本多勝一研究会重要文献解題

永井清陽

「難民が伝えるプノンペンその後」

『読売新聞』75年7月3日4面

文責:佐佐木嘉則

解説

永井清陽記者(もと読売新聞のプノンペン駐在員)は、本多記者が「カンボジア革命の一側面」を執筆した1975年の夏に、やはりサイゴンにあって現地取材にあたっていた。それどころか、「カンボジア革命の一側面」の取材対象となったカンボジア華僑女性(7月24日取材)はもともと永井記者を宿に訪ねてきたもので、たまたま同じホテルに投宿していた本多記者が便乗取材したものである。(この経緯は『検証カンボジア大虐殺』に記されている。なぜか、「カンボジア革命の一側面」では触れられていない。)その永井記者が1975年7月3日の読売新聞にカンボジア難民からの取材に基づく記事を書いていたというのだから、本多記事の「ウラをとる」上で貴重な資料といえる。

ここに注目!

多数の疎開民が路上で横死を遂げたこと、傷病者が病院から追い出されてそのまま息絶えたことなど、長大な本多記事に載っていない情報が短い永井記事で要領よく報告されていることに御注目。(両記事の詳しい比較は、ここをクリック。)

読みどころ

赤字による強調は引用者による)

「カンボジア情勢は、さる四月十七日の解放後、革命政権の強硬な鎖国政策により、秘密のベールに包まれていたが、記者はサイゴン市内で旧知の元プノンペン市民数人に出会い、その生々しい話から謎に包まれていたカンボジア情勢の一端を伺い知ることができた。」

「解放直後に、解放軍がひん死の病人に至るまで追い出したのは事実らしい。」

「“大量”といえないまでも、いくつかの処刑があったことを、難民たちが証言している。ただし、それは、政治的報復ではなく、立ちのきをあくまで拒否して射殺された市民たちであり、病院のベットからほうりだされた身寄りのない病人たちがそのまま死んだともいう。市内から郊外にかけて、そうした射殺された人、病死した人の遺体が転がっていたのを、難民たちの全員が目撃している。」

ここが知りたい


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最終更新日1999/11/01 (Y/M/D).