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お尋ねにおこたえして


 ホームページを開設して以来、本多勝一研究会(略称:「本多研」)には直接・間接に様々な質問が寄せられています。ここでは、それらの質問の中から代表的なものを選んでお答えします。また、このコーナーは本多研サイト全体への案内もかねていますので、はじめてのお客様はまずこのページをご覧ください。

 以下、関連項目ごとに質問を分類しましたが、無論複数の分野にまたがる項目もあります。この分類はおおまかな目安であるとお考えください。

引用文中、赤字太字による強調は引用者によります。また、引用文中の【〜】は引用者による注記です。横書きのHTML文書への引用であることを考慮し、引用文中の漢数字をアラビア数字に改めた部分があります。


質問一覧目次

カンボジア大虐殺否認発言書き換え問題

プノンペン市民強制連行支持発言

シドニー=シャンバーグ記者対本多勝一記者

映画『キリング=フィールド』は「無知な人々だけしか感激できない愚作」か?

「「虐殺はウソだ」と、根拠もなく叫んでいる幼稚な段階の方たち…」

「すり替え」か「訂正」か

公開質問状とその顛末

「書き換え」事件の周辺

文化大革命をめぐって

ニクソン訪中予告発言見逃し問題

本多氏の「善意」について

「改竄」について

『ペンの陰謀』松本・佐伯論文“改竄”事件

本多勝一研究会(本多研)とは

本多勝一研究会(本多研)の活動と運営


問答集

カンボジア大虐殺否認発言書き換え問題

質問:「本多勝一氏の「カンボジア大虐殺否認発言書き換え問題」とは、簡単にいうとどういうことですか。」

答え:

本多勝一氏は、『潮』1975年10月号に発表した「カンボジア革命の一側面」と題する記事において

「例によってアメリカが宣伝した「共産主義者【赤色クメールを指す】による大虐殺」などは全くウソだった…」

と断言していました。この記事は翌年、ほぼそのままの形で『貧困なる精神4集』(初刷1976年3月31日発行)に収録されました。ところが、同書第9刷増刷(1990年3月10日発行:『潮』記事掲載の15年後)にあたって上記のくだりが削除され、それにかわって

「アメリカが宣伝した「共産主義者による大虐殺」によって全市民がただちに虐殺されたとも思われぬが、すべては鎖国状態の中にあっては事実そのものが全くわからず、噂や一方的宣伝ばかりでは軽々に論じられない。」

などと書き換えられています。

また、『潮』原記事および『貧困なる精神4集』第1〜8刷に見られた

「カンボジアはいずれ必ず、門戸を開くであろう。もちろんそれは、民族自決の上での、かれらの方式による、かれらのための開放であろう。それはもはや外国人がでかい顔をして歩くことのできないときであろう。当然である。」

というくだりも第9刷では

「これらの結果がどうなるか予断はできないが、鎖国をいつまでも続けられるものではないことは確かであろう。」

と改められています。つまり、同一の著者が同一出版社から出している同一書名の初版本が、かたや虐殺否認、かたや判断保留という全く異なる見解を述べているわけです。(第9刷では記事の標題も、「プノンペン陥落の一側面」と改められています。)

しかも同書には書き換えた旨を示す断わり書きは一切ない上、記事の末尾には

『潮』1975年10月号

と出典が記載されており、しかも同記事中には執筆時(「いま」)としてカンボジア代表団が北朝鮮を訪問中の「【1975年】8月19日現在」という日付が明記されるなど、当時のルポとしての同時代性が随所に強調されています。そのため、事情を知らない読者はあたかもこの文章が『潮』掲載の記事をそのまま収録したものであり、本多氏が1975年夏において虐殺の真偽についての判断を保留していたと信じさせられる結果になっています。

関連資料:

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質問「本多氏は、カンボジア大虐殺「あった」派ではなかったのですか。」

答え:

おっしゃるとおり、1977年の後半にベトナムがカンボジとの国境紛争を表沙汰にしてからは本多氏は現地におもむいて聞き取り取材を行ない(1978年初頭)、さらにポル=ポト政権倒壊後のカンボジア現地を取材した後(1980年)、虐殺が「あった」と断言するようになりました。その後は、虐殺が「なかった」と主張する人々を次のようにこきおろしています。

ひところ日本に「カンボジア虐殺はなかった」と根拠もなしに主張する学者やジャーナリストがいて、日本型“知識人”たちの退廃ぶりに驚嘆させられたものだが、パットナムはそこまで退廃してはいないので、大虐殺の事実についてはむろん疑問など全く抱いていない。」

(出典:本多勝一「無知な人々だけが感激する『キリング=フィールド』」『潮』1985年8月号、『本多勝一集16 カンボジア大虐殺』1997年 459〜464ページ)

しかしその一方では、1975年にプノンペンが陥落した直後、本多氏自身が赤色クメール擁護の強硬な論陣を張り、虐殺は「全くウソだった」と断言していたというのも、今ではほとんど知られていない厳然たる事実です。

関連資料:

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質問「「カンボジア革命の一側面」の書き換えは、どういう経緯で明るみに出たのですか。」

答え:

1995年の晩秋、fj(日本語ニュースグループ)は本多勝一氏の大江健三郎氏批判をめぐる議論でひとしきりもりあがっていました。そんな中に、

「大江批判で正義派を気取っている本多氏は、実はかつて自分自身が『潮』1975年10月号掲載の「カンボジア革命の一側面」でポル=ポト派による虐殺を否認していながら、その後その前歴に口をぬぐって後発の虐殺否認派を攻撃している。」

という主旨の暴露記事が投稿されました。それまでfjで本多氏に同調して大江氏を批判していた人物(以下、「A氏」)が、「カンボジア革命の一側面」が収録されているという『貧困なる精神4集』(すずさわ書店、1976年3月20日初版発行)を書店経由で取り寄せてみたところ、記事の標題が「プノンペン陥落の一側面」と改められ、虐殺否認の証拠とされた

「例によってアメリカが宣伝した「共産主義者【赤色クメールを指す】による大虐殺」などは全くウソだった…」

という『潮』記事のくだりは、単行本では

「アメリカが宣伝した「共産主義者による大虐殺」によって全市民がただちに虐殺されたとも思われぬが、すべては鎖国状態の中にあっては事実そのものが全くわからず、噂や一方的宣伝ばかりでは軽々に論じられない。」

などと書き換えられていました。このことからA氏は、

“たとえ『潮』では「全くウソだった」と書いていたにせよ、わずか半年後の単行本収録時には文章を改めていることを考えれば、問題にするようなことではない。批判は不当である。”

などの論点を骨子とする強硬な本多氏擁護論を述べられました。

この一連のやりとりを観戦していたもう一人の読者が手元の『貧困なる精神4集』第7刷(1984年7月20日増刷発行)を調べてみたところ、

「例によってアメリカが宣伝した「共産主義者【赤色クメールを指す】による大虐殺」などは全くウソだった…」

という『潮』記事のくだりがそのまま収録されていることを発見し、その旨を報告しました。そこでA氏が「事実そのものが全くわからず」云々と書いてある方の『貧困なる精神4集』をあらためて調べてみると、第9刷(1990年3月10日増刷発行)でした。この段階でようやく、本多氏が著書増刷時に収録記事を断わりなく書き換えていたことが判明しました。それまでは、本多批判派も本多擁護派もともに、まさか『貧困なる精神4集』と冠する同一題名の初版本が刷によって内容が異なるなどということはないと信じ込んでおり、結果的には「書き換え」によって双方ともに一杯食わされていたわけです。

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質問「本多氏の「書き換え」が発覚して、ニュースグループ上ではどのような反応がありましたか。」

答え:

この書き換えが発覚する1995年11月までは、“1975年の夏にはまだ赤色クメールの残虐行為は外部には知られていなかったはずだ”などとする本多氏擁護派の投稿が数の上で優勢でした。ところが、「書き換え」が露見してから流れが一転し、本多氏の姿勢を批判する発言が目立つようになりました。それ以降、本多氏の無断「書き換え」行為を積極的に支持する記事は一本も投稿されませんでした。

中でも批判の急先鋒に立ったのが、それまで一貫して本多氏(特に本多氏の大江健三郎批判)を支持・擁護していたA氏で、この方が同年12月に読者有志代表として本多勝一氏に対して公開質問状を送り付けることになります。本多氏の書き換えを「改竄」と最初に断じたのもこの方です。A氏は、かつて『貧困なる精神4集』第9刷(1990年発行)が初刷(1976年発行)と同一であると信じて本多氏を擁護していた経験をふまえ、“この問題を曖昧にしたままでは、本多氏の全著作に対して信用ができない気さえしてきます。”という発言も残しておられます。

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質問「1975年夏には、本当に「赤色クメールの残虐行為は外部には知られていなかった」のですか。」

答え:

プノンペン陥落時に同市に居残り後に出国した外国人ジャーナリストや、主としてタイに逃れ出た難民の証言をもとに、赤色クメールの異常性は1975年の5月から既に広く報じられていました。(同派が旧政府軍将校とその家族を大量処刑したという報も、この段階で既に紹介されていました。)その一部は朝日新聞など日本の大手メディアにも掲載されています。当時の経緯は大略次の通りです。(日時は全て現地時間)

1975年

1976年

1977年

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プノンペン市民強制連行支持発言

質問「日本人のジャーナリストで1975年に、プノンペン陥落直後の赤色クメールの暴虐ぶりを取材/報道した人はいますか。」

答え:

朝日新聞の井川一久記者(もとプノンペン支局長)が、早い時期からこの問題をフォローしていました。

1975年にサイゴンを訪れた読売新聞の永井清陽記者(もとプノンペン特派員)も同地で旧知のカンボジア難民を取材した結果、赤色クメールが重病人までを追い立て、疎開の途上では多数の行き倒れ死者が出たと報じています。永井氏のこの記事が読売新聞に出た1975年7月3日は、本多氏が件の脱出華僑女性にインタビューした7月24日の3週間前のことです。(因みに、この華僑女性はもともと永井記者を訪ねてきたのを、本多氏が便乗取材したものだそうです。)

井川・永井両氏ともプノンペン陥落直後の記事では、赤色クメールによる大量処刑説の真偽については最終判断を保留しながらも、同派が次々にとった措置の異常ぶりを的確に報じています。

一方、プノンペン在住のカメラマン馬淵直城氏や元朝日新聞プノンペン支局長の和田峻氏(井川氏の後任)は本多氏と同様、赤色クメールによる残虐行為の報を否認あるいは疑問視する立場から発言していました。

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質問「本多氏も1975年の記事で永井清陽記者と同じく、赤色クメールが重病人を追い立てたことや疎開の途上で多数の行き倒れ死者が出たことを伝えていますか。」

答え:

「カンボジア革命の一側面」(『潮』1975年10月号掲載)では、赤色クメールが重病人を病院から追い出したことには全く触れられていません。取材した華僑女性が疎開途上に通りすぎた街や野営したお寺で死体を目撃したという記述はありますが、プノンペン陥落後の疎開中の行き倒れなのか、それとも内戦時代の戦火に巻き込まれた死者なのかが判然としない書き方です。

一方、「カンボジア革命の一側面」に先立ち同年7月号の『潮』に掲載された「欧米人記者のアジアを見る眼」と題する記事では本多氏は、陥落時のプノンペンに残って取材を続けた外国人記者(『ニューヨークタイムズ』のシドニー=シャンバーグ記者)が赤色クメールの重傷病者追い立てを報じた記事から、次の部分を引用しています。

「五年間にわたった内戦に勝利を占め四月十七日プノンペンに入城したカンボジアの解放勢力は、いま農民革命を推し進めて、カンボジア全土を大きな変動の渦に巻き込んでいる。三百万から四百万人にものぼるカンボジア人が都市から追い出されて、農村部の奥深くへと徒歩での大脱出を強いられたのだ。解放勢力側の説明によれば、これは農民として畑を耕させるためだという。例外は認められず、高齢者も小さな子どもも、病人もけが人も、一人残らず旅を強制された。その中には、とうていそんな旅に耐えられない人たちもいたのに。」

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質問「本多氏は「欧米人記者のアジアを見る眼」で、赤色クメールが病院から重傷病者を追い出したことを批判しているのですか。」

答え:

「欧米人記者のアジアを見る眼」には赤色クメールを批判するくだりは全くありません。

 それどころか、赤色クメールが老人・幼児からはては重篤な傷病者までを病床から熱帯の炎天下に叩き出したこと(未必の故意による事実上の大量殺人)を弁護する立場から、逆に「追い出された」側の視点からの現地取材ルポを書いたシドニー=シャンバーグ(『ニューヨーク=タイムズ』記者)やAP電を攻撃しています。シャンバーグ記者の記事からの上記の引用に引き続いて、本多氏は次のように述べています。

「「追い出され」といった表現の問題には、一応ふれないでおこう。しかしこの文章は、事実として噴飯ものだ。「高齢者」と「小さな子ども」と「病人」と「けが人」だけプノンペンに残して、あとみんなが「大脱出」したらどうなるのか。 」

さらに、赤色クメールが強行した全プノンペン市民疎開措置を「まことに賢明な政策でもあった」と賞賛しています。

「邪推すれば、米軍は実はプノンペンを爆撃したかったのではないのか。カラッポにされてその意図を果せなかったのではないのか。そうであれば「大脱出」はまことに賢明な戦略でもあったことになり、多数の市民を米軍爆撃による虐殺から救ったことになる。私の「邪推」は、決して空想次元のものではない。」

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質問「本多氏が「邪推」したとおり、米軍機がプノンペンを爆撃する計画が当時実際にあったのですか。」

答え:

「米軍が赤色クメール制圧下のプノンペンを爆撃する可能性は皆無でした」と、専門家が断言しています。

因みに、「米軍の爆撃がある」という噂は、赤色クメールがプノンペンから市民を追い出すために街で流したデマ宣伝でもあります。(『潮』1975年10月号掲載、本多勝一「カンボジア革命の一側面」279ページ参照)

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質問「本多氏は、“疎開を強行することで行き倒れ死者が出るようなことはない”と信じていたのでしょうか。それとも、多数の死者が出る/出たことを承知の上でなお強制疎開措置を支持したのでしょうか。」

答え:

本多氏が「欧米人記者のアジアを見る眼」で槍玉にあげたシャンバーグ記者の記事には、次のようなくだりがあります。

「三百万から四百万にものぼるカンボジア人が都市から追い出されて,農村部の奥深くへと徒歩での大脱出を強いられたのだ。解放勢力側の説明によれば,これは農民として畑を耕させるためだという。例外は認められず,高齢者も小さな子供も,囚人もけが人も,一人残らず旅を強制された。その中には,とうていそんな旅に耐えられない人たちもいたのに。」

「病院にすし詰めだった負傷者も,一人残らず立ち退かされて,びっこを引きながら,はいながら,松葉づえに頼りながら,身内の背に運ばれながら,あるいは病院のベッドに乗せられたままで,市内から出ていった。解放勢力にはほとんど医師もおらず,医療品もお粗末なので,生命が助かる見込みのない患者も多かった。」

「深い悲しみの日々が続いた。外国の旅券を持たないカンボジア人は,地方への強制移住を強いられた。友人同士が離れ離れになったし,ヨーロッパの女性と結婚していたカンボジアの男性は妻から引き離された。こんな日には,大使館のあちこちからすすり泣きが聞こえた。

「私の赤ちゃん,たった一人の赤ちゃんを助けてください。お願いです…」

強制移住の長旅に出れば生きる力はないと悟っている数人のカンボジア人女性が,涙を流しながらフランス人一家に,赤ん坊の引き取りを頼んでいた。

 また、同じく本多氏が批判するAP電(朝日新聞掲載)も次のように伝えています。

「中には、病院からベッドのまま街中を運び出される病人もいた。『これを見る兵士の目には、あわれみがあった。しかし、彼らは、何もできなかった。彼らは鉄の手で管理されていたのだから』とゴード氏はいう」

したがって本多氏は、シャンバーグ記者やAP通信が赤色クメールの疎開政策に批判的な眼を向けざるをえなかった大きな理由の一つが疎開民の生命の危険にあったことを知らないはずはありませんでした。(その危惧が的中して実際に多数の行き倒れが出たことは、後に本多氏自身の取材によっても確認されています。)にもかかわらず、他の点ではシャンバーグやAP通信社など「欧米人記者」を口を極めて非難している「欧米人記者のアジアを見る眼」にも、上記の危惧に対する合理的な反論を述べた箇所はありません。もし本多氏が“疎開の途上で行き倒れ死者が出るようなことはない”と信ずるに足る正当な根拠があったなら、まっさきにそのような反論を述べていたであろうと推測できます。

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質問:「本多氏にとっては、赤色クメールが重傷病者を病院から追いたてて熱帯の炎天下に叩き出したことは「残虐行為」のうちに入らず、被害者に対する同情の念も湧かないのでしょうか。」

