本多勝一研究会重要文献解題

"Tales of Terror and Upheaval"

『タイム』1975年8月4日号

文責:佐佐木嘉則

解説

アメリカの雑誌『タイム』は、1975年の夏当時タイに逃れ出ていたカンボジア難民(約7000人いたそうです)からの取材を中心にして、"Tales of Terror and Upheaval" と題する丸1ページの記事を掲載しています(本多勝一記者が『潮』10月号に「カンボジア革命の一側面」を寄稿して“大虐殺は全くウソ”と断言したしたのは、この『タイム』の記事が出てしばらくしてからです)。本多記者が1978年にベトナムで実施したのと類似した難民への聞き取り取材を、『タイム』の記者は1975年に早くもタイ側でやっていたわけです。

ここに注目!

『タイム』は、難民たちの話を無条件に受け入れているわけではなく、彼等は本国へ強制送還されるのを避けようとするため、ややもすると本国での苛政ぶりを誇張する傾向がある、ということを指摘して読者に注意を喚起しています。

"Fearful of being send back to Cambodia, the refugees may tend to exaggerate the horrors of life under the new regime."

(拙訳:「カンボジアへ送還されるのを恐れるあまり、難民達は新体制下での恐怖の日々を誇張する傾向があるかもしれない。」)

にも関わらず、今から読んでも、(細かい数字などは別として)大筋において、この『タイム』が伝える難民たちの証言が描き出すポル=ポト政権下の状況の正確さには、舌を巻くほかありません。いささか大袈裟に言えば、1978年以降の本多記者のカンボジア虐殺報道もそのかなりの部分は、結局のところ1975年8月の『タイム』の報告を肉付けするものであった、とすら「極論」できるほどです(←これは本多記者を批判するものではありません)。ここに示されているようなプノンペン陥落以降の約3か月間のできごとが、すでにその後の4年弱にわたるカンボジア大虐殺の展開を暗示しているような感すらあります。

"Nonetheless, the sheer volume of stories portraying a land in the midst of an abrupt, brutal social upheaval suggests that many of them are probably true."

(拙訳:「にもかかわらず、突如として始まった恐るべき社会的大変動を伝える報告談の多さだけからみても、その多くはおそらくは事実であると思われる。」)

読みどころ

以下、取材のしかたによっては、1975年の夏の段階ですでにいかに正確なカンボジアの国内情報が入手可能であったかを示すため、1975年の『タイム』(豪州版第30ページ)と、1989年の本多記者の『検証・カンボジア大虐殺』を対比しながら引用します。

赤字による強調は引用者による)

1975年8月4日号 『タイム』

The refugees report seeing summary executions of civilians and soldiers by Communist guards..."

(拙訳:「難民達は、共産軍の兵士が民間人や 【 ロン=ノル軍の 】兵士を集団処刑するのを目撃したと報告している。」)

5月6日のフォード米大統領発表を裏付ける処刑現場の目撃証言がその年の夏にはすでに難民から得られていたむね、『タイム』が伝えていることにご注目ください。「カンボジア革命の一側面」が執筆されたとされる1975年8月19日にはもはや、旧軍将兵、公務員の大量処刑は「噂や一方的宣伝ばかり」(『貧困なる精神・第4集』第9刷「プノンペン陥落の一側面」63ページ)ではありませんでした。

1975年8月4日号 『タイム』

Sari Khoan, 35, a master sergeant in the loyalist forces, told TIME Correspondent David Aiket that after the Communists took over the city of Battambang, about 750 officers who had served in the Lon Nol army were taken by truck outside the city and executed.

(引用者訳:「政府軍のサリ=コアン曹長(35歳)は『タイム』誌特派員デービッド=アイケットに対し、バタンバン市を共産軍が制圧した後約750名のロン=ノル陸軍将校がトラックで市外に連れ去られ処刑された、と述べている。」)

1975年8月4日号 『タイム』

...most of the victims of Khmer Rouge reprisals were former officials or soldiers of the Lon Nol regime, and that they were killed in the days just after the Communists took over."

(引用者訳:「クメール=ルージュの報復の的になった犠牲者の多くはロン=ノル政権下の将校や兵士であり、彼等は共産主義者が権力を握ってから数日のうちに殺された。」)

1989年 本多勝一著『検証・カンボジア大虐殺』315ページ

「ヲ゛ルサール村トメイ部落には、もとロン=ノル軍の兵卒の生き残りが二人いる。かれらの話によれば、将校や下士官らはロン=ノル政権崩壊後短時日のうちにほとんど殺されてしまったが、兵卒たちはその家族ごとに集められ(中略)山中へ開墾に送りこまれた。」

1989年 本多勝一著『検証・カンボジア大虐殺』315〜316ページ(上の引用にひきつづき)

「この一団は恐るべき重労働と、恐るべき少食による飢餓によって、見るみる死んでいった。---『それはもう、明らかに殺すことを目的とした酷使と飢餓でした。毎日10人、15人と死んでゆきます。(後略)。』三人で一日に直径1メートルほどの大木を倒し、薪の大きさに細かくしてきれいに始末しなければならない。これを達成できないと、その現場でクワを使ってたたき殺される。二人はこのような『処刑』を何回もみたし、死体を埋める作業もやらされた。家族ぐるみだから女も子供もいて、小さい子は木の根でも撲殺した。赤ん坊はどんどん餓死し、さらにマラリア(カンボジア語『クルン=チャイン』)でも死んでいった。」

