文責:佐佐木嘉則
本多勝一記者は、1975年の6月から統一ベトナムを訪れた。その折り、サイゴンで永井清陽氏(読売新聞記者)の紹介で、クメール=ルージュ政権下のカンボジアから脱出してきた華僑女性をインタビューする。
「ここに彼女の体験を報告するが、決してこれはカンボジア革命を否定するためのものではない。こうした体験者の話しを過大に増幅して書きたてる反動側の文筆家がいることを知っているので、それに対する一つのカウンター・ブロー(迎撃)として、こうした報告を出しておく必要にせまられたためだ。」
(『潮』、278ページ)
件の華僑女性は“疎開命令に従わなければ殺された”、“華僑系住民が食料配分の不公平を訴えると兵士に連行された”(処刑された可能性がきわめて高い)などクメール=ルージュの異常な残虐性をうかがわせる恐怖の体験談を綿々と語るが、本多記者はそれでも“末端”の“誤り”、“大虐殺は全くウソ”などと必死で「解放軍」をかばっている。(「全くウソ」と断定する根拠は“全く示されてない”。)
それらの発言はすずさわ書店『貧困なる精神4集』(1976年3月20日初版初刷発行)にもほぼそのまま収録され、その後さして問題になることもないまま第8刷(1987年3月25日発行)まで増刷を重ねた。ところが第9刷(1990年3月10日発行)にいたって、問題となる表現が削除・書き換えられており、標題も「プノンペン陥落の一側面」と変更されている。しかも、書き換えたことの断わりがきはどこにもないうえ、あいかわらず1975年の8月19日が「いま」(執筆日)とされている。(書き換えの詳細をみたければ、ここ をクリック。)これが発覚したことが直接のきっかけとなって、1995年暮れに読者有志が真意を問いただす公開質問状を本多氏宛て送付した。
クメール=ルージュを擁護する一方で、その狂気の犠牲となったプノンペンの無辜の民【ポル=ポト政権下で「新人民」として虐殺の主標的となり、最高頻度の犠牲者をだした】を「下僕」「賎業」「国辱」と口を極めて罵倒しているのにもご注目を。
とはいえ、気をつけて読むと、クメール=ルージュの異常性の生き証人に接して、「欧米人記者のアジアを見る眼」のような手放しの礼賛ができなくなっているのもみてとれる。「末端まで指導が徹底していなかったのであろう」だの「末端にはやはり誤りもあったようだ」だの「末端の誤りなのかもしれない」だのと自信なさそうな筆到で苦しいつじつまあわせを試みているのにもご注目ください。
なお、同じ時期(1975年夏)にサイゴンにあり取材対象の華僑女性を本多氏に紹介した永井清陽記者も、やはりカンボジア難民からの取材結果を「難民が伝えるプノンペンその後」という7月3日づけ記事(読売新聞)で報告している。永井記事と本多記事の比較をみたければ、ここをクリック。
(赤字による強調は引用者による)
(1975年4月17日の「解放」以前から、クメール・ルージュが外国人ジャーナリストや技術者を数多く処刑していたことに関し)
「 クメール・ルージュの指導者がそのような指導をしたとは思われない 。末端まで指導が徹底していなかったのであろう。」
(『潮』、278ページ)
「例によってアメリカが宣伝した 『共産主義者による大虐殺』などは全くウソだったが(それを受けて宣伝した日本の反動評論家や反動ジャーナリストの姿はもっとこっけいだったが)、しかし末端にはやはり誤りもあったようだ。」
(同、278ページ)
「カンボジアはいずれ必ず、門戸を開くであろう。もちろんそれは、民族自決の上での、かれらの方式による、かれらのための開放であろう。それはもはや外国人がでかい顔をして歩くことのできないときであろう。当然である。」
(同、285ページ)
(ロン・ノル政府時代のプノンペン市在住のカンボジア人について)
「 多くは、女中だの下男だのといったいわゆる下働きを、それも主として外国人の下働きをつとめるにすぎない存在であった。でなければ売春婦やポン引きのような賎業である。つまり大ざっぱにいえば、プノンペンの町は外国人およびその“下僕”としての国辱的カンボジア人からなっていたと極論することもできた。」
(同、277ページ)
「ここに彼女の体験を報告するが、決してこれはカンボジア革命を否定するためのものではない。こうした体験者の話を過大に増幅して書き立てる反動側の文筆家がいることを知っているので、それに対するひとつのカウンター・ブローとして、こうした報告をしておく必要にせまられたためだ。」
(同、278ページ)
(プノンペンの住民(「国辱的カンボジア人」)が、銃剣のもと否応なく農村に追い立てられ、それ以来日曜日も休まず連日の重労働を夜明けから日没ごろまで強いられたことに関して)
「 『労働』というものの意味を社会主義的に考えるかぎりでは、これはいわゆるドレイ労働ではないのだろう…。」
(同、281ページ)
「また、たとえば米の配給量を差別したことなど、あるいはクメール・ルージュの中央の方針ではないのかもしれない。末端の誤りなのかもしれない。」
(同、285ページ)
「キュー・サムファン【 クメール・ルージュ政権の副首相 】はパリで教育を受けたインテリだが、一時シアヌーク内閣に入閣していたころも、きわだって質素な生活をしていたという。他の閣僚たちが夜はネオンのちまたに行くのを日課としていたころ、彼はおそくまで仕事をして、母のいる家に帰るだけだったと。プノンペンの市民の総入れ替えという思いきった政策は、こうした彼の態度も反映しているのかもしれない。そして、石油も農薬も一切拒否して、自然のままの、まずしくとも平和な生活を自主路線として求めているとしたら、あるいはこれは近代文明の悪を見抜いたインテリの哲学を実践しているのかもしない。」
(同、285ページ)
最終更新日2000/04/10 (Y/M/D).