答え:

本多氏にお尋ねください。

ご参考までに本多氏は、プノンペン陥落の年の初頭に発表された次の文章にも見えるとおり、「残虐」「残酷」といったことばの用法に一家言をお持ちのようです。

「さまざまな民族の民話の世界について私はまったくの素人だから、こんなことはあるいは常識なのかもしれないが、たいへんおもしろかった一番大きな理由は、エスキモーの民話に直接的なかたちの教育ママ的「教訓」が少なく、また薄っペラないわゆる勧善懲悪にもなっていない点だ。…しかし、この民話を“残酷”と受けとる人は、日本にもかなりいるようになっただろう。なぜなら、日本の民話も本来たいへん残酷なのだが、最近の子供の本はその“残酷”部分を改変し、骨抜きにしているのが多いからである。アンデルセンのような愚劣な童話が浸透し、日本の民話を改竄するごとき文化破壊がすすめられる一方では、本質的に残酷な企業による虐殺(水俣病その他)や間接的殺人(「開発」に起因するさまざまな自殺)が、ますます増大している。

そのような本質的残酷に、私たちの眼をなるべく向けないようにするには、ウソの“残酷”に注目させるような心性を育てることだ。犬やネコがいじめられると大騒ぎするくせに、人間が大量虐殺されても動じないように教育することだ。こうして「道徳的」な偽善者たちが育てられ、エスキモー民話を“残酷”だと評する国に、日本もなりつつある。」

(本多勝一「エスキモーの民話は「残酷」か」、『しゃがむ姿勢はカッコ悪いか?』収録226〜229ページ、初出は『文藝春秋デラックス』第二巻第二号、1975年2月号)

他のところでは、本多氏は次のように述べています。

「現在のベトナムにおける米軍と同じ立場にあった日本軍という基本的な問題を、かりに抜きにしたとしても、故郷を戦場にされて苦しむ民衆の側の心に、こういうひとびとはまったく無関心なのである。無関心ということは、かれらの心に自分を移してみること、少しでもかれらの側になって事態を想像してみることができないことを意味する。それができないひとつの原因は、おそらく、自分がこうした被抑圧者的立場になったことがないからかもしれない。その証拠に、私のルポにたいして強烈に反応し、ベトナムの民衆への同情(同情は連帯への第一歩であって、同情もできない者には連帯もできない)の念を強く示してきたのは、ほとんどがなんらかの形で「庶民の弱さと苦しみ」を知っているひとびとであった。いわゆるエリート=コースをたどった人や、日の当たる場所にいるひとびとではなかった。だから「戦争とはああいうもの」といえる人は、広島や長崎についてもまた無邪気にいうだろう。──「原爆とは、ああいうものなんです」

(本多勝一「「戦争とはああいうもの」か」、『事実とは何か』収録39ページ、初出は『赤旗』1969年2月11日号)

「他のひとつは、ルポの方法論とも関連してくるが、基本的にかれが「人間」の側に立つのか、それとも一般民衆、とくにアジア人などは昆虫とみているアメリカの支配層と同じような目の側に立つのかという点である。交通事故を例にとって両極端を示せば、一方は「本日の死者何人」という統計だけでよい。他方は、犠牲者について、どのような残酷な死に方をし、それによって家族がどのような不幸に陥り、その不幸がどんな連鎖反応を起こすか、といった具体的記述の報道と原因の分析であろう。後者はつきつめてゆくと、どこに本質的「悪」があるかを自然とえぐり出すが、前者はすべてを「他人ごと」にする。」

(本多勝一「「戦争とはああいうもの」か」、『事実とは何か』収録40ページ、初出は『赤旗』1969年2月11日号)

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質問「本多氏は、権力が政策遂行のために住民を強制移住させることを常に支持あるいは容認しているのでしょうか。」

答え:

次のくだりをご覧ください。

「解放区の山岳民族は、こうした事情で取材できなかったため、政府軍側の支配下になるこの近くの山岳民族(スティエン族【原文には後注あり】)を訪ねることに決めた。その中でも町から一番遠いのは、フォクピンの北西8キロにあるソンハという戦略村だ。…アメリカの指導による大規模な戦略村計画は1962年3月に始まった(まもなく失敗)が、実際はジュネーブ休戦協定(1954年)の発効直後、すでにゴ=ジン=ジュム政権によって、対仏抵抗戦争で重要な役割を果たした山岳民族に対して特に過酷に始められていた。焼き畑農業を主とする山岳民族は、せいぜい30から50人程度の小集落が山のあちこちに散在するという状態が正常なものであった。それを一挙にかき集めて、発足当時で1179人という大集落を強制的に作ったのである。…親切で、純粋な人々である。純粋な民族ほど、古来ひどい目にあわされてきた。ここもまた例外ではない。人間でも動物でも、間接的に絶滅させる最良の方法は、居住環境を激変させることである。戦略村計画は彼らにとって、どんな先祖も経験しない激変であった。…当時は、先祖伝来の安定した生活環境と、従って安定した心を保ちつつ、焼き畑の移動にあわせてかなり自由に山野を居住地とすることができた。だが戦略村では、その生活関環境も、従って安定した心も、自由さえも失った。この前夜、ひそかに「こんな村は脱出したいが禁じられている」ともらした男(44歳)は、「それに出たらあぶなくて…」とも嘆息した。出たら、爆弾・砲弾・機銃掃射…。…空から見る戦略村は、草ぶきの小屋の“分譲住宅”をジャングルの中に造ったかのように見える。あの人々は、まだしばらくは、恐怖と恥辱の中で、それに慣らされながら、生きなければならぬであろう。 」

(本多勝一『戦場の村』朝日文庫収録「山岳の人々」77〜99ページ、原文では「それに慣らされながら」に傍点)

「こうして絶滅にひんした先住民の、最後のひとにぎりをも完全に消滅させることになるのが、マゼラン海峡の南、フエゴの西にあるドーソン島につくられた“保護区”である。さきに博物館の神父が「保護区をつくって集めたけれど遅すぎました」と言った場所だ。彼は「保護が遅すぎた」のではなくて「絶滅を加速させた」と正直に告白すべきだった。弱った人間を早く死なせる方法は、生まれ育った環境から切り離して別の土地へ強制移住させることである。…ブエノスアイレスのある人類学者がこともなげに言った。──「サレシア集団は、殺すために“保護区”へ集めたのです」」

(本多勝一『マゼランが来た』朝日文庫収録「「火の島」の住人たち」169〜179ページ)

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質問「多数の死者を無用に作り出した赤色クメールの強制疎開措置を強く支持・擁護した本多氏が「殺される側にたつ」と自ら誇っているのは、いったいどういうことなのでしょうか。」

答え:

本多氏にお尋ねください。

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シドニー=シャンバーグ記者対本多勝一記者

質問「「欧米人記者のアジアを見る眼」には、それ以外にはどんなことが書いてあるのですか。」

答え:

赤色クメールによる虐殺を「デマ」と断言しています。

「合州国のキッシンジャー氏ら、ノーベル「平和」賞を受けた詐欺師たちはプノンペンで解放軍による大虐殺が行なわれたというデマを言いふらした。それを受けて、シャンバーグ記者は書く。…つまりこの記者は、現実に虐殺など見たこともないし、解放軍の「報復はしない」という言葉を直接きいているにもかかわらず、どうしても虐殺があったことにしたいのだ。

プノンペンに外国人(あるいは異民族)が多数住んでいるという理由で、その状況を東京になぞらえ、「危険」であると断定しています。また、プノンペン在住の非クメール族がことごとく金持ちであり、クメール族の住民は「女中や門番として」彼等に雇われていると思わせるような書き方をしています。(実際には、本多氏が「カンボジア革命の一側面」で取材した華僑女性のように、自らが「女中」としてはたらいていた非クメール族の住民もいました。)

「本来の市民がどのような人々であったかは、いくら鈍感な男でもプノンペン特派員なら知っているはずだ。次の記事を見られよ。

「カンボジア人の九割はもともと農民で、農村居住者である。その半面、プノンペンばかりでなく主要都市住民は、華僑、ベトナム人、あるいはその温血者がほとんど。たとえば、プノンペン中心部、繁華街の居住者はほぼ一〇〇%華僑であり、都市から農村への疎開といっても、純粋カンボジア人は元来都市には住んでいなかったのである」(『朝日』五月一七日、和田俊もとプノンペン特派員

このような特殊都市に住むカンボジア人は、例外的な金持ちと特権階級にすぎない。サイゴンやハノイとは本質的に異った性格の都市なのだ。東京や大阪の中心部が、外国人の金持ちだけで占められ、日本人は例外的成金と、外国人のもとで女中や門番として使われる者だけ、といった都市だったら、どういうことになるだろう。こんな危険な都市は、反革命の拠点にいつなるかわからない。」

これに引き続き、プノンペン市民を「堕落している」と頭から決めつけ、赤色クメールが彼等を予防拘束的に隔離連行したことを次のように擁護しています。

「そのため、搾取のない農村経済のもと、みんなが正しい意味で働きながら、まず自給を確立することから自立しようと【赤色クメールが】考えたとしても、まことに自然なことではないか。合州国の退廃文化(帝国主義文化)でダラクさせられた都市の人々も、それによって健全なものに立ちなおるだろう。」

何より興味深いことは、赤色クメールの蛮行を伝えるシャンバーグ記者のルポを朝日新聞(ニューヨーク=タイムズと特約関係にある)が掲載したこと自体を、本多記者が非難していることです。

「そして、欧米の違った間尺の価値観をすべて上等と見させるのに貢献した大きな力は、基本的には明治以来の帝国主義体制だが、直接的には、知識人のレベルでは学者たち、大衆レベルでは新聞や放送であった。欧米の侵略者の説教を、無批判に、そのままか、ときには増幅して民衆に流したのだ。今なおそれは続いている。その説教の最近の一例【シャンバーグ記者のルポ】を、ジャーナリズムの分野に拾ってみよう。…欧米人(白人)のジャーナリストは、完全解放後のカンボジアをどうみたか。その典型は、たぶん『ニューヨーク・タイムズ』特派員シドニー・シャンバーグ記者のルポ(『朝日新聞』五月一二日朝刊)にみられる。一言でいえば、これはかれら欧米人記者の眼による救い難い偏見で充満していて、アジア人の生活も心も全く理解できない欧米人記者による不幸な記事といえよう。…侵略者が、かれらの物の考え方で、かれらの価値観で、かれらの文化の間尺で、いわゆる「事実」を報道する。それが日本の新聞でも大々的にまかり通る。

本多氏のこの文章を目にしたある本多研会員は、

“東中野修道による南京大虐殺否認論文のカンボジア版”

“このまま太田竜の『週刊日本新聞』に載っていてもおかしくない”

と評しました。(こう辛辣に評した会員氏はもちろん、南京大虐殺「あった」説を支持する進歩派の強豪論客です。)

関連資料:

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質問「本多氏は平素、“当局発表を鵜呑みにしてはいけない、必ず対立する双方の主張を聞け”と主張していたのではありませんか。」

答え:

はい、本多氏の著述には次のようなくだりがあります。

公式発表というものは、体制の各末端の責任のがれのためのウソの集積だと疑ってみるべきだ。」

(朝日文庫『事実とは何か』「歴史の証言としてのルポタージュ」28ページ--初出は『みすず』112号:1968年9/10月合併号)

「入社したとき、私たちが教えられた取材態度として最も重要なもののひとつは、対立する二者の、双方の言い分を聴け、ということであった。…新聞に出るサツダネは、ほとんどが警察側の一方的『発表』だけで放置され、対立する泥棒その他の容疑者のは『発表』の機会も場も与えられぬままに泣き寝入りすることになる。この明白に偏った事実を、私たちはこのまま続けていいのであろうか。」

(朝日新聞社『通信部報』1959年12月号─引用は朝日文庫『職業としてのジャーナリズム』収録「職業としての新聞記者」より)

「サイゴンの米軍が公式発表するものを、そのまま『正確に』取材して記事にする。これはなるほど正確かもしれませんが、発表そのものの中に、たとえば政府軍のケンカを『ベトコンのテロ』とするようなウソがあるのですから、結局は権力の走狗とみられても仕方がありません。しかしこういうことはサイゴンに限らず、いかなる社会体制にしろ、権力のあるところ常に警戒すべきことでしょう。権力は常に腐敗したがる。それを見張るべき最も強力な勢力が、言論の自由を背景にしたジャーナリストでなければなりますまい。」

(朝日文庫『職業としてのジャーナリスト』第9刷「危険な職業---ジャーナリスト」37ページ--初出は『あしなみ』1968年9月14日号)

関連資料:

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質問「公式発表は「ウソの集積だと疑ってみるべきだ。」と主張していた本多氏が、赤色クメールの発表の真偽に判断を保留したシャンバーグ記者に対しては「この記者は…解放軍の「報復はしない」という言葉を直接きいているにもかかわらず、どうしても虐殺があったことにしたいのだ。」と非難を浴びせるというのはどういうことなのでしょうか。」

答え:

本多氏にお尋ねください。

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質問「シャンバーグの記事は、本多氏のいうとおり「救い難い偏見で充満していて、アジア人の生活も心も全く理解できない」ものだったのですか。」

答え:

本多氏と同じ新聞社にあって現代カンボジアを専門とする日本人記者によれば、シャンバーグ記者のルポは当時の現地ルポとしては「最も正確かつ客観的」だそうです。

なお、シャンバーグ記者はこの報道の功績によりのちに、米国のジャーナリストに与えられる賞としては最も権威あるピュリツァー賞を受賞しいてます。

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質問「本多氏は、シャンバーグ記者がカンボジア記事で受賞したピュリツァー賞など、欧米(特に米国)の機関が選考や運営に関与する賞は全て愚劣だというのではありませんか。」

本多氏がピュリツァー賞について肯定的または否定的な論評を下した箇所は今のところ発見されていませんが、米国の機関(UPI通信社)が関与しているもう一つのジャーナリスト賞であるボーン国際記者賞を本多氏も受賞しています。(海難死した故マイルズ=ボーン氏は、UPI通信社の極東地区担当副社長でした。)菊地寛賞の場合と違って、本多氏はボーン賞を返還などせずそのまま受け取ったようです。

また、朝日新聞のリクルート汚職報道は米国の調査報道会から特別表彰されましたが、その時には本多氏は、氏や朝日新聞社が逸した日本の新聞協会賞と対比する形で外国人による選考に信頼を寄せ、ボーン国際記者賞や米国調査報道会表彰を持ち上げています。

「新聞協会賞のありかたを今後もし改めるとすれば、なにはともあれ「業界」内部での審査をやめることでしょう。外国人も含めた第三者の委員会にでもやらせてはいかがですか。…さきに私はこの賞のばかばかしさを「体験的」に知っていたと述べましたが、これは私自身の作品がかつて候補にされたときの体験によります。それは『カナダ=エスキモー』以下「極限の民族」三部作のときと、『戦場の村』以下「ベトナム─戦争と民衆」シリーズのときの二回ですが、いずれも落とされました。落とされたこと自体ではもちろんなく、そのときの他の受賞作との相対的価値への疑問、審査の実態への失望によって「ばかばかしさ」を知ったのです。これら二作にしてもボーン国際記者賞その他「業界」以外から表彰されたのは、今回の調査報道会(アメリカ)と同様に象徴的でした。」

(本多勝一『滅びゆくジャーナリズム』朝日文庫「新聞協会賞のばかばかしさ」25〜26ページ)

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質問「本多氏は、外国人が日本の新聞の記事内容に容喙することを歓迎しているのですか。」

答え:

本多氏は、朝日新聞に掲載された本多氏の記事(「ソンミ事件に潜むもの」)を批判したクラーク=ブレント牧師を次のようになじっています。

「恥を知れ、という言葉が、ご存じのように、日本にはあります。私が朝日新聞をクビになることをブレント氏が願う気持ちはよく「理解」できますが、それを公然の場で書くということは、“内政干渉”を絵に描いたようなものです。一新聞社がどういう記者を擁していようと、そのことにアメリカ人宣教師が介入する権利があると考えるのは、かなりムリがありますな。実はしかし、これこそがアメリカ合州国の体質のひとつなのです。その体質が、無意識のうちにブレント氏個人の中に骨の髄までしみこんでいる。…他国の内政に平然と干渉することが、アメリカの国家権力の常識となっていることは、世界のこれまた常識ですが、それがアメリカ人個人個人の体質にまで及んでいることは、私たちにとって大変不幸なことであります。」

(本多勝一「かなしきアメリカ人宣教師」、『殺される側の論理』収録127〜128ページ)

【参考】

これに対しブレント牧師は、本多氏が自分の発言を歪曲していると次のように反論しています。

「朝日新聞に載せた当新聞の編集委員の記事について、論争する時、新聞社と記者を完全に別にするのは、無理な注文である。また、本多氏はもう少し注意して私の文章を読んでいただきたい。本多氏は朝日新聞にふさわしくない、と私は書かなかった。「本多氏の記事(注、その意味は問題の『ソンミ事件に潜むもの』)は不均衡で片寄ったもので、日本を代表する新聞に価しない」と書いたのです。記者は注意して人の文章を読まなければ、報道の歪曲のもとになります。」

(クラーク=ブレント「私は星条旗を擁護する」、『殺される側の論理』収録143ページ)

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質問「「欧米人記者のアジアを見る眼」はどこで読むことができますか。」

答え:

この記事は1975年発行の『貧困なる精神3集』(すずさわ書店)に収録されましたが、第8刷増刷時(1982年4月20日)に記事ごと削除されています(削除した旨の断わり書きはなし)。その後この記事は本多氏の他の著書には収録されておらず、『本多勝一著作集』にも入っていません。したがって、『潮』のバックナンバーや『貧困なる精神3集』の古い刷(1〜7刷)のある図書館などでご覧いただくほかありません。

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映画『キリング=フィールド』は「無知な人々だけしか感激できない愚作」か?