(ここは、『タイム』の記事にいささか誇張があるかもしれません。『検証・カンボジア大虐殺』によれば、件のロン=ノル軍の兵卒たちの中には、過酷な状況にも関わらず少なくとも数週間ないし数か月は生き延びた人たちもいたようですから、ロン=ノル軍の兵卒までがほとんど一人残らず旬日のうちに殺されたような印象を与えかねない『タイム』の書き方は、本多記者の記事を基準にして判断する限りでは、いささか大袈裟です。しかし、計画的な殺りくがあったことは、『タイム』の伝えるとおり です。また、下士官クラス以上の多くは、『タイム』の報じるとおり、もっと早く殺されてしまっていた模様です。)

1989年 本多勝一著『検証・カンボジア大虐殺』114〜115ページ

「処刑は一度に行われたわけではなく、1975年の解放以後少しずつ進行した。まずやられたのはシハヌーク政権またはロン=ノル政権側の兵士だった。突然逮捕され、連行されたまま帰ってこない。次いで、残った妻子がやられた。これは公開処刑になった例が多く、農具のクワなどでなぐり殺すか、あるいは生き埋めにした。生き埋めのときは、部落の三叉路か四叉路の中央に本人に穴を掘らせる。胸まではいらせて周囲から土を埋めると、呼吸困難に陥って30分ぐらいで死んだ。クワで撲殺するときも、当人に掘らせた穴の横にすわらせ、殺して埋めた。」

(『タイム』は、集団処刑(summary execution)と書いていますから、『検証・カンボジア大虐殺』が伝える五月雨式の処刑とは、いささか異なるといえば異なりますが、結果において多数の人たちが殺されたという事実は動きません。処刑の規模やペース、方法が地域によって多少違っても特に驚くにはあたりません。また、『検証・カンボジア大虐殺』の別の箇所(282〜285ページ)では、ポル=ポト政権下で実際に集団処刑が行われていたことも報じられています。)

1975年8月4日号 『タイム』(プノンペンからの強制移住に関して)

"...in the first days of the exodus the roads were littered with the bodies of those who simply could not survive the march.”

(引用者訳:「疎開が始まったころは、行進についていけなかった人達の死体が路上にころがっていた。」)

1989年 本多勝一著『検証・カンボジア大虐殺』130ページ

「プノンペン陥落で、例によって『三日間だけ疎開するように』と彼女らも言われ、着のみ着のまま出た。結局は出身地の故郷スワ゛イリエン省コンポンロー郡ロー村へ、139キロを21日間もかかって歩かされた。一緒に出た市民たちは、途中で飢餓、銃弾、日射と疲労、疫病などでどんどん死んだ。」

1975年8月4日号 『タイム』

"Several refugees told of men, women and children gunned down by Communist soldiers as they tried to escape from forced labour in the villages."

(引用者訳:「村内での強制労働から逃亡しようとした男女・子供達を共産軍兵士が撃ち殺したと、難民達は証言している。」)

1989年 本多勝一著『検証・カンボジア大虐殺』357ページ

(強制労働させられている部落から脱出しようとした夫婦の体験:1978年のできごと) 「うまい具合に兵隊たちの包囲網をくぐり抜けたわけだが、そのまま逃げて行くと、気付かれて2、3発撃たれた。包囲が二重になっていて、されに外側が囲まれているのだ。仕方がないので、妻の頭を押さえて草の中に隠れた。」

(幸いにも、この夫婦は九死に一生を得たそうです。)

1975年8月4日号 『タイム』

"The country's food supply seems to vary from place to place. Some refugees have told of people trying to survive on leaves and banana roots; others said that they were given a daily allotment of 600 grams of rice a day--a meager diet, but above the minimum requirement of 450 grams needed to prevent malnutrition, according to the World Health Organization."

(引用者訳: 国内の食料供給は場所によって異なっているようである。生き残るために人々が葉っぱやバナナの根まで食べた、と言っている難民達もいる。一方、他の難民によれば、毎日600グラムの米の割り当てがあったという。これは粗食ではあるが、栄養失調にならないために最低限必要な量として世界保健機構が発表している450グラムを上回っている。)

1989年 本多勝一著『検証・カンボジア大虐殺』131ページ

「朝、未明の三時に鐘が鳴ると1カ所に集まり、畑仕事の一日が始まる。食事は正午と午後6時の二回、おかゆが茶碗に一杯ずつ。ほかにバナナの木の若芽を煮出して塩味をつけたスープと、わずかな野菜くらい。」

(これにくらべると、本多記者が1975年の「カンボジア革命の一側面」で取材した華僑女性スーさんは、強制移住先でも、ずっと“恵まれた”食環境にあったようです。本多記者によれば、スーさんへの配給米は一日4合、さらに、カンボジア人の場合は、その倍以上もらっていたそうですから(同書281ページ)。)

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最終更新日1999/11/01 (Y/M/D).