基礎研究室

永井清陽vs. 本多勝一:

1975年のカンボジア難民記事比較表


記者

永井清陽

本多勝一

記者のカンボジアに関する知識・経験

三年余のプノンペン駐在員経験あり

ベトナム戦争中の1968年に、飛行機乗り継ぎのためプノンペンに短期滞在したのみ

記事名

「難民が伝えるプノンペンその後」

「カンボジア革命の一側面」

掲載媒体・時期

『読売新聞』75年7月3日4面

『潮』1975年10月号275〜285ページ

送稿日/執筆日

75年7月2日送稿

75年8月19日執筆

取材対象のカンボジア難民

少なくとも数名(旧知の間柄)

7月2日に脱出した華僑女性一名(初対面)

(なお、この女性がもともと永井記者を訪ねてきたのに便乗して本多氏が取材を行なったことは「カンボジア革命の一側面」には全く記載がなく、『検証カンボジア大虐殺』にのみ説明されている。情況から推察して、あるいは永井記者が本多記者のために通訳係を勤めたのかとも考えられるが、通訳に関する記述も記事中にない。)

取材時期

75年5月下旬(?)〜7月初頭

7月24日(件の華僑女性は、7月2日にカンボジアを脱出した。)

記述内容

傷病者の追い立てに関する記述

「解放直後に、解放軍がひん死の病人に至るまで追い出したのは事実らしい。」

病院のベットからほうりだされた身寄りのない病人たちがそのまま死んだともいう。市内から郊外にかけて、そうした射殺された人、病死した人の遺体が転がっていたのを、難民たちの全員が目撃している。」

記載なし。

なお、本多氏の「欧米人記者のアジアを見る眼」(『潮』1975年7月号)は、シャンバーグ記者がクメール=ルージュによる傷病者おいたてを批判的に報じたくだり(「プノンペンの2週間--陥落から脱出まで」)や同じくAP電を次のように冷笑している。

「追い出され」といった表現の問題には、一応ふれないでおこう。しかしこの文章は、事実として噴飯ものだ。「高齢者」と「小さな子ども」と「病人」と「けが人」だけプノンペンに残して、あとみんなが「大脱出」したらどうなるのか。」

「侵略者が、かれらの物の考え方で、かれらの価値観で、かれらの文化の間尺で、いわゆる「事実」を報道する。それが日本の新聞でも大々的にまかり通る。かれらのことを「アメリカ人記者」といわず「欧米人記者」としたのは、同じ『朝日』でいえばフランス人ベルナール・ゴード氏などを引用した次のようなAP電が出ていたからである。

「中には、病院からベッドのまま街中を運び出される病人もいた。『これを見る兵士の目には、あわれみがあった。しかし、彼らは、何もできなかった。彼らは鉄の手で管理されていたのだから』とゴード氏はいう」

疎開道中での路上の横死者・ポル=ポト軍による殺害に関する記述

市内から郊外にかけて、そうした射殺された人、病死した人の遺体が転がっていたのを、難民たちの全員が目撃している。」

記載なし。

ただし次のように町に死者があふれていたという記述はあるが、その死因に関する記載はなく、殺戮がクメール=ルージュによる「射殺」や疎開途上の行き倒れであることを示唆する記述もない。(そのくせ、「ウジやアリやいろんな虫が無数にたかっていた」というくだりなど必須と思えない記述がむやみに詳しい。)むしろこの書き方では、内戦中の戦火による犠牲者かという印象を与える。

「どこまで歩くのかと兵士らにきくと、近い町の名を答えたが、そこへ着くとまた歩けといわれた。そうした町はたいてい戦火で破壊されていて、ときには死人があふれ、それが腐っていて通るのも困難なことがあった。一行は空家や破壊された家のあとに泊まった。ある寺に泊まったときなど、夜は疲れていて気付かなかったが、朝起きてみたら坊さんなどの死体がまわりに散らばり、ウジやアリやいろんな虫が無数にたかっていた。」(280ページ)

立ち退きに抵抗したプノンペン市民の処刑に関する記述

「“大量”といえないまでも、いくつかの処刑があったことを、難民たちが証言している。ただし、それは、政治的報復ではなく、立ちのきをあくまで拒否して射殺された市民たちであり、病院のベットからほうりだされた身寄りのない病人たちがそのまま死んだともいう。」

「近くの機器廠(店)の紅利という人の一家は八人家族だったが、そのうち紅利さんら六人が一階で死んでいるのがみえた。停電していたが、戸が開きっぱなしだったから街頭のあかりでよくみえた。紅利さんたちは大きな体なので一目でそれとわかる。

奥さんの姿はなかったが、二階で死んでいるのかもしれない。心中とは考えられないので、出ていくのに抵抗して殺されたのだろうとスーさんは思った。」(279〜280ページ)

政治的報復としての大量処刑に関する記述

次のように、政治的報復処刑を目撃した難民はいないと記載。ただし、必ずしも大量処刑説自体をウソと決めつけてはいないように読み取れる。

「“大量”といえないまでも、いくつかの処刑があったことを、難民たちが証言している。ただし、それは、政治的報復ではなく、立ちのきをあくまで拒否して射殺された市民たちであり、病院のベットからほうりだされた身寄りのない病人たちがそのまま死んだともいう。」

次のように全面否定している。

「例によってアメリカが宣伝した「共産主義者による大虐殺」などは全くウソだったが(それを受けて宣伝した日本の反動評論家や反動ジャーナリストの姿はもっとこっけいだったが)、しかし末端にはやはり誤りもあったようだ。」(278ページ)

以上のように、詳しくみると永井記事と本多記事にはかなりの相違があります。本多記事の方がはるかに長大であるのにも関わらず永井記事だけが報じて本多記事にはみられない重要な情報(路上での横死者、病院から追い出された傷病者の末路など)があるのが、特に気になります。ひょっとしたら、本多氏の取材に応じ他の点については詳細な証言を残した件の華僑女性だけが疎開途上でこれらの事態を目撃せず、他の難民と違った証言をしていたのでしょうか?(永井記者が7月2日までに取材した難民は疎開中に全員が路上で横死者・ポル=ポト軍による殺害の犠牲者を目撃したとありますが…。)


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最終更新日1999/11/01 (Y/M/D).