質問「本多氏が「欧米人記者のアジアを見る眼」で攻撃したシドニー=シャンバーグ記者とは、映画『キリング=フィールド』の主人公になった人物ですか。」

答え:

その通りです。シドニー=シャンバーグは『ニューヨークタイムズ』紙のプノンペン駐在員として1975年4月のプノンペン陥落に立ちあいました。この時シャンバーグが一緒に出国させるべく奔走しながら果たせずカンボジアに居残って地獄の4年間をくぐりぬけたのが、助手のディト=プラン。後にタイの難民キャンプで、必死にプランを探し求め続けたシャンバーグと奇跡の再会を果たした、『キリングフィールド』のもう一人の主人公です。

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質問「本多氏は、赤色クメールによる大量殺戮を事実と認めるようになったあと、シドニー=シャンバーグ記者に対する評価を改めましたか。」

答え:

本多記者は映画『キリングフィールド』を評した記事「無知な人々だけが感動する『キリングフィールド』」(『潮』1985年8月号)でも、映画の主人公・シャンバーグを「冷淡な差別主義」などと激しく攻撃しています。

参考資料:

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質問「本多氏が映画『キリング=フィールド』の主人公・シャンバーグ記者を「冷淡な差別主義」と攻撃する根拠は何ですか。」

答え:

「無知な人々だけが感動する『キリングフィールド』」(『潮』1985年8月号)には、次のようにあります。

「この二人【シャンバーグとディ=プラン】の関係は、いうまでもなく主従関係であって、対等な友人関係ではない。…あくまで「忠実」と「恩返し」の美談にすぎない。」

「そう考えれば、ブラン以外のカンボジア人たちが、まことに没個性的で非人間的な群像としてしか描かれないのも納得できよう。ブランの救出に異常な手段をつくしてまで熱中すればするほど、他のカンボジア人たちに対する冷淡な差別主義が浮きぼりになってくるのは、何という皮肉だろうか。…この映画のお釈迦様(シャンバーグ)は、ブランだけを全力をつくして助けようとし、あとの何百・何千のカンボジア人の糸は切ってしまっているのではなかろうか。むろん「あとの何百・何千」を救うことは現実にはできないにせよ、プランとかれらの間にある壁が異様に高いのだ。断絶がありすぎるのだ。ノアの方舟にのせる人間を選ぼうというときに、シャンバーグ仏の頭にはもともとカンボジア人などなかったのだが、たまたま「恩」ができたのでプランだけを拾ったのではあるまいか。」

「これは無知な人々だけしか感激できない愚作であり、政治的な詐術映画だ。同じように無知な人々をだました政治映画『鹿狩り』(原題『ディア・ハンター』)のようなしろものが、また一本できただけのことである。しかもいわゆる「芸術的」には『鹿狩り』以下だろう。大金をかけて、なんというもったいないことをしたことか。一発でこの映画の本質をいえば、これは差別映画である。」

 この文章自体、一応は映画の中にあらわれた“登場人物としてのシャンバーグ”の描き方を批判するという体裁をとっているものの、「主人公の特派員【シャンバーグ記者】がカッコよく暴露する描写があまりに強調される」「この二人の関係は、いうまでもなく主従関係であって、対等な友人関係ではない」「他のカンボジア人たちに対する冷淡な差別主義」「シャンバーグ仏の頭にはもともとカンボジア人などなかったのだが、たまたま「恩」ができたのでプランだけを拾ったのではあるまいか」などの言い回しを読むと、これが単なる「映画の登場人物」評であって実在のシャンバーグ記者に向けられたものでは全くないと言い切ってしまうことに躊躇をおぼえます。

参考資料:

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質問:「『キリング=フィールド』を見て感激し高く評価したのは、本多氏のいうとおりカンボジアの実情を知らない「無知な人々だけ」で、当のカンボジア人からみれば「差別映画」に過ぎないのでしょうか。」

答え:

朝日新聞(当時)きってのカンボジア専門家・井川一久氏は「米映画『キリング・フィールド』これでも語り尽くせぬポル・ポト派に殺された者の無念」で次のように報告しています。

「ハイン・ゴル【『キリング=フィールド』でシャンバーグの助手・ディト=プラン役を演じたカンボジア人俳優】の本業は医師である。…。ハイン・ゴルの師で、日本に留学したことのあるミー・サムディ医博は辛うじて生きのび、ヘン・サムリン政権の厚生次官、彼自身の再建したプノンペン大学の医学部長、さらに赤十字事務総長という要職にある。彼は弟子の出演した映画のビデオをすでに入手していて、この四月に彼の教室を訪れた私に、ぜひ観るようにと勧めた。あれは不十分ながら事実を伝えていますよ、と。

これは在日カンボジア人大多数の声でもある。日本のある種の政治勢力の指導でポル・ポト派を支援してきた十数人の元留学生を除けば、約八〇〇人の在日カンボジア人はほぼ例外なくこの映画を観たがり、現に少なくとも五〇人は観た。その半数余りは、家族の全部または一部を殺されたサハコー生活の体験者(難民)だ。彼らは私に、あれは本当にあったことです、ディト・プランは私たちの分身です、と口々に語った。

参考資料:

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質問:「シャンバーグが「ブランだけ」の「救出に異常な手段をつくしてまで熱中」していた1975年以降(特にカンボジアとベトナムとの国境紛争が表面化するまでの2年余)、本多氏は「あとの何百・何千のカンボジア人」を救うためにどのような真剣な努力をはらっていたのですか。」

答え:

本多氏にお尋ねください。

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「「虐殺はウソだ」と、根拠もなく叫んでいる幼稚な段階の方たち…」

質問「本多氏は、どうして赤色クメールによる虐殺が「ウソ」だったと信じたのでしょうか。」

答え:

本多氏が虐殺を「ウソ」と断定した根拠は一切述べられていません。「欧米人記者のアジアを見る眼」を読むと、当時本多氏が馬淵直城、和田俊両氏(ともに後年、赤色クメール支持派の論客として活躍)から強い影響を受けていたことがわかります。とはいえ、どうしてシャンバーグの現地ルポよりも和田氏が東京で書いた憶測(同じ新聞社のカンボジア専門家によれば「間違いだらけの記事」)の方が信用できると本多氏が判断したのか、我々も合点がいきません。いつの日か、本多氏御自身が当時の心境を率直に語ってくださることを切望します。

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質問「本多氏はいつごろから、赤色クメールによる組織的な大量殺戮の可能性について語るようになったのでしょうか。」

答え:

当会の調べでは、ベトナムとカンボジアとの不和が公然化した直後の『朝日新聞』1977年9月19日朝刊掲載「カンボジア国境紛争」が最初のようです。この記事で本多氏は、

「今春またサイゴンを訪ねたとき【『ベトナムはどうなっているのか』の取材旅行】、カンボジアから逃げてきた華僑やベトナム人の話として、「逃亡が見つかってつかまると、ガソリンをかけて焼き殺される」といううわさをきいた。ベトナムの要人の言葉の端々にも、カンボジアとはあまりうまくいっていない様子がにじみ出ていた。」

(引用は『貧困なる精神7集』より)

と記しています。1975年8月執筆の「カンボジア革命の一側面」から1977年9月の「カンボジア国境紛争」まで、「空白の2年間」といえます。

また、本多氏は同記事の中で次のとおり、1975年に早くも両国の国境紛争を示唆する情報を耳にしたとも述べています。

「紛争にしても、なにも最近はじまったわけではなく、実は2年前のサイゴン陥落の直後にはすでに火花を散らしていたのだ。あの全土解放【1975年5月】の2ヵ月後に筆者がサイゴンへ行ったときのある日、ベトナム人の一友人の家を訪ねると、そこに遊びに来ていた人民軍の一兵士が、突然召集を受けてカンボジア国境へ行った。カンボジア軍と交戦中だというのである。」

「カンボジア国境紛争」以前に本多氏がこれらの情報を発表した記事は今のところ発見されていません。

参考資料:

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質問「本多氏はどうして、赤色クメールの残虐行為やベトナムとカンボジアの国境紛争の情報をただちに記事にしなかったのですか。」

答え:本多氏におたずねください。

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質問「本多氏は、“赤色クメールの組織的な大量殺戮が事実かもしれない”と認識した時点でただちに「欧米人記者のアジアを見る眼」を著書から削除したのですか。」

答え:

いいえ、本多氏が「カンボジア国境紛争」を発表(1977年9月19日)し、さらに1978年にベトナム領内でカンボジア難民から赤色クメールの虐殺に関し聞き取り取材をした後、「欧米人記者のアジアを見る眼」を収録したままの『貧困なる精神3集』が一度(第7刷、1980年4月30日発行)増刷されています。この第7刷には次のような追記がみえます。

「<第7刷からの追記>その後、ポル・ポト政権による虐殺の問題が表面化してきたが、その問題と本論とは質的に別問題である。(一九八〇年四月)」

その1980年の8月に本多氏はカンボジアに赴いて現地で虐殺実証取材にあたり、“大虐殺はあった”という結論を公表するようになります。「欧米人記者のアジアを見る眼」が『貧困なる精神3集』から削除されたのはその後の、第8刷増刷時(1982年4月20日発行)です。

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質問「「ポル・ポト政権による虐殺の問題」と、多数の死者を作り出した同政権の強制疎開政策を擁護し大量処刑説を「デマ」と断言した自著「欧米人記者のアジアを見る眼」の論点が、「質的に別問題である」(<第7刷からの追記>)のなら、本多氏はどうして同記事を第8刷増刷時に削除したのでしょうか。」

答え:

本多氏にお尋ねください。

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質問「本多氏がカンボジア問題について沈黙を保っていた1975年夏から1977年夏までの2年間、カンボジア国内における大量虐殺の情報がメディアにあらわれることはなかったのですか。」

答え:

本多氏の『検証カンボジア大虐殺』に寄せた「解説」で、井川一久氏は次のように指摘しています。

大虐殺の情報はポ政権成立の直後から、タイに流出したカンボジア難民の体験談などを通じて世界に伝えられていた。ポ政権が徹底した鎖国政策をとり、他国との民間通信一切を禁止していたという一事からも、カンボジア国内で苛烈な何ごとかが進行していることは想像に難くなかった。」

(井川一久「解説」より、460〜461ページ)

実際、カンボジアとベトナムの国境紛争が表面化するよりはるか以前から、米国誌『タイム』や『ニューズウイーク』などの西側メディアは主としてタイに逃れ出た難民を主な情報源として、カンボジアにおける大量殺戮を示唆する的確な観測記事をしばしば掲載していました。そのころ既に、虐殺の規模を百万人単位とする定量的推定もなされていました。つまり、本多氏が1978年にベトナム側で行なったような聞き取り取材報道を、それよりずっと早く西側のジャーナリストがタイで行なっていたわけです。

因みに『タイム』はタイ側で難民を取材した結果にもとづき1975年8月4日号で早くも、カンボジアで婦女子を含む大量処刑が行なわれた可能性を報じています。これは、本多氏が虐殺を「全くウソ」と断定する記事(「カンボジア革命の一側面」)を執筆した1975年8月19日より2週間以上も前のことです。

 当時の報道について山田寛氏は、『記者が見たカンボジア現代史二十五年』で次のように総括しています。

米国のニューズウィーク、タイム、ニューヨークタイムズ、ボルチモア・サン、フランスのルモンドといった有力誌紙は、プノンペン「解放」直後もだが、虐殺が加速しだした七六年前半ごろから、折にふれ虐殺告発報道を行っている。鎖国状態の国だから、何よりも脱出してくる難民が主な情報源だ。中でも七七年初め、カンボジアに長年在住したフランス人神父、フランソワ・ポンショーが、数百人もの難民の証言と民主カンプチア放送の内容とをくわしく分析して、『カンボジア0年』という本を出版し、恐怖のポル・ポト革命の実態を鋭く追及し、国際的な波紋を広げた。

この本を土台にして、フランスきってのインドシナ通、評論家のジャン・ラクチュールが、「史上かつてない残忍な革命」が「自己大量虐殺(オート・ジェノサイド)」を行っていると、新語まで作って非難し、話題を呼んだ。そうした言論に乗って、カーター米大統領がポル・ポト政権を「現在の世界で最悪の人権侵犯者」と非難する異例の声明を出したり、米、英、カナダなどの政府がそれぞれ、カンボジアの暗黒ぶりについての報告書をまとめたりした。かつて米軍のベトナム介入に強く反対し、七二年の米大統領選に反戦候補として出馬したマクガバン上院議員は、「狂信的でヒトラーよりひどい」として、国際軍のカンボジアヘの派遣を議会で提唱した。ラクチュールやマクガバン上院議員のように民族解放闘争を支持した進歩派も、あまりにひどい虐殺情報に接して、口を極めて「解放政権」を糾弾し、あるいは宗旨がえして軍事介入を唱えた。そこには率直な決断があった。」

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質問「本多氏は、氏が1978年にベトナムでカンボジア難民への聞き取り取材を始める以前に西側メディアが既に伝えていたタイ発のカンボジア大虐殺情報を、後年の著書の中でどのように紹介していますか。」

答え:

本多氏の『検証カンボジア大虐殺』には、次のような記述があります。

「 【 タイ領内の 】 難民キャンプにいるカンボジア人たちについては、あらゆるメディアとさまざまな型の報告者たちによって、これまですでに膨大な記事(または放送)が発表されてきた。にもかかわらず、ただ一点、ポル=ポト政権下での虐殺問題については、どういうわけか報道量が少なく 、とくに定量的調査については、私の知るかぎり絶無であった。」(367ページ)

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質問「本多氏は、かつて自分が虐殺「なかった」派であったことを読者にどう説明していますか。」

答え:

1980年代以降は本多氏は自著から往年の赤色クメール擁護発言を削除する一方で、後発の虐殺「なかった」派に対して激しい筆誅を加えています。しかし、自分自身がかつて「なかった」派であったことを認める発言はみあたりません。

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質問「本多氏は、自分以外の虐殺「なかった」派の人達についてどのようにいっていますか。」

答え:

1980年代以降は、次のような調子で罵倒と嘲笑を浴びせています。

「今となってはポル=ポト政権下での大虐殺を疑う者など、なにか特別なアナクロニズム的集団以外にはなくなりましたが、10年ひと昔まえにはこんなことで、“大論争”が行なわれていたものです。その雰囲気の一端は、本多勝一篇『虐殺と報道』(すずさわ書店)に見ることができるでしう。大マスコミに現われた一例として、朝日新聞1978年5月24日朝刊の「声」欄に出たある代議士の投書「カンボジアの実情よく写す」を挙げておきましょう。「大虐殺などあろうはずがない」「温和な顔に、自信をもって語るポル=ポト首相の言葉」といった論評です。事実に立脚しないジャーナリストや学者や評論家や政治家がどれほど多いか、それがどんなに空しいものかを、南京大虐殺をめぐる論争とともに、これもまた証明する典型的事件となりました。単に「空しい」だけであればまだしも、虚偽をもとに危険な方向に世論を導くのですから放置するわけにもゆかず、こんな調査報道もやらざるをえなかったのです。」

(出典:本多勝一『検証カンボジア大虐殺』、449〜450ページ)

「「【赤色クメールによる】虐殺はウソだ」と、根拠もなく叫んでいる幼稚な段階の方たちには、とてもまともな相手はできません。」

(出典:本多勝一『検証カンボジア大虐殺』、420頁)

ひところ日本に「カンボジア虐殺はなかった」と根拠もなしに主張する学者やジャーナリストがいて、日本型“知識人”たちの退廃ぶりに驚嘆させられたものだが、パットナムはそこまで退廃してはいないので、大虐殺の事実についてはむろん疑問など全く抱いていない。」

(出典:本多勝一「無知な人々だけが感激する『キリング=フィールド』」『潮』1985年8月号、『本多勝一集16 カンボジア大虐殺』1997年 459〜464ページ)

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質問「本多氏が「驚嘆させられた」という「退廃」ジャーナリストには、かつて「「虐殺はウソだ」と、根拠もなく叫んで」いた1975年当時の本多勝一記者自身も含まれるのでしょうか。」

答え:

少なくとも当会が調査した限りでは、そういう主旨の記述は本多氏の著作には一切みあたりません。むしろ上の引用にあるように、虐殺を否認した(自分以外の)「幼稚」な「退廃」ジャーナリストの「空しい」言説と対比して、自分の検証取材の業績を誇示する、という書き方が随所でなされています。

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「すり替え」か「訂正」か

質問「本多氏が「カンボジア革命の一側面」などの著作を書き換えているのは間違いを訂正したに過ぎず、それを批判するのはおかしいのではありませんか。」

答え:

ジャーナリストが間違いを訂正すること自体は歓迎すべきことです。ただし、それが読者に正確な情報を提供することを目的とする正当な「訂正」であるとみなされるには条件があります。

1)書き換えた時点での最も正確な知見を記すること。

2)後年になってはじめて到達した認識を、あたかもそれ以前の過去に有していたかのような誤解をあたえたり、かつて誤報を流した事実自体を隠蔽するようなやり方をとらないこと。

本多氏の「書き換え」はこのいずれの条件をも破っています。

特に今回の場合、事実と異なる認識を読者にいだかしめることを意図して本多氏が書き換えを行なった(あるいは、読者が誤解するであろうことが容易に予測できるにも関わらず、それを防ぐために必要な措置をとらず放置した)ことは、状況から推察して明白です。

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質問「「本多氏は書き換えた時点での最も正確な知見を記していない」というのは具体的にはどういうことですか。」

答え:

いったい、赤色クメールによる大量殺戮の真偽を

「アメリカが宣伝した「共産主義者による大虐殺」によって全市民がただちに虐殺されたとも思われぬが、すべては鎖国状態の中にあっては事実そのものが全くわからず、噂や一方的宣伝ばかりでは軽々に論じられない。」

と判断したのは何者で、それはいつ下された判断なのでしょうか。これが「1975年夏の本多記者」の判断でないことはいうまでもありません。その時には「全くウソだった」と断定していたわけですから。

しかし一方、この判断をくだしたのは書き換えが行なわれた「1990年の本多記者」ですらありません。その時点までには本多氏はすでに大虐殺は「事実」である(『カンボジアの旅』、1981年)という結論に達していたわけですから。もし読者に正確な情報を提供するために過去の記事の「訂正」をしたいというなら、書き換えた時点(1990年)での最も正確な知見を書かねばなりません。つまり、

「例によってアメリカが宣伝した『共産主義者による大虐殺』は紛れもない事実だった」

と。(『貧困なる精神4集』第8刷から付け加えられた《追記》にはそういう主旨の記述があります。)

また、1990年には既にポル=ポト政権が崩壊して鎖国が解かれていたわけですから、もし1990年時点での判断として「すべては鎖国状態の中にあって」と書いたなら、明白に虚偽を書いていることになります。

本多氏はどうして「カンボジア革命の一側面」の《本文》を1990年時点での最新の知見にもとづいて「訂正」しなかったのでしょうか?考えられる理由はただ一つ、あくまで“「1975年夏の本多記者」が虐殺を否認していなかった”と読者に信じさせたかったから、としか考えられません。──1975年夏の著作と称して虐殺「あった」説を述べれば、“どうしてそんな重大なことを直ちに記事にしなかったのか”と読者に疑念を持たせてしまいます。赤色クメールに対する「理解」(!)を執拗に説く「カンボジア革命の一側面」の他の部分の文脈とも矛盾を生じます。かといって当時虐殺を否定していたことを読者に知られたくないとすれば、“1975年当時は判断を保留していた”ことにしてしまう以外にはかつての虐殺否認発言を隠蔽する方法はありません。

同様にして、

「カンボジアはいずれ必ず、門戸を開くであろう。もちろんそれは、民族自決の上での、かれらの方式による、かれらのための開放であろう。それはもはや外国人がでかい顔をして歩くことのできないときであろう。当然である。」

というくだりを書き換えて

「これらの結果がどうなるか予断はできないが、鎖国をいつまでも続けられるものではないことは確かであろう。」

と改めたのも、1990年の本多氏ではありえません。その時には既に「これらの結果がどうなるか」がわかっていたわけですから。これはちょうど、満州事変が勃発して日本が満州国を擁立した直後に「やがて満州国は世界中から承認されるであろう」と書いた言論人が、それから15年経って戦後になってからそのくだりを「結果がどうなるか予断はできない」と書き換え、それを戦前の著作であると称して発表しているようなものです。

要するに、「事実そのものが全くわからず、軽々に論じられない」「これらの結果がどうなるか予断はできない」と判断したのは「1975年夏に実在した本多記者」でもなければ「1990年に実在した本多記者」でもありません。それは、

「1990年の時点でふりかえってみて『あの時にはこう書くべきだった』と後悔しつつ頭に思い浮かべた、ありうべき『架空の、1975年夏の本多記者』

に他なりません。架空の存在(虚構=フィクション)が書いた記事をそうと断わらずに公表することは、読者を騙していることにはならないでしょうか。これが正当な「訂正」と呼べるでしょうか。フィクションを交えた「ルポ=ノンフィクション」とは、定義において既に矛盾しているのではないでしょうか。

これらから判断して、この「書き換え」は読者に正確な情報を提供することが目的ではなく、むしろかつての虐殺否認発言を読者の眼から蔽い隠すことを目的として行なわれたものであると結論せざるをえません。

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質問「「本多氏は執筆時期に関して読者に誤った印象を与えようとした」とする根拠は何ですか。」

答え:

「カンボジア革命の一側面」を書き換えて「プノンペン陥落の一側面」となった後も

そのため事情を知らない読者は、この書き換え後の記事は紛れもない1975年8月19日における本多氏の著述であり、1975年夏には本多氏はポル=ポト派の虐殺の真偽に関して(賢明にも)態度を保留していた、と信じさせられるという仕掛けになっています。上に述べたとおり、書き換えた時点(1990年)では既に虐殺を事実と確信していたにも関わらず

「事実そのものが全くわからず、軽々に論じられない」

と書いたのは、そのつじつまあわせのための作為的なオトボケであるという他に納得のいく説明が考えられません。現に、本多氏のカンボジア虐殺否認発言をめぐって1995年にニュ−スグル−プ上で行なわれた論議は、書き換え(1990年)後の文章を同書発行(1976年)当時のものと信じて行なわれたため今から振り返ると要領を得ないやりとりになってしまったという経緯があります。

ベトナム軍の侵攻によって赤色クメール政権が倒壊した結末を知っていながら「結果がどうなるか予断はできない」と書き換えたことも、同様の小細工であるという以外に解釈のしようがありません。

逆にいえば、後年得られた知見をもとに1975年の著述を書き換えれば、原記事の前提である同時代性が消失してしまいます。そうであれば、そういった記述は執筆時期を誤認されないように配慮し、後年の著作や後記であることを明示して発表するか、あるいは新しく別の記事として書き下ろすのが言論人としての職業倫理にかなったやり方ではないでしょうか。(統計資料集や技術書、辞書の類ではないのですから。)

以下、明山智隆氏の論考から引用します(引用者が改行を加えたところがあります)。

「野球評論家の例を挙げましょうか。 1999年3月に、

「いよいよ開幕である。今年のセリーグ、巨人優勝は間違いないが……(1999年3月)」

と書いた評論家がいるとします。彼がのちにこっそりこの文章を

「今年のセリーグ、全く予断を許さない…(1999年3月)」

「今年のセリーグ、中日に注目をしたい…(1999年3月)」

などと「訂正」したら、その評論家は百発百中の鋭い批評眼を持つ大名人になってしまうではありませんか。とういうか、そもそも訂正の範疇に入りません。

その後の文章を「価値がある」と判断し掲載するなら、当然当時の知見だとわかるからそのままにしておくか、

「今年のセリーグ、巨人優勝は間違いないが……(註:実際は中日が優勝)」

とするのがフェアといえましょう。あまりにも当然のことです。そうしなければ『誤解』されます。」

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質問「本多氏は、著作を書き換えたり意見を変更したりする時はいつも断わり書きなしでそうしているのですか。」

答え:

著書によっては断わり書きを入れている場合もあります。

過去の認識を変更した場合の本多氏の対応には、次のような類型があるようです。

1)記事ごと著書から削除する。

 例:「欧米人記者のアジアを見る眼」(削除した旨の断わり書きはなし。)

2)過去の著作を断わり書きなく書き換え、当時の発言として発表する。

 例:「カンボジア革命の一側面」

3)「加筆した」むねを明記する。

例:『実戦・日本語の作文技術』(1994年10月1日発行)収録「日本語と方言の復権のために」の末尾には

「『言語生活』1975年2月号の「世界語と日本語と共通語と方言との関係」を改題加筆

と明記されています。

4)標題だけを変える。

例:カナダでは「エスキモー」が差別表現とみなされるようになったことから、「カナダ=エスキモー」を『極限の民族』第1部で「イニュイ民族」と改題するが、

「本文中では、31年前の1963年当時という「時代のルポ」のままとしました。」

(「「エスキモー」か「イヌイ」か「イヌイット」か「イニュイ」か」、『貧困なる精神L集』42ページ)

5)原文をそのまま収録する。

例:『本多勝一著作集』における、小学生時代の昭和天皇賛美作文

6)「考え方に変化があった」という主旨の但し書きをあとがきなどに入れる。

例:本多勝一『事実とは何か』朝日文庫版1994年5月30日第11刷収録「あとがき」より

「ここにまとめられた一冊は、主としてジャーナリズムの周辺に関係する文章です。新聞記者という職業についてから25年のあいだに、さまざまな時と場所で書かれたものを年代順に編集したので、内容的にいくぶん重なる部分や、考え方に多少の変化があるのも仕方がないことと思われます。…1983年10月15日(南駒ヶ岳・摺鉢小屋にて)」(289ページ)

7)後年の見解・認識の変化を、最初の記事発表以後につけくわえた「(後)注」や「追記」と明示して記載する。

例1:本多氏は『朝日ジャーナル』に寄稿した「殺す側の映画」を後日『殺す側の論理』朝日文庫に収録していますが、同書では雑誌記事執筆時には気がつかなかった映画の設定を、次のように[注]で説明しています。

「右の『サン・セバスチャンの攻防』のすじがきの中で、私は気づかなかったが、同じテレビを見たある人は、アンソニー=クイーンもまたブロンソンと同じ混血役なのだと言った。そうであれば、「スペイン人の血の方が大切なのか」と言ったブロンソンは「お前の体の中にあるスペイン人とインディオの半分ずつの血のうち、スペイン人の方が…」という意味になる。(本書刊行までにシナリオを入手できず、確認できなかった。)従ってニュアンスがかなり違ってくるが、しかしこの文章で言おうとした本質にはかわりがない。」

この場合、「【雑誌記事執筆時には】私は気づかなかった」と明記してあるのですから、フェアな表示方法といえましょう。

例2:本多氏は『職業としてのジャーナリスト』収録「タスマニア人と野坂昭如氏」で野坂氏を

「最近の『週刊朝日』連載コラム「オフサイド81」をはじめとするその抗戦ぶりには、感動と絶賛の拍手をおくりたくなる。」

と文字どおり絶賛していますが、その後<第七刷からの注記>として

「だが、野坂氏は1980年代末期から、何らかの原因によって大きく変節し、不可解な言動がみられるようになった。」

と但し書きがつけ加えられています。

このように当時の文章を書き換えなしで「「時代のルポ」のまま」収録したり、書き換えた旨や認識の変化を明示する場合もあるのに、「カンボジア革命の一側面」という1975年8月の「時代のルポ」を書き換えた際にそのむねの断わり書きを入れなかったのは、意図的な操作であると考えざるをえません。

因みに、本多氏は単行本の収録記事を削除・追加する場合には、通常その経緯を「あとがき」などに逐一書き留めています。ところが、『貧困なる精神3集』から「欧米人記者のアジアを見る眼」を削除した際だけは、その旨を明記する記述が削除後の第8刷に一切見当たりません。

参考資料

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質問:本多氏が“書き換えていない”などと断わっている場合には、論旨に関わるような書き換えは本当に行なわれていないのですか。

答え:

必ずしもそうとは限りません。“ほとんど書き換えていない”などと断わっていながら、実はあちこち書き換えられている著作もあります。たとえば『中国の旅』朝日文庫(1981年12月20日初刷発行、引用は第22刷より)の「あとがき」(298〜301ページ)には次のような記載があります。

「これらのルポをまとめた上、さらに加筆して単行本『中国の旅』(朝日新聞社・1972年)が刊行されていましたが、それを文庫本にしたのが本書であります。…もとの単行本とこの文庫本とでは、写真の収録数にかなり違いがあるほかは、本文にはほとんど変わりはありません。」

ところが実際には、次のように文革支持色を弱める書き換えがなされています。

また、『事実とは何か』文庫版「あとがき」においても上述のとおり「考え方に多少の変化があるのも仕方がないことと思われます。」という記載があります。これを読めば、当時の発言は今と異なる考えを述べたものであってもそのまま収録したのだろうという印象を持つのが自然です。しかし実際には、そこに収録されている小和田次郎氏との対談「報道と取材の自由について」(一九七三年九月十八日対談)における自らの発言を次のように無断で書き換えるなどの改変がみられます。

本多 …しかしこういうことを言うと、すぐに「それみろ、だから社会主義は悪いんだ、つまり資本主義の側にしか“自由”はないんだ」とばかりに、反動側の用心棒的評論家連中が絶叫するんですね。いくら絶叫してくれても、資本主義よりは社会主義の方が基本的なところで正しいという事実に少しも変りはないので、反動側の絶叫はむしろ私の仕事を逆の立場から高く評価してくれることにしかならないんだけれども、こういう連中とは全く別の次元で、やはり問題にはしてゆくべきだと思うんです。(『新編・事実とは何かII』未来社)

本多 …しかしこういうことを言うと、すぐに「それみろ、だから社会主義は悪いんだ、つまり資本主義の側にしか自由はないんだ」とばかりに、反動側の用心棒的評論家連中が絶叫するんですね。いくら絶叫してくれても、「だから資本主義の方が基本的に正しい」ということにはならないんだけれども、こういう連中とは全く別の次元で、やはり強く批判してゆくべきだと思うんです。(朝日文庫版『事実とは何か』1986年11月25日第5刷収録)

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公開質問状とその顛末

質問「「カンボジア革命の一側面」書き換えに関して本多氏自身の見解を求めたことがありますか。」

答え:

はい、かつてニュースグループ上でこの「書き換え」が問題になった時、論議に参加した有志の代表(上に「A氏」として紹介)が、4箇条からなる1995年12月6日付け質問状を『週刊金曜日』本多勝一様宛に送りました。(A氏は「本多氏の著作内容には共感をおぼえるところが多い」と公言しているぐらいで、いわゆる「右」の人物ではありません。むしろ「どちらかといえば左」と自ら名乗る発言も残しておられます。現にA氏がニュースグループに投稿をはじめたきっかけは、本多氏の大江健三郎氏批判に同調してのことだったそうです。)

この公開質問は、回答を督促する1996年6月28日づけメールを本多氏に送った機会に少し書き直されました。全体としての主旨には変化がないので、ここでは読みやすい2度目の質問を次に引用します。引用者が「公開質問4a.」などの見出しを加えたほか、背景説明の部分は割愛してあります。

公開質問1.「1975年10月号の『潮』誌上、「カンボジア革命の一側面」で「アメリカが宣伝した「共産主義者による大虐殺」」という表現があります。 *具体的に*説明していただけないでしょうか?」

公開質問2.「問題の論文は、『貧困なる精神第4集』(1990年第9刷)ではタイトルや問題とされた表現を含め「改稿」されています。カンボジアの情勢が次第に明白になってきたため、あるいはカンボジア とベトナムとの険悪な関係が表面化したため、オリジナルの表現のままではまずいとの判断が働き「改ざん」したのだ、という批判に対してはどうでしょう?」

公開質問3.「「改稿」の事実を伏せたまま、1990年の段階で論文の最後に(『潮』1975年10月号)と記載するのは読者を騙す行為ではないでしょうか?」

公開質問4a.「本多氏の他の著作でも同様の「改稿」がなされているのでしょうか?」

公開質問4b.「また、今後もされるのでしょうか?」

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質問「本多氏は、公開質問状に回答することを約束しましたか。」

答え:

公開質問状に対し、おりかえし「ご質問にはすべてお答えいたします。」と確約する旨の1995年12月8日付けメールが本多氏からいただけました。

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質問「本多氏は、公開質問状に対する回答を発表しましたか。」

答え:

「編集業務で忙しい」ことを理由に長らく(3年半強)本多氏からご返事がいただけませんでしたが、1998年の初夏に福岡在住の西村有史医師が本多氏に送ったメールの中で公開質問への回答の意思の有無を打診したところ、1999年の夏になって本多氏から西村氏に対し「『潮』10月号で回答する」という主旨の連絡が入りました。その号に掲載されたのが、本多氏の「私のカンボジア報道について」です。

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質問「本多氏は「私のカンボジア報道について」(『潮』1999年10月号)で、読者からの四箇条五項目の「ご質問にはすべてお答え」したのですか。」

答え:

箇条ごとに検討しましょう。

公開質問1.1975年10月号の『潮』誌上、「カンボジア革命の一側面」で「アメリカが宣伝した「共産主義者による大虐殺」」という表現があります。 *具体的に*説明していただけないでしょうか?

→ 回答なし。

公開質問2.問題の論文は、『貧困なる精神第4集』(1990年第9 刷)ではタイトルや問題とされた表現を含め「改稿」されています。カンボジアの情勢が次第に明白になってきたため、あるいはカンボジア とベトナムとの険悪な関係が表面化したため、オリジナルの表現のままではまずいとの判断が働き「改ざん」したのだ、という批判に対してはどうでしょう?

→ 回答なし。

ただし、「私のカンボジア報道について」の次のくだりはこの質問を意識したものかとも思われます。

「もう二十余年も前の古い話で恐縮なのですが、本誌で随筆や評論などを連載していたころのこと、一九七五年十月号で「カンボジア革命の一側面」と題して一文を書いたことがあります。
かんたんに要約すれば、サイゴンで会った一人の若い中国人女性の体験の紹介が主たる内容ですが、その背景としての解説も加えられています。この中国人女性は、当時カンボジアから命からがらペトナムヘ脱出してきた一人で、ポル=ポトをリーダーとする赤色クメール(カンボジア人民軍)によるひどい弾圧と虐殺政治の体験者でした。…それに加えて書いた背景説明では、カンボジアのベトナム以上に「侵略されつづけた歴史」に起因する極端な革命路線や「行きすぎ」とか、末端まで指導が徹底していないための誤りの可能性などを指摘し、総じて「カンボジア革命」を擁護する方向で書かれています。
最近、この記事を見たらしい読者から、この後者の部分(背景説明)がその後の収録本から削除されているのはおかしいのではないか、という指摘のお便りをいただきました。…本誌のあの一文だけを読んだ人であれば、右のように思われる人もあるかもしれませんが、その後の活動を全くご存じないのだな、と改めて残念に思いました。と申しますのは、このあと最終稿としてまとめた本(たとえば著作集第16巻『カンボジア大虐殺』とか文庫版『検証・カンボジア大虐殺』=いずれも朝日新聞社)までの間に、取材を通じて私の認識が変化してゆく過程が、ルポや対談・インタビューなどのかたちですべて明らかにされているからです。…したがって、これらの過程を知る読者であれば、最終的にまとめた前述の本の中で、わざわざ本誌での当初の論評、のちに私自身のルポによって自ら訂正したものを掲載するはずもないことを理解されましょう。」

(398〜399頁)

公開質問3.「改稿」の事実を伏せたまま、1990年の段階で論文の最後に(『潮』1975年10月号)と記載するのは読者を騙す行為ではないでしょうか?

→ 回答なし。

公開質問4a.本多氏の他の著作でも同様の「改稿」がなされているのでしょうか?

→ 回答なし。

公開質問4b.また、今後もされるのでしょうか?

→ 回答なし。

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質問「本多氏は「私のカンボジア報道について」(『潮』1999年10月号)で、読者からの四箇条五項目の公開質問を正確に引用していますか。」

答え:

いいえ、本多氏の文章では質問の主旨が次のようにねじまげられています。

「もう二十余年も前の古い話で恐縮なのですが、本誌で随筆や評論などを連載していたころのこと、一九七五年十月号で「カンボジア革命の一側面」と題して一文を書いたことがあります。
かんたんに要約すれば、サイゴンで会った一人の若い中国人女性の体験の紹介が主たる内容ですが、…それに加えて書いた背景説明では、カンボジアのベトナム以上に「侵略されつづけた歴史」に起因する極端な革命路線や「行きすぎ」とか、末端まで指導が徹底していないための誤りの可能性などを指摘し、総じて「カンボジア革命」を擁護する方向で書かれています。
最近、この記事を見たらしい読者から、この後者の部分(背景説明)がその後の収録本から削除されているのはおかしいのではないか、という指摘のお便りをいただきました。」(398頁)

このくだりを読むとあたかも「カンボジア革命の一側面」のうち背景説明の部分が「その後の収録本」(=『検証カンボジア大虐殺』および『カンボジア虐殺』)に収録されていないことを質問者が問題にしているかのような印象を受けますが、実際にはそういうくだりは公開質問にはありませんでした。公開質問の主眼は次のとおり、本多氏が『貧困なる精神4集』の文言を後年無断ですりかえ、それを1975年当時の著作と称して発表していることにあります。

公開質問3.「改稿」の事実を伏せたまま、1990年の段階で論文の最後に(『潮』1975年10月号)と記載するのは読者を騙す行為ではないでしょうか?

(『貧困なる精神4集』第9刷にも、同記事の背景説明の部分は収録されています。ただしそのうち『潮』原文や『貧困なる精神4集』初刷にみられた赤色クメールを強く擁護する文言が、増刷時に比較的あたりさわりのない表現にさしかえられていることは、上にご報告したとおりです。)

それどころか、当初の質問が

「例によってアメリカが宣伝した「共産主義者による大虐殺」などはまったくウソだった」

というくだりをめぐるものであったこと自体も、「私のカンボジア報道について」では全く言及されていません。したがって、この記事を読んだだけでは本多氏がかつて虐殺「なかった」派であったことはわからないようになっています。

つまり、本多氏は質問にこたえていないのみならず、もとの質問の主旨そのものを歪曲しているわけです。

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質問「本多氏は、読者からの公開質問の主旨を誤解していたために的外れな回答をしたのでしょうか。」

答え

「カンボジア革命の一側面」をめぐる読者から本多氏への公開質問に関して1998年の初夏に本多勝一氏と西村有史氏がメールをかわした際にも、本多氏は

“その件は後年の著作において既に「訂正」済みである。”

という主旨のメールを西村氏に送っています。それに対して西村氏は、

“後年の著作内容などが聞きたいのではない。本多氏が今では虐殺を事実とみなしていることなど先刻承知している。1975年の『潮』でどうして根拠もないのに(より正確にいえば、様々な傍証にも関わらず)ポル=ポト派の虐殺を「全くウソ」と断言したのか、その後その文章をどうして断わりもなく書き換え、それを1975年の著作と称して発表しているのかが知りたいのだ。”

という主旨の返信を送り、質問の意図を再度確認して念を押しました。したがって、それでもなお本多氏が質問の主旨を誤解していたというのは想像しがたいことです。

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質問「本多氏が一方では“「赤色クメール(カンボジア人民軍)によるひどい弾圧と虐殺政治の体験者」から直接話をきいてその体験談を「カンボジア革命の一側面」に書いた”と後年になって回顧しながら、その「カンボジア革命の一側面」の中で当時「「共産主義者による大虐殺」などはまったくウソだった」と書いていたことをみると、本多氏の証言はつじつまが合わないのではありませんか。」

答え:

はい。

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質問「『潮』編集部に対して反論掲載を申し入れましたか。」

答え:

はい、1999年の秋に以下のとおり書簡で申し入れました。その後、2000年9月29日時点でなお諾否いずれのご返事もいただいておりません。

参考資料:

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「書き換え」事件の周辺

質問「本多研ではどうして20年以上も昔の虐殺否認記事のことを詮索するのですか。」

答え:

本多氏が現にカンボジアで進行中の大規模な虐殺を否認することにより、結果として「虐殺する側」に荷担していた事実は、その後本多氏がポル=ポト派の虐殺報道で名声をあげたということによって消失するものではありません。過去に書いた同時代ルポの間違いが判明したのなら、時期を明示した追記などの中で訂正すべきではないでしょうか。日々の動きを追うのに精一杯の日刊紙の記事ならまだしも、雑誌掲載のルポが後に単行本に収録され刷を重ねたとすればそれは後世に対する時代の記録としての役割を担います。原著者といえども無断で自分に都合がよいように本文を書き換えそれを過去の著作と称して発表することは、職業倫理の上から許されるものではないはずです。

読者が特定の言論人の言説や報道の信憑性を判断するにあたっては過去における的中率が重要な指標の一つになる以上、このような無断書き換えによる事実上の経歴詐称がまかりとおるようでは本多氏の著作を逐一眉唾で読まなくてはいけなくなる、というのが正直なところです。もしこれが不問に付されるのなら、極端にいえば新聞の縮刷版において過去の誤報を無断で修正することも可能になってしまいます。戦時中は軍に協力して戦争賛美記事を書いていた新聞社がもし仮にその記事を後年になってかきかえ、「わが社は戦前・戦中から一貫して反戦平和の姿勢を貫いてきた」と詐称していたとしても、許容されることになってしまいます。(たとえその新聞社が戦後になって反戦平和に論調をかえたとしても、戦前戦中における戦争協力の事実が消えてなくなるわけではありません。)

さらに、本多氏自身も、駆け出し記者時代の雑報記事やさらには小学生時代の昭和天皇賛美作文までそのまま『本多勝一著作集』に収録したことについては、次のような説明をしています。

「つまり「だれしも」小学生のときの作文を収録する意味はあるのです。『選択』のコラムの匿名筆者も含めて。私の場合にしても、戦争中の小学校の実態や、子供が当時何を考えていたのかがよくわかって「痛快な」資料になっています。匿名筆者氏も、もし小学校時代の作文が残っていたら貴重な資料ですからぜひ刊行してください。」

(出典:「こんなデマを流された」、朝日新聞社『貧困なる精神L集』91ページ)

それなら、本多勝一氏という有名記者による1975年の虐殺否認記事は、ジャーナリズムの「実態」や新聞記者が「当時何を考えていたのかがよくわかって「痛快な」資料になっています」。それが一小学生の作文などよりはるかに「貴重な資料」であるのは明らかです。したがって、「欧米人記者のアジアを見る眼」「カンボジア革命の一側面」を当時の文章のままで「ぜひ刊行」せねばならない、というのが本多氏の所論の論理的帰結です。それにもかかわらずこれら「貴重な資料」を削除あるいは改変に処したことには、恣意的なものを感じざるをえません。

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質問「本多氏の「書き換え」問題にいつまでもこだわるのは、しつこいのではありませんか。」

答え:

本多氏は次のように述べて、日本人が責任追求に不徹底であることを嘆いておられます。

「もともと「責任をとる」ことについて、日本人は世界でも稀なほど鈍感な民族です。「水に流す」ことが評価され、いつまでも責任追及にこだわることは悪とみなされ、ナアナアの無責任メダカ社会。今の住専問題の根底にもこれがあるし、エイズ訴訟での関係役人や関係学者の責任問題にもこれがあります。」

(本多勝一著『貧困なる精神L集』朝日新聞社刊1996年発行所収「筆刀両断!むのたけじ」より)

すなわち、責任問題において「いつまでもこだわる」のは大いに結構なことであると本多氏御自身が述べておられるわけです。

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質問「本多氏の周辺の人達は、氏の「カンボジア革命の一側面」書き換えをどのようにみていますか。」

答え:

この件について、長年にわたり本多勝一氏を支える盟友として二人三脚を組み数々の仕事を手がけてこられた和多田進氏(『週刊金曜日』初代編集長・すずさわ書店前代表)に事情をうかがいました。以下、和多田氏のおたよりから引用します。

「今回のように著者の主張がまったく逆転してしまうような場合については【書き換えた旨を明記する】「断わり書き」を書かれるよう著作者に進言しなくてはなるまいと考えます。…フェアか否かという点で言えば、私たちはやはり本多さんの態度がフェアだとは思えません本多さんは「立場が変わるということはあり得ることだが、その場合は必ず自分の立場の変更について説明・公表すべきだ」という主旨の主張を常日頃からしてこられ、私どももその言説に共感して参りました。そうした経緯に照らして、今回のことにびっくりしたという次第です。」

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質問「『貧困なる精神4集』を発行したすずさわ書店では、本多氏の「カンボジア革命の一側面」書き換えをどのようにとらえていますか。」

答え:

和多田進氏は上に御紹介した書簡の冒頭で次のように述べておられます。

「大矢氏【大矢みか氏=すずさわ書店現代表】ともこの件については相談しており、私たちの見解は完全に一致していることをはじめに申し述べておきます。」

大矢氏の代表就任に先立っては、和多田氏がすずさわ書店の代表を勤めておられました。(和多田氏がすずさわ書店の経営をあずかるようになったのも「本多勝一夫妻の要請」によるものだそうです。)つまり、『貧困なる精神4集』の発行元たるすずさわ書店の新旧代表者である大矢氏と和多田氏がそろって、本多氏の無断書き換え行為は自らの日頃の言説を裏切るものであり、立場を変更するにあたってはその旨を明記すべきであった、と批判しているわけです。

すずさわ書店が「カンボジア革命の一側面」(→「プノンペン陥落の一側面」)を収録した『貧困なる精神4集』のみならず、本多氏の著書を多数刊行している出版社であることは、いまさら申し述べるまでもありません。(ただし、お二人ともすずさわ書店の経営に携わるようになったのは『貧困なる精神4集』が書き換えられた後であり、書き換え当時の事情については詳しいことを御存じないようです。)

関連資料:

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質問「和多田進・大矢みか両氏以外の職業ジャーナリストが、本多氏の著作書き換えを公の場でとりあげたことはありますか。」

答え:

『噂の真相』誌編集部が1998年8月20日づけで本多勝一氏にあてて出した質問状の中で、「カンボジア革命の一側面」の書き換え問題が以下のようにとりあげられています──この質問状は岡留安則・岩瀬達哉トーク「本多勝一とリクルート接待の真相」(場所:トーキングロフト、日時:98.12.09)の席上で発表され、銀河出版『トーキング・ロフト3世』Vol.1に掲載されています。

『トーキング・ロフト3世 VOL.1』(発行日99年5月10日)133ページ掲載

「噂の真相から本多勝一へ送られた質問状」

98.8.20

本多勝一様

噂の真相

編集長  岡留安則

副編集長 川端幹人

弊誌翌月号にて、貴殿が1987年に出掛けられた安比高原スキー旅行についての検証記事を企画しております。つきましては、貴殿のご希望通り、貴殿の言い分を取材させていただきますので、以下の質問にご回答下さい。また、この旅行の件以外にも、貴殿のジャーナリストとしての活動についていくつか疑問を抱いておりますので、是非、合わせてお答え下さい。尚、回答は正確を期すために、文書にてお願い致します。また、締切の関係上、勝手ながら8月24日(月)までにご回答いただければと思っております。質問は以下の通りです。

【中略】

17)貴殿の著書「貧困なる精神・第4集』において、「カンボジア革命の一側面」と題する論文のタイトル及び内容が、第9刷よりなんの断りもなく、変更されているのはなぜか。読者に説明もなく、こうした変更を加えるのはアンフェアだとは考えないのか。(初期の本では、アメリカの発表したポルポトの大虐殺は全くの嘘だったが、となっているのが、9刷ではなんの断わりもなく、事実はわからない、軽々には論じられないと変わるんです。 岡留)

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質問「本多氏は、自分以外の人間が立場や認識を変えた時には、それをどのように論評していますか。」

答え:

「カンボジア革命の一側面」の場合と違って、同一の記事・論文の文言をさしかえそれを過去の著述と称して発表しているというのではありませんが、石原慎太郎氏がかつて米国誌『プレイボーイ』誌上のインタビュー記事で日本軍による南京市内での大量殺戮を全面否認するとも受け取れる発言をしたあと、『文藝春秋』に寄稿した論文では“虐殺はあったかもしれないが、その規模は中国側が発表しているほどではない”と軌道変更したことがありました。これについて本多氏は次のように論評しています。

「石原慎太郎は不勉強だから、これまでの論争の到達点を知らなかったのね、あの「中国人のウソ」発言をした時。だから全否定したわけですよ。後で「これはしまった」と気がついて、『文藝春秋』に書いた時はコッソリ部分否定にしたんです。「数がそんなに多くないんだ」と、すり替えたわけですよ。しかし、前の全否定は間違いだったとそこでちゃんと謝っていれば、知識人のはしくれに入れてやってもいいんだけど、もともとそんなことのできる人物ではありえない。大江以上に卑劣な性格ですからね。堀江謙一のヨットの冒険に嫉妬して、無寄港世界一周を根拠もないのにウソだとけなしたりして。だから今度の件でも自分の失敗をごまかして、めちゃくちゃなことをやった。」

(出典:本多勝一「にせ知識人とジャーナリズム」、『滅びゆくジャーナリズム』収録168〜169ページ)

このくだりから推察するならば、本多氏は、以前発表した記事や論文に誤りがあれば「間違いだったとそこでちゃんと謝」らなければならず、そうせずに「コッソリ」旧説をとりさげて異なる主張に切り替えるのは「卑劣な」「すり替え」だと考えておられるようです。

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質問「遅きに失したとはいえ、本多氏は自ら現地に赴いてまで虐殺を検証したという後年の業績もあるわけですから、石原氏の場合と単純に比較するのはやや酷ではありませんか。検証取材を行なって虐殺の実態を解明したことによって、本多氏は実質的には過去の赤色クメール賛美発言に対する責任をとったといえるのではないでしょうか。」

答え:

石原氏と「単純に比較」するかどうかは別として、1978年以降の本多氏の虐殺検証取材(特に1980年のカンボジア現地ルポ)の業績を評価するにはやぶさかでありません。しかし、ポル=ポト政権が倒壊し大虐殺があらかた終わった後になっていくら検証取材に力を入れたところで、かつて本多氏がほめそやした赤色クメールによってその当時惨殺された人達の命がかえってくるわけではないというのも、悲しい現実です。本多氏の検証取材の業績評価と、往年の虐殺否認発言およびその書き換え問題とはわけて論ずるべきだと考えます。

ご参考までに、ニューヨーク=タイムズ紙のペンタゴンペーパー暴露報道について、本多氏は次のように論評しています。

『ニューヨーク=タイムズ』が、そのニセの「正義の味方」ぶりを宣伝する上で、この暴露ほどちょうどいい「わがまま」の限度内の対象があろうか。この報道の裏側について私はなにも知らないが、ソンミ事件のときと同じように、どうせこれも信用できたものでないことだけ、表明しておきたい。想うだに、腹の底から怒りが涌き上がってくる。ベトナムの人たちにあのような筆舌を絶する残虐爆撃を何年間も加え、大虐殺をもたらしたこの侵略戦争の、かんじんの動機が「でっち上げのウソでした」と、戦争をやめたいときになって「暴露」してみせて、いったい何になるというのか。何万の殺された民衆の側に眼をおいて、考えてもみよう。あまりの馬鹿馬鹿しさに、唖然として言うべき言葉もないほどだ。

『ニューヨーク=タイムズ』とは、かくのごとく馬鹿らしい新聞である。そして、ハノイは当初から、トンキン湾事件がでっち上げであることを絶叫しているのに、それを無視しておいて、いざ『ニューヨーク=タイムズ』が「暴露」してみせると、あわてて追従し、絶賛する日本のマスメディアが、それ以上に、もっともっと「馬鹿らしい」存在であることは、もはや強調する必要もなくらい当り前の現象である。

(「『ニューヨーク=タイムズ』考」、『潮』1973年11月号;引用は『職業としてのジャーナリスト』朝日文庫第9刷120〜121ページより)

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質問「本多氏が断わりなく書き換えた著作は、「カンボジア革命の一側面」だけですか。」

答え:

いいえ、当会の調べでは、『事実とは何か』、『中国の旅』なども含め、多くの著書において断わり書きなく書き換えられている箇所が多々発見されています。

参考資料

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文化大革命をめぐって

質問「本多氏は著作を書き換えるにあたって常に、検証取材を行なったり信頼できる情報源に照会するなどして実態を確認するべく努力しているのでしょうか。」

答え:

たとえば朝日新聞社版単行本『中国の旅』やすずさわ書店版『中国の旅』にみられた本多氏の熱烈な文化大革命賛美言辞はその後無断で随所に削除/改変されていますが、それに際して本多氏が文化大革命の実態を検証する取材を行なわれたということは、いまだに耳にしません。

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質問「本多氏は、どうして文化大革命の実態解明にのりださないのでしょうか。」

答え:

『検証カンボジア大虐殺』には次のようなくだりがあります。

「問題はそれ【文化大革命の理念】が実際面でどう行なわれていたかですが、この点は取材の自由が全くないので見当もつきません。」

(443ページ)

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質問「現地で自由な取材ができなければ、中国国内の状況については「見当もつかない」のでしょうか。」

答え:

中国本土から脱出・逃亡した人々に体験をきいたり統計資料を分析して彼国の内情を推定することも可能です。

現に本多氏自身も、かつてカンボジアが完全鎖国していて現在の中国以上に「取材の自由が全くない」状態であった1978年には、ベトナムに逃れ出たカンボジア難民からの聞き取り取材にもとづいて虐殺の可能性を示唆していました。

「【赤色クメール支配下のカンボジアの内情を知る】第二の方法は、カンボジアから脱出・逃亡してきた人々に体験をきくことだ。これは間接取材である点が弱点だが、ききかたによってはかなり正確に取材することができる。」

(『検証カンボジア大虐殺』85ページ、原文では「ききかたによっては」に傍点)

次の箇所では、本多氏はその「ききかた」の秘訣を公開しています。

「本当はあそこ【ベトナム領内のカンボジア難民キャンプ】に一ヵ月ぐらい住み込んで徹底的に聞いたら、カンボジアの様子は90パーセント分かると思います。もちろん【カンボジア難民から聞き取り取材をすると】誇張したり、話の中にはデマもはいってきますけれども、それは質問によってかなり訂正できる。いろいろな角度から質問していきます。嘘をいえばばれるような方法で『検算』しながらやって行きます。具体的なことから、例えば部屋がどういうふうになっていたかとか、ウソをいえば矛盾が出てくるようなことを細かく聞いていくのです。だから一ヵ月もかかってやれば、非常に貴重なニュース、現在のカンボジアの情況がよく分かるのだけれども、それが今のベトナムの取材ではできない。何度もいうように、これは今の社会主義国のダメな部分の象徴です。」

(朝日文庫『ルポタージュの方法』第5刷、227ページ)

さらに1980年のカンボジア現地取材にあたっては、本多氏は次のように意気込んでいます。

「死んだ人々の数は百数十万人、あるいは300万だの400万だののケタに達するという説もある。…これほどの一大事件を、私たちはあいまいなまま放置させることはできぬ。…これは重大関心事として徹底的に解明すべき問題であろう。可能なかぎり事実を洗いだす努力を、ジャーナリストとしては当然しなければならない。」

(『検証カンボジア大虐殺』172ページ)

「なにしろ100万のケタに達する人命の問題だ。こんなことを、ジャーナリストとしてどうして黙って放置できようか。そうした当然の関心を抱いた者の一人として、私も去年の秋カンボジアで独自の取材をこころみ、連載ルポ「カンボジアの旅」として報告した…。」

(『事実とは何か』朝日文庫収録「事実には事実を」、259ページ)

「アウシェヰ゛ッツの解明に、戦後の膨大な人員と時間と関心が注がれ、膨大な報告や作品が発表されたように、カンボジア虐殺にもそれらが注がれなければならない。それをしないのは、「東南アジアの一角」で起きたことにすぎぬための「人種差別」でもあろう。」

(『検証カンボジア大虐殺』379ページ、原文では「すぎぬ」に傍点)

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質問「「社会主義」のベトナムがカンボジア難民を自由に取材させなくて「ダメ」だとわかったのなら、本多氏はどうしてただちにタイ領内のカンボジア難民キャンプにおもむいて「徹底的に」聞き取り取材をしなかったのですか。」

答え:

本多氏におたずねください。

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質問「毛沢東政権下での不自然死は、かつて本多氏が精力的に取材したベトナム戦争・カンボジア大虐殺や大航海時代以降の南北アメリカでの大量死などにくらべれば小規模で取材の価値が乏しいものだったのですか。」

答え:

かつてニクソン大統領を辞任に追い込んだ(1974年)米国リベラル派メディアの雄『ワシントン・ポスト』紙は1994年に、体験者の証言や人口統計資料にもとづいて「反右派闘争」・「大躍進」・「プロレタリア文化大革命」などの実態に迫り、中華人民共和国建国以来45年間の人為的死者数を八千万人以上と見積もる推定を発表しています。

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質問「「死者数8000万人」という『ワシントン・ポスト』の推定はあまりに数字が大きすぎて実感が湧きませんが、20世紀後半におきた他の大量死と比較するとどういう位置付けになりますか。」

答え:

推定値の「死者八千万人」を中華人民共和国の統治45年で単純に割れば1年あたりの犠牲者数は約200万人になります。すなわち、ベトナム戦争やカンボジア大虐殺(餓死者を含む)の死者総累計と同じ桁の規模の殺戮を毎年、数十年にわたって続けたに等しい数字です。一日あたりでは約5千人、つまり1989年の天安門事件の数倍ないし数十倍規模の殺戮を毎日、45年間続けた勘定になります。

因にもっと古いところをたどると、コロンブスが西インド諸島に初到着した当時(1492年)南北アメリカ大陸には千万人単位の住民がいたとされています(その後数十年で数分の一以下に減少)が、その数を「八千万人」以上と見積もる専門家は稀なようです。なお、アメリカ先住民社会が天然痘などヨーロッパ渡来の諸種の伝染病の未曾有の大流行で人口が激減し社会秩序も崩壊したためにヨーロッパ人の侵入に対して効果的な反撃を加えることができず衰亡したのに対し、20世紀後半の中国では疫病は必ずしも死因の中に大きな比率を占めておらず、北京政府の強引な農業集団化と苛斂誅求による飢饉・餓死や官憲・紅衛兵などによる赤色テロが主たる死因でした。

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質問:「本多氏は、天安門虐殺事件の背景についてはどのように論評していますか。」

答え:

古川万太郎記者との次の対談にあるように、“中国人民解放軍が毛沢東時代の崇高な精神を忘れ、「共産党と一体」でなくなったから天安門で虐殺事件が起きた(昔の解放軍は「党と軍と人民が一体」で立派だったのに…)”というお考えのようです。

「「天安門の虐殺」への道」(『貧困なる精神』23集収録、初出は『朝日ジャーナル』連載コラム「貧困なる精神」の1989年6月30日・7月7日・14日号)より引用

本多 こんどの事件は「人民解放軍」が「人民弾圧」をやったわけですが、かつての解放軍は「人民のものは針一本たりとも奪わぬ」式の高い徳性に定評があったのに、あまりにもそれとかけ離れたものになってしまいましたね。これは「登小平【「登小平」の「登」は、原文では「登」へんに「卩」づくり】が命令したから」といえばそれまでだけれども、「やっちゃえ」と言われたからやったんだなんて、もう考えることもしなくなったのか。これじゃ資本家の傭兵や封建領主の足軽などと変わらないじゃないか。いったい解放軍兵士に対する教育とかはどうなったんでしょう。

【中略】

古川 そこでご質問ですが、あれは軍だけの問題じゃなくて、中国社会の変化、政策の変化につれて、……

本多 それが軍にも及んでおったと。たしかにひとつの社会のなかで、ある部分だけが孤立して聖なるものを持ちつづけることは、よほど特殊な小集団以外は考えられない。

古川 ただ一般兵士に責任を問うことは気の毒な気もする。彼らは命令でやってるんだから。最高指導者や部隊の直接の責任者の責任を問わなきゃいけない。軍隊の性格上、命令されれば行動する。じゃ「人民の軍隊」のはずの人民解放軍が人民にむけてなぜ無差別に発砲したか。これはひとつには中国の政策がこの十二、三年来変化していくなかで、人民解放軍のあり方も変化してきたんですね。つまり「国防の現代化」といって、軍隊の近代化に重点を置いてやってきた。これはひと言でいうと、現代戦争をたたかえるような優秀な兵器をもって、それを使いこなせるような軍隊にしていこうという考えですね。以前の人民解放軍には「三大任務」があった。ひとつは当然ながら戦闘をする。二つ目は生産隊。人民と一緒に労働しながら人民とともにある軍隊だと。これは非常に意味があるんです。本多さんもごらんになったと思うんですけどね、以前は農村の収穫期になると、人民解放軍の大部隊が農村へ行って農民の手伝いをしていた。それに自分の駐屯地で自分たちが作物を作った。

本多 自分たちの食料をね。ベトナム軍もそうだった。

古川 兵士のものの考え方を教育していく上で、これは大きな問題。三つ目の問題はね、人民解放軍は宣伝隊でもあるといわれていたのです。つまり人民の代表である中国共産党の政策を自ら人民のなかに入って宣伝していく。人民と一緒に中国共産党の政策を学んで発展させていく。つまり民のなかに入って宣伝していく。人民と一緒に中国共産党の政策を学んで発展させていく。つまり共産党と一体であり、同時に人民と一体。このように軍隊が三大任務を規定し、これが柱だった。

本多 「党と軍と人民が一体」という言葉が実態と一致していた。

古川 もうひとつ、これは難しい問題ですが、「戦争とは何か」が基本にある。これによって軍隊は作られていく。毛沢東や朱徳たちが中国の軍隊を作ってきたわけですけれども、この人たちの戦争に対する考え方は、中国の軍隊は外国を攻める軍隊じゃなくて、攻めてくる侵略軍隊に対して人民と一緒に守る、いわゆる人民戦争論をとっていた。従って武器に重点を置くんじゃなくて「人」の要素に重点を置いてきた。こういう軍隊ですと、よくいわれるように兵器は粗末かもしれないし、現代戦争からも立ち遅れているかもしれない。ところが毛沢東亡きあと登小平が指導権を持つようになって、人民戦争論は基本的に正しくないということでしりぞけられた。そして軍隊の任務が戦闘という一点に絞られてきた。

本多 つまりはプロの”殺し屋”になっていった。

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質問「社会主義国で起きた人為的大量死としては、毛沢東時代の中国よりもスターリン時代のソビエトの方が大規模だったのではありませんか。」

Valerie Strauss 、David Southerlandの両氏は、『ワシントン・ポスト』1994年7月17日号掲載の"Mass death in Mao's China"と題する記事において次のように総括しています。

"While it is hardly any comfort to their victims, the two people most ascribed with mass deaths in this bloodiest of human centuries -- Adolf Hitler and Joseph Stalin -- were likely surpassed by a third, China's Mao Zedong."

"While most scholars are reluctant to estimate a total number of "unnatural deaths" in China under Mao, evidence shows he was in some way responsible for at least 40 million and perhaps 80 millions or more. This includes deaths he was directly responsible for and deaths resulting from disastrous policies he refused to change."

"In comparison, Hitler is blamed for 12 million concentration camp deaths and at least 30 million other deaths associated with world War II, Stalin is believed responsible for between 30 million and 40 million "unnatural deaths", including millions from a famine he created."

【訳:有史以来最悪の大量死の主魁と目されてきた二人、すなわちアドルフ・ヒトラーとヨセフ・スターリンも、毛沢東がやってのけた大殺戮には及びそうにない--もっとも、だからといってヒトラーやスターリンの犠牲になった人達が浮かばれるものではないが。

多くの研究家は毛沢東支配下の中国でおきた「不自然死」の推定数字を出すことをためらっているが、毛沢東は少なくとも4000万人、そして恐らくは8000万人あるいはそれ以上の死を招いたという証拠がある。この数字は、毛沢東が直接に関与したものと、毛が頑強に固執した悪政の帰結の両方を含んでいる。

これに対して、ヒトラーは強制収容所における1200万人の死に加え、第二次世界大戦において少なくとも3000万人の死をひきおこした。一方、スターリンは自らがひきおこした飢饉の餓死者を含めて3000万人から4000万人の「不自然死」を招いた。】

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質問「毛沢東政権下での大量死は餓死を含むのですから、これをスターリンらが行なった直接的暴力による殺戮と同列で比較するのは誤りではありませんか。」

答え:

「大躍進」で未曾有の大量餓死が出ていたさなか、中国政府はむしろ外国に対して食料の輸出を増やしていました。一方、本多氏は赤色クメールの支配下で生じた餓死を「虐殺」に含める論拠として次のように述べています。

「ポ政権下での大量の餓死者をどう見るか。これは「虐殺」から除くべきだ、と主張する人もある。この問題の核心は、餓死が「避けようと努力しても避けられなかった」かどうかにかかっている。食糧が絶対的に不足だったのかどうか。そのカギは、ポ政権が中国などへコメを輸出していたこと......ポ政権自身が公言してきたこの一事によって解くことができる。あれは、恐るべき飢餓輸出であった。」

【出典:朝日文庫『検証カンボジア大虐殺』377〜378ページ、赤字による強調は引用者】

御参考までに、スターリン時代のソビエトでも、ウクライナなどを中心として千万人単位の住民が餓死したという推定があります。

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質問「本多氏は中南米における先住民迫害については詳しい記事を書いていたのではありませんか。」

答え:

はい、そのために本多氏は長期海外取材を行ない、その結果を『マゼランが来た』にまとめています。同書の巻頭で、氏は次のように記しています。

「コロンンブスのアメリカ到着
 五百周年にさいして
 本書を
 アメリカ先住民の
 虐殺された何千万の魂に
 ささげる

(本多勝一『マゼランが来た』朝日文庫巻頭献辞、原文では「到着」に傍点)

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質問「本多氏は、『ワシントン・ポスト』を含むアメリカのメディアが発表した中国情報など一顧だにする価値がないというのではありませんか。」

答え:

本多氏は、『ルポルタージュの方法』で次のように述べています。

「ひとつの国を知ろうと思って、例えばこの場合アメリカ合州国ですけど、合州国を知ろうと思ったら、もちろんアメリカに住み込んでアメリカに没入した人がたくさんいますから、そういう人によって書かれた本も重要です。しかしもうひとつ全く反対に、アメリカを敵としている国、たとえばベトナムやソ連…から出された本というのは大変参考になる。なぜかというと、必死で相手を研究するわけです、敵になると。…同じことは逆も言えるわけで、ソ連に取材に行こうと思ったら、アメリカが研究したソ連の情報に最も急所をついたいいものがあるだろうと思います。」

(192〜193ページ)

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質問:「「100万のケタに達する人命の問題」であるカンボジア大虐殺取材にあたっては「ジャーナリストとしてどうして黙って放置できようか」と意気込み15世紀末からの中南米先住民に対する迫害も長期海外取材した本多氏が、20世紀中葉になってから生じた「一億のケタに迫る人命の問題」である中国大躍進や文化大革命の真相解明に乗り出さず「黙って放置」しているのは、本多氏の「人種差別」に起因するのでしょうか。」

答え:

本多氏にお尋ねください。

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質問「本多氏の往年の文化大革命賛美発言とは、具体的にはどのようなものですか。それは後年どのように書き換えられていますか。」

答え:

朝日新聞社版単行本やすずさわ書店版単行本『中国の旅』には文化大革命を賛美する発言が多々みられますが、その後発刊された朝日文庫版ではそれらが随所に削除されています。

「アメリカ合州国がやったテネシー川のTVA計画を思い出したが、同じ大工事でも、資本家のもうかる開発と、人民に還元される開発【河南省の水利工事】とでは、なんという相違であろうか。」(すずさわ書店単行本『中国の旅』)

削除

「誤りを犯した一部の党員には、教育と指導によって救う努力をするので、かんたんには除名しない。しかし党員の意識は、文革前に比べると明白に人民の党としての自覚を深めており、それだけ生気溌剌としている。…世界で女性解放の最も進んでいる国は、おそらく中国ではないかと思う。レディー・ファーストで知られるアメリカ合州国の女性などは、日本では誤解されているが、実は本質的には日本よりも解放されていない面も多い。合州国の主婦たちは、離婚におびえながら毎日「愛してる?」と夫に確認しなければ安心できずにおどおどして一生をくらすあわれな女ドレイである例がかなりある。日本の主婦のほうが、実質的には亭主を尻にしいて、ドッカリ居すわっている例が多い。」(すずさわ書店単行本『中国の旅』)

削除

同書では、次のようにカギカッコを付加することによって、文革派のプロパガンダに対する当時の本多氏の同調ぶりを薄めるような書き換えもみられます。

【文化大革命期に組織された労働者毛思想宣伝隊が】「修正主義追放に重要な役割を果たした。」(朝日新聞社版単行本)

修正主義追放に重要な役割を果たした。」(文庫本)

また、『言語生活』1975年2月号 (25〜26ページ)に掲載された「世界語と日本語と共通語と方言との関係」における文革賛美発言も、 『実戦・日本語の作文技術』第4刷(200〜201ページ)では次のように書き換えられています(こちらには、「加筆した」旨の断わり書きがあります──ただし、どこをどう書き換えたかという説明はありません)。以下のくだりからもわかるように、この文章も1975年初頭(南北ベトナム統一以前;文化大革命末期)の同時代性を前提としたものであり、その筆法は書き換えの後もかわっていません。

共通語と方言(または少数民族語)との間に階級差別がないとは、つまり本当の二本だてとはどういうことか。私がこれまでに訪ねた国の例でいえば、中国と北ベトナムが参考になるだろう。いうまでもなく、両国とも革命後まだ日が浅いから、理想に達したとはいえまい。しかし少なくともそのための努力はしている。その努力は、決して机上の空論の議論段階ではない。…文化革命後の中国は、これ【北ベトナムの少数民族尊重政策のこと】をもっと深くすすめている。各民族が教育の現場で右のように実行しているのはもちろんだが…。言語政策もそれを反映していることはいうまでもない。(『言語生活』)

共通語と方言(または少数民族語)との間に階級差別がないとは、つまり本当の二本だてとはどういうことか。私がこれまでに訪ねた国の例でいえば、中国と北ベトナムが参考になるだろう。いうまでもなく、両国とも革命後まだ日が浅いから、理想に達したとはいえまい。しかし少なくともそのための努力はしている。その努力は、決して机上の空論の議論段階ではない。…文化革命後の中国は、少なくともタテマエとしてはこれをもっとすすめている。各民族が教育の現場で右のように実行しているのはもちろんだが…。言語政策もそれを反映しているハズだ。( 『実戦・日本語の作文技術』1984年10月1日第1刷発行;引用は1998年3月20日第4刷より)

参考資料

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質問「文化大革命当時の中国では、本多氏が賞賛したとおり少数民族の文化と言語や方言が尊重されていたのですか。」

答え:

とんでもありません。

文化大革命当時、女優出身の江青(毛沢東夫人)の指導のもと北京語一辺倒の言語政策が強引に進められ、地方語(北京語以外の中国語─福建語、上海語、広東語など)や少数民族語(チベット語など)の使用は厳しく制限されていました。中国映画の専門家・刈間文俊氏によれば、映画の中で登場人物が地方語を話すことも禁じられていたそうです。チベットの学校でまがりなりにもチベット語による教育が許されるようになったのは、文化大革命が終結して開放(「解放」ではなく)政策がはじまってからです。チベットのラマ教寺院や文化財はのきなみ、文革時代に徹底的な破壊にさらされました。事情は東トルキスタンでも大同小異でした。

文化大革命末期には秦の始皇帝を称え毛沢東を始皇帝になぞらえるキャンペーンが発動されましたが、始皇帝は各地方で使われていた固有の文字をいわゆる「焚書」によって廃絶するなど、文化面でも強引な中央集権化をはかったことで有名です。

参考資料

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質問「本多氏は、今では文化大革命をどう評価していますか。」

答え:

『検証カンボジア大虐殺』の巻末座談会の席では次のような発言がみられます。

「本多:…(ポル=ポトやイエン=サリの)変質の過程に中国の文革が影響しているらしいことは座談会の中でも指摘されている通りですが、あの文革にしても、私は文革中に中国を取材したことがありますが(『中国の旅』=朝日新聞社)あのとき各地できいた文革の理念自体は、それなりに筋が通っていたし、説得力もありました。問題はそれが実際面でどう行なわれていたかですが、この点は取材の自由が全くないので見当もつきません。それが今になっていろいろ暴露されてきて、中国ではも文革全面否定のようですが、私としては理念や初心までもが単なる陰謀だったとは、とうてい思われないのであります。ポル=ポト政権の世紀の大弾圧政策を考える場合も、たとえば西欧植民地文化の拒否といったこと自体は説得力がありますし、アフリカの黒人たちが近代化と西欧化を峻別しようとしている傾向とも通ずる。この理念自体は、「国際化」と「植民地化」の区別もつけられないでいる外来語(とくにイギリス語)崇拝の日本人など、むしろ「ポル=ポトに学べ」とさえ極論したくなるほどです。」

(『検証カンボジア大虐殺』朝日文庫、1989年11月20日発行、442〜443ページ)

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質問「現実に大躍進や文化大革命が千万人単位の死者を出したことについて、本多氏はどのように考えているのでしょうか。」

答え:

下に引用する「「天安門の虐殺」への道」(『貧困なる精神』23集収録、初出は『朝日ジャーナル』連載コラム「貧困なる精神」の1989年6月30日・7月7日・14日号)は、1989年の天安門虐殺事件の後で行なわれた、本多勝一/古川万太郎(1971年の『中国の旅』取材で本多氏と同行)両記者の対談です。お二人ともあいかわらず、文革の「理念」は正しかった、と主張しておられます。ここで古川記者は「大躍進時の大量餓死は自然災害が原因」、「毛沢東は文革の実態を知らなかった」、「側近に操縦されていた」という主旨のことを述べ、本多氏もそれに調子をあわせておられます。(赤字による強調は引用者による)

本多 「みんなもうけろ」といったら権力に近い人ほどチャンスがある。未公開株みたいに。

古川 しかも中国共産党というある意味では官僚社会ですよ。その権力の中枢にいる人たちだけが特にそれをできる立場なんですね。

本多 「走資派」のそもそもの始まりはどこにあったのか。毛沢東はなぜ登小平【「登小平」の「登」は、原文では「登」へんに「卩」づくり】を走資派だと判断したのか。

古川 簡単な例をあげますとね、一九七八年の一二月に中国共産党の三中全会という会議が開かれた。あれ以降に農村でおこってきた現象は「自留地を拡大しよう」、同時にそこでできたもの、あるいは農民個々人が手作業で作ったものを売る場所、つまり「自由市場を拡大しよう」、その次にでてきたのが生産の請負制。この政策はいみじくも、一九六〇年代のはじめに中国がひどい災害を受けて生産力が低下したとき、農民の働く意欲を起こすために劉少奇や登小平たちが指導して作った政策が原型なんですよ。あれは自然災害というやむを得ない状況があったんでしょうけれども、そういうことをやっていくうちに、農民は集団労働、つまり中国社会主義の最も大きな特色たる集団労働をおろそかにし、個人的金もうけに走る傾向が出てきた。「三百一包」という政策、今ようにいえば農村における自由化政策といいますか。

本多 人民公社より自分の庭の畑に熱を入れるようになる。これはベトナムの合作社なんかでも中国より先行して始まっていました。

古川 これでは今まで築きあげてきた集団労働方式がくずれてしまう。行き先は資本主義じゃないか。これは大変危険だ、と毛沢東は見とおし、そこで「走資派」という批判が出てきた。やがて文化大革命に発展してゆく。だから登小平政権下での一九七〇年代終わりからの政策は、まさに文革前に中国で大論争になった農業政策の焼き直しのように思いますね。

本多 そこで文革ですけど、最初中国に行って私たちが理念を聞いたときには非常に感心したんですよ。日本なんかで大問題となっている社会現象などでも、文革の理念に解決の糸口がみえたりした。教育問題も含めてね。だからこそ当時の西側の学生運動や知識人にも影響を与えたのでしょう。ところがあとになってみると実態はとんでもないことだったと。当時はまだわからなかったわけですけれども。しかし文革については、私は今でも理念自体は悪いと思われないんですね。それがどう狂ってああなったのか。

古川 文革は理念においては評価できる、私も全く同感ですね。中国のみならずやはり社会主義を発展させようとすれば、ああいった考え方の段階を通らなければいけないんじゃないかなと思ったりした。ではなぜ文革が失敗したか。一言でいえば毛沢東の悲劇であり、中国の悲劇だった。毛沢東の「いわんとしたこと」は正しかったかもしれない。しかしひとつは、毛さんが高齢すぎた。自分自身の判断さえ十分できなかったこともあるといわれてます。同時にそういう状況のなかで、側近というか林彪や四人組のような好ましくない人たちにとりかこまれていた。もし毛沢東がもっと若くて、自分自身の判断も十分成り立って、好ましい指導者たちと一緒に事を始めていったらあんなことにならなかっただろうと。毛沢東自身はあんな内乱みたいなことをやるつもりは毛頭なかったわけですよ。武力闘争ではなくて文闘だと。つまり理論面・思想面での闘争だとはっきり提起していた。その文闘−−文化におけるたたかいが、四人組の陰謀によって歪曲され、武力闘争による権力闘争になっていったと。ところが今度の事件をみると、その点ではまた同じ様な失敗を重ねている。つまり登小平その他の老人層は、今の中国で起きている状況を的確に判断できてないんじゃないか。それがこんな虐殺を引き起こしたんじゃないかと。なんか毛沢東の悲劇をもう一回再現しているような気がしましたね。

本多 逆の方からね。【以下略】

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質問「本多氏は、文化大革命当時の朝日新聞の報道姿勢についてどう評価していますか。」

答え:

次のように、“北京発の中国政府公式発表だけを流さず、他の情報源も利用すべきだった”と批判しています。

「文革のときの中国報道のことを言われましたね。これは当時の北京支局特派員をさしているのでしょうが、結論だけ言えば、私はあのときの『北京発』は報道してよろしかったと思います。ただし、それには条件がある。文革のような取材困難な中では、一方では北京原稿をどんどん使うと同時に、他方では香港支局やら外国通信社やら、その反対側の視点による情報があったら、それもどんどん使うこと。この後者が当時欠けていたのではないか。北京原稿よりもこの方が問題だったのです。」

(出典:本多勝一「朝日新聞労組の質問にこたえる」(1991年7月3日、一部加筆)、『滅びゆくジャーナリズム』第1刷1996年10月1日発行、87ページ)

関連資料

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質問「本多氏自身は文化大革命当時、中国政府の発表と「反対側の視点による情報」を自著で「どんどん使」うなどしてバランスをとろうとしていましたか。」

答え:

当会が調査したかぎり、そういう著述は発見されていません。「反対側の視点による情報」に言及があるとすれば、「右翼」などの常套句とセットにして、“信用するに足りない悪宣伝”であると斬って捨てる次のようなくだりです。

いまの中国にたいして、口ぎたなくののしっている右翼文化人たちの言辞を正しいと認めざるをえないような事実には、【1971年の中国取材旅行中に】ぶつかる機会がなかったと。反対に、革命後の中国の偉大さを認めざるをえない事実には、かなりぶつかった

もともと革命後の中国が、右翼インテリ自身にとって住みよいものでありえないことは明白であろう。革命前に住みよかった階級の人々にとっては、住みにくくなることを「革命」という。その国の多数の住人にとって良いか悪いかという基準と、外国の訪問者自身(彼がどういう階級の出身または意識なのかにもよるが)にとって良いか悪いかという基準とを、混同してはならない。」

(本多勝一「中国の旅から」、『戦争を起こされる側の論理』収録1973年1月15日第八刷)

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質問「「右翼文化人」が「中国にたいして、口ぎたなくののしって」いたと揶揄している本多氏自身は、論敵を批判する時も節度のある言葉遣いを守っているのでしょうか。」

答え:

本多氏は、論敵や反対派などを攻撃するにあたって「売春婦/夫」、「賎業」、「男芸者」等の表現を罵倒文句として用いるのがことのほかお得意のようです。以下は、ほんの数例です。

よく卑しい職業の例にあげられる売春婦よりも本質的に下等な、人類最低の、真の意味で卑しい職業の連中である。」

(『週刊金曜日』1997年10月3日号「現実の被害者として」

「50万の米兵の“性的共同便所”にさせられているサイゴンその他政府側支配地区のベトナム女性…」

(朝日文庫『事実とは何か』第11刷「ルポタージュの条件」24ページ--初出は『新聞労連』1968年5月30日付)

「【プノンペン在住のカンボジア人の】多くは、女中だの下男だのといったいわゆる下働きを、それも主として外国人の下働きをつとめるにすぎない存在であった。でなければ売春婦やポン引きのような賎業である。つまり大ざっぱにいえば、プノンペンの町は外国人およびその“下僕”としての国辱的カンボジア人からなっていたと極論することもできた。」

(『潮』1975年10月号「カンボジア革命の一側面」277ページ)

「考えてみれば、この戦争推進会社の出している芥川賞・直木賞・菊池寛賞・大宅壮一賞その他の八百長賞が、モノカキという職業の人々を売春(原文では「夫」に傍点)へと堕落させるのにどれほど大きな役割を果たしてきたことだろう。」

(朝日文庫『職業としてのジャーナリスト』収録「菊池寛賞をあらためて拒否しなおす」305ページ--初出は『潮』1983年11月号)

「こんな賞(ショー)を拒否する小さな勇気さえ持てぬ男など、今後絶対に知識人のうちに数えることはしまい。良い場合で「文学タレント」、悪ければ「文学売春(原文では「夫」に傍点)にすぎないということだ。」

(同上、306ページ)

まだまだあるのでとても引用しきれません。詳しくは下記を御参照ください。

参考資料:

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質問「本多氏は今でも、文化大革命を支持し「革命後の中国の偉大さ」を称えていた当時の自分の中国認識は正しかったと考えているのでしょうか。」

答え:

本多氏が当時の中国認識を誤りであったと明示的に認めた箇所は今のところ発見されていません。むしろ中国に対して「冷静な」認識をしていたと誇る、次のような発言がみられます。

「これ【1971年夏の中国取材旅行中に、本多勝一氏が朝日新聞の同僚記者の古川万太郎氏とともに、郭沫若氏をインタビューしたこと】が縁となって、和夫氏【郭和夫氏=郭沫若氏の長男】ともおつきあいが始まるわけですが、中国でお会いしたことはなく、もっぱら和夫氏が来日されたときに歓談していました。私が中国と直接かかわりはじめたのは、あの文化大革命の後期からですから、以後の中国は内部の大波瀾がつづく時期です。文革をめぐっては日本でも評価が大きくわかれたし、ベトナム戦争をめぐってもついに中越戦争にいたるなど、まことに大問題が続発しました。私の中国関係の仕事はもっぱら「侵略の実態」取材にありましたから、そうした中国の内部自体を直接的に仕事の対象とすることはありませんでしたが、一ジャーナリストとしては関心を抱かざるをえません。そんな私にとって、和夫氏とお会いしたときに聞くお話は、一般マスコミに現れる情報とかなり異なるものがあり、大いに参考になりました。

中国についての日本での情報や評価は、親中国派と反中国派とで非常に違うばかりか、それぞれが逆の立場でかたよっている傾向があります。しかし郭和夫氏のお話は、一言でいえば一種「さめた目」というべきか、事実にたいする冷静な観察をもとにした情報だったのです。おかげで私の中国認識も、比較的冷静に終始することができたのではないかと思います。」

(郭和夫記念追悼誌編集委員会編『逝きし友の魂に』岩波ブックサービスセンター・一九九六年=私家版、引用は『貧困なる精神M集』 1998年6月5日第1刷より)

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ニクソン訪中予告発言見逃し問題

質問「中国取材旅行中の本多、古川両記者が郭沫若氏にインタビューした際、郭氏はどのような発言をしたのですか。」

答え:

郭沫若氏は1971年7月5日に行なわれたこのインタビューの席で、中国政府が米国大統領の訪問を受け入れる意思があることを示唆しています。その11日後の7月16日に、中米両国政府はニクソン訪中を公式に発表しました。

本多勝一『中国の旅』朝日文庫第22刷(1997年6月10日発行)「あとがき」より

「この取材の途中、北京の人民大会堂で郭沫若氏(全国人民代表会議副委員長・中国科学院長・中日友好協会名誉会長)とインタビューした際、郭氏は「ニクソンがどういう形で、いつ来るかは別にして、毛首席はこれを歓迎する」と語り、深刻な敵国関係にあった米中の接近が初めて公然と語られました。」
(300ページ)

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質問「本多、古川両記者は郭沫若氏が示唆したニクソン訪中の可能性を直ちに打電/報道しましたか。」

答え:

これまでの当会の調査では、そのようなくだりは発見されていません。

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質問「本多、古川両記者は、ニクソン訪中という大スクープの情報を見逃したことについて後日何かコメントを残していますか。」

答え:

古川記者は世紀の大スクープを逃したことを著書『ニイハオの国から』で次のように率直に認めています。

「私たちが会見したのは五日だった。そのわずか四日後の七月九日に、なんとキッシンジャー大統領補佐官が北京に飛んできて、ニクソン訪中を取り決めたのである。私はこの中米関係の話を聞きながら、近い将来ニクソンが北京を訪問するようなことがあるかも知れない。ひょっとすると二、三年以内に実現するかも知れないぞ──などと莫然とは考えていた。しかし、それが、なんのことはない、われわれが郭氏と会見していた時には、郭氏の頭の中にはすでに、キッシンジャー補佐官到着の日程と、ニクソン訪中受入れまで、納まっていたのである。郭氏は、そうしたことを踏まえて、さあらぬ態で世紀の大事件をほのめかしていたことになる。中米両国政府がニクソン訪中を公式に発表した七月十六日、私は長沙郊外の車の中で、このニュースを耳にした。これを聞いたとたん、私は、思わずうなった。急いで郭氏との会見メモを取出し、読み返してみると、はたせるかな、ぷんぷんたる匂いを放っているではないか。しかしその発言の中には「ニクソン訪中、近く実現か」という推測ニュースを流すキメ手になるような表現は、見当らない。情況証拠は明らかだが、物的討拠に欠ける──というやつだ。「郭さんも人が悪い。それならそうと、もう少し何とかアクセントでもつけてくれれば、歴史的事件の予測記事を報道することができたのに……」と、ひとり苦笑したものである。だが郭さんにいわせれば、それとなく匂わせてやったものを、なんとカンの悪いやつだろう、ということになるかもしれない。」

一方、本多記者については目下調査続行中です。

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本多氏の「善意」について

質問「政権の内実はどうあれ、本多氏は主観的には「抑圧される民衆の側に立つ」という正義感と善意に満ちて赤色クメールへの理解を説いたり文化大革命を賞賛したりしていたのですから、その純粋な動機をこそ高く評価すべきではありませんか。」

答え:

本多氏の執筆姿勢全般に対して価値評価をくだすことは当会の目的を越えることですので、その件についてこの場でお答えするのは差し控えます。ただ、本多氏が著書の中で次のように述べていることのみ、ご参考までにご紹介しておきます。

「いうまでもなく、ブレントさん自身は【米国政府の世界政策の】代弁者だと思っていないでしょうし、善意に満ちているのですが、一般的アメリカ人でいつも問題なのは、この「善意」というもの──ブレントさんはしばしば「理解」という言葉で置きかえる──なのです。一方的善意。独善。「意味する者」の論理による「意味される者」への押しつけ…。」

(『殺される側の論理』朝日文庫収録「かなしきアメリカ人宣教師」120ページ、原文では「一般的アメリカ人」に傍点)

「差別される側・殺される者の心を「一方的」に踏みにじる側に対して私は激しい怒りを抱きますが、無知な個人に対しては、当人は「善意」のつもりでいることが多いのですから、怒りをぶつけようがないのです。ぶつけるべきは、その背後に潜むものとしての社会構造、社会の成立構造なのでしょう。しかし、その無知な個人がアジアの一角に機関銃や爆弾を持って上陸してくるとき、もはや「される側」は、無知だからといって「寛容」になったり傍観してはおられなくなります。虐殺されながら「寛容」になれますか。当の殺される者に残された道は、戦いしかなくなるのです。」

(『殺される側の論理』朝日文庫収録「無知と「善意」が虐殺する」165ページ、原文では「潜むもの」に傍点)

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「改竄」について

質問「本多氏の「書き換え」を批判しているのは、右翼的なイデオロギーに立つ人達ですか。」

答え:

和多田進氏(『週刊金曜日』初代編集長、すずさわ書店前代表)および大矢みか氏(すずさわ書店現代表)の「書き換え」評:

「私たちはやはり本多さんの態度がフェアだとは思えません本多さんは「立場が変わるということはあり得ることだが、その場合は必ず自分の立場の変更について説明・公表すべきだ」という主旨の主張を常日頃からしてこられ、私どももその言説に共感して参りました。そうした経緯に照らして、今回のことにびっくりしたという次第です。」

『噂の真相』岡留安則編集長の「書き換え」評:

「読者に説明もなく、こうした変更を加えるのはアンフェアだとは考えないのか。」

このように、右翼的イデオロギーとは対極にある立場を貫いてきた、しかも本多氏をよく知り、かつては氏と密接な協力関係にもあった職業ジャーナリスト達が、氏の無断書き換え行為を「フェアではない」として公然と批判しています。また、本多氏の「書き換え」を最初に「改竄」と断じその真意を質すべく公開質問状を送ったA氏も、本多氏の著作内容そのものには共感できる点が多いと述べています。

これらのことから考えても、「書き換え」の是非はイデオロギーとは全く別次元の、職業言論人としての倫理の根幹に関わる問題であり、「右」対「左」といった文脈でこの問題を論じるのが的外れであることが明瞭です。

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質問「本多氏が自分の著作である「カンボジア革命の一側面」を書き換えたことを「改竄」とよぶのはおかしくありませんか。」

答え:

『広辞苑第三版』で「改竄」の項をひくと

「(「竄」は改めるの意)字句などを改めなおすこと。多く不当に改める場合に用いられるようになった。「小切手の─」」

とありますので、必ずしも“他人の著作を書き換えた場合にだけ「改竄」と呼ぶ”という定義上の制約はないようです。(たとえば医療過誤で訴えられた医師が自分の書いたカルテを裁判で有利なように密かに書き直すのは、「改竄」といえます。)

とはいえ、語感は人それぞれ微妙に異なるものですし、同一個人内ですら時につれて変化しうるものですから、「改竄」という言葉遣いに違和感を感じられる方がいらっしゃったとしてもそれを咎めることはできません。語感を異にする者同士が互いに「改竄だ。」「いや、改竄ではない。」などと言い争ってみたところで、はじまりません。要は、「改竄」といおうが「すり替え」「粉飾」「隠蔽」「もみ消し」あるいは「改稿」「改変」「書き換え」などとよぼうが、「【1975年】8月19日」の著述であると明記したルポの中で、実は後年になって得られた知見をしたじきに往年の自分の見解・発言を書き直し、それを1975年当時のものとして発表しているというのが問題の核心です。この本多氏の行為に対しては、反権力的姿勢に立つ複数の職業ジャーナリストの間からも批判の声があがっています。また、本多氏のカンボジア虐殺否認発言をめぐって1995年にニュ−スグル−プ上で行なわれた論議が書き換え(1990年)後の文章を同単行本初刷発行(1976年)当時のものと信じて行なわれたため今から振り返ると要領を得ないやりとりになってしまったことからも、本多氏の「書き換え」が執筆時期に関して読者に誤った印象を与えるものであることは明らかです。

なお、本多氏が自分の著作を増刷時に無断で書き換えていることを「改竄」とよぶのには違和感を感じる方も、本多氏の編書において原著者の了承を得ることなく収録論文に手が加えられていることについては、「改竄」とよぶことに御賛同いただけることと思います。

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『ペンの陰謀』松本・佐伯論文“改竄”事件

質問「本多氏が編集した本では、他人の著述にも手が加えられているのですか。」

答え:

はい、本多氏の編書『ペンの陰謀』(潮出版社)では、寄稿者の論文が当人の知らない間に手を加えられていました。

その論文とは、山本七平氏と佐伯真光氏がかわした「宣誓論争」を松本道弘氏が裁定した「勝負あった!佐伯/七平論争」(『人と日本』1977年1月号初出、のちに『ペンの陰謀』に収録)です。『ペンの陰謀』第1刷(1977年9月25日発行)では松本道弘氏の判定文書から末尾結論部の4段落が全面削除されています(その旨の断わり書きはなし)。

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質問「松本道弘氏は、本多勝一氏編集『ペンの陰謀』収録の自著論文の一部が削除されることを事前に知っていたのですか。」

答え:

松本道弘氏からのおたよりによると、次のとおり著者の松本氏御本人もこの削除については全く知らされていなかったそうです。

「私が山本七平氏に対する評価は全文が掲載されねば読者に伝わらないものです。なぜ、断りなく削除されたのかは、私自身が聞きたいです。…本多氏が『ペンの陰謀』内で、氏にとって有利なように引用されたために、私の審判が曲解されたくやしさは、今もしこりとなって残っています。」

松本氏の書簡には「有利なように引用された」とありますが、これは“本多氏が自分の著述の中で松本論文から関連部分を抜粋引用した”というのではありません。『ペンの陰謀』の寄稿者の一人として著者に名を連ねている松本氏本人が知らないうちに、寄稿した論文のうち氏が必須とみなす箇所が抜き取られていた、ということに御注目ください。つまり、読者に対する断わり書きがないという点と、原著者の承諾を得ていないという点で、二重に「無断」の削除がなされています。

なお、『ペンの陰謀』第1刷の松本道弘氏の判定文書「勝負あった!佐伯/七平論争」から削除された最後の4段落から、同書のもう一人の寄稿者(「山本七平式詭弁の方法」)である佐伯真光氏は一節を引用しています。そのため、同書収録の松本論文に存在しないくだりが佐伯論文に引用されているという奇妙な事態が生じ、両者の間でつじつまがあわなくなっています

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質問「本多氏は、著者の了解を得ることなく収録論文/記事の一部を削除する権限が編集者にあると考えているのでしょうか。」

答え:

本多氏は、『諸君!』に寄稿した原稿の一部が削除されるに先だって「編集部の担当記者は、もちろん私に了解を求めてきている」と、以下のとおり述べています。したがって、編集側が編集権を行使して記事/論文の一部を削除するにあたっては著者の事前了解を得ることが当然・不可欠の慣行である(逆にいえば、著者の了解なくして勝手に削除したら「問題と」なる)と本多氏自身が判断していることが読みとれます。編集者の削除方針に著者があくまで不服であれば、寄稿した記事/論文そのものをとりさげる権利が著者にあることになります。

「右の部分をカットするに際して、編集部の担当記者は、もちろん私に了解を求めてきている。私としては、この部分が発表されることはプラスだと考えていたが、それにこだわってケンカ腰になるほど、この場合は本質的問題でもなかったため、これは編集部の「編集権」による削除であることを「明言」した上で了承した。だから決してカット自体は問題としないし、編集権というものについてもさきのF章で説明した通りである。」

(本多勝一「『諸君!』の読者“諸君”への追伸」、『殺す側の論理』朝日文庫収録、235〜236ページ)

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質問「『ペンの陰謀』で削除された松本道弘氏の論文の末尾を復活するよう申し入れはなされたのですか。」

答え:

はい、佐伯真光氏からいただいたおたよりによれば、単行本初刷で松本論文「勝負あった!佐伯/七平論争」の末尾が削除されていることに気づいた佐伯氏は次のとおり、『人と日本』掲載の原論文を全文収録するよう編集部に申し入れられたそうです。

「私の記憶では、初版直後に削除部分を復活した方が良いのではないかと編集部へ電話で申し入れたことを覚えております。」

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質問「佐伯真光氏の要請にしたがい、『ペンの陰謀』で削除された松本道弘氏の論文末尾はその後の刷で全面復活されたのですか。」

答え:

当会では、佐伯氏の復活要請後10年以上が経過してから発行された『ペンの陰謀』第八刷(1989年6月20日)を確認してみましたが、佐伯氏の申し入れに沿った措置はとられていません。

それどころか、増刷時に今度は、松本氏の判定文書「勝負あった!佐伯/七平論争」の削除部分から佐伯論文にみえる引用部分だけを増刷時に復活し、逆に佐伯氏の文章「山本七平式詭弁の方法」からは

「本書には【松本道弘氏の論文の】全文が再録されている。」

というくだりが削除されています(『ペンの陰謀』第五刷(1979年11月15日発行)および第八刷(1989年6月20日)にて確認)。状況から推察して、松本論文を“改竄”したことを隠蔽するために、さらなる“改竄”を佐伯論文に加えたと考えるほかありません。

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質問「佐伯真光氏は、『ペンの陰謀』に寄稿した自著論文の中の一節が増刷時に抜き取られていたことを事前に知っていたのですか。」

答え:

佐伯真光氏からいただいたおたよりによれば次のとおり、佐伯氏は自著論文「山本七平式詭弁の方法」から一節が削除されたことについてもご存じなかったようです。

「私の手許には二刷以後がありませんのでその結果は確認しておりません。」

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質問「本多氏は、自分が松本・佐伯両氏の論文を“改竄”したと認めているのですか。」

答え:

『潮』1986年10月号に発表された「自分が改竄しておいて他人に改竄を叫ぶ男」という論文において、

「もし事実として私が改竄したのであれば、私はこれを甘受し、ジャーナリストとして生きることをやめなければならない。」

私はこれまでの生涯で「改竄」というようなことは一度もしたことがない。間違いなら誰しもあるだろう。しかし改竄はない。」

と宣言しておられます。この文章は、『ペンの陰謀』で松本道弘氏および佐伯真光氏の論文が“改竄”された後のものです。

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質問「削除が故意ではなく、編集過程における単純ミスであったということは考えられませんか。」

答え:

グラフィック=ユーザー=インターフェース(GUI)によるデスクトップ出版が普及した今日では、電子テキストによる入稿が増えたことや素人が編集過程に手を出しやすくなったこともあり、モニター上でカット=アンド=ペーストによる編集作業を重ねているうちにうっかり文章の一部を落としてしまう危険がむしろ増えたかもしれません。しかし、大手出版社も活版印刷にたよっていた1970年代なかばには、そういう可能性は今よりも薄かったといえるでしょう。

しかも、メジャーな出版社では単行本を発行するに先立っては複数名の編集担当者が数次にわたる厳重な校正作業を重ねるのが慣行であり、その過程を経てなお、誤字脱字や段落なかばの短い一節の脱落ならいざ知らず、論文末尾という最も目立ちやすい箇所にある、4段落にわたる長文の脱落が見逃されたというのは考えