立脚しないジャーナリストや学者や評論家や政治家がどれほど多いか、それがどんなに空しいものかを、南京大虐殺をめぐる論争とともに、これもまた証明する典型的事件となりました。単に『空しい』だけであればまだしも、虚偽をもとに危険な方向に世論を導くのですから放置するわけにもゆかず、こんな調査報道もやらざるをえなかったのです。」(449〜450ページ)

さて、クメール=ルージュの残虐行為の情報はタイに逃れ出た難民の証言を主たる情報源として、プノンペン陥落の直後からすでに西側メディアに報じられていたのですが(たとえば"Tales of Terror and Upheaval"『タイム』1975年8月4日号)、これが読者に知られると困ると思ったのか、本多記者は次のような不思議なことを書いています。

「 【 タイ領内の 】 難民キャンプにいるカンボジア人たちについては、あらゆるメディアとさまざまな型の報告者たちによって、これまですでに膨大な記事(または放送)が発表されてきた。にもかかわらず、ただ一点、ポル=ポト政権下での虐殺問題については、どういうわけか報道量が少なく 、とくに定量的調査については、私の知るかぎり絶無であった。」(367ページ)

残念ながら、同書に「解説」を寄せた現代カンボジア問題の専門家・井川一久氏(朝日新聞編集委員(当時))が次のように真相を暴露してしまっているので、注意深い読者には本多記者の小細工がミエミエです。

大虐殺の情報はポ政権成立の直後から、タイに流出したカンボジア難民の体験談などを通じて世界に伝えられていた。ポ政権が徹底した鎖国政策をとり、他国との民間通信一切を禁止していたという一事からも、カンボジア国内で苛烈な何ごとかが進行していることは想像に難くなかった。」

(井川一久「解説」より、460〜461ページ)

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最終更新日1999/11/01 (Y/M/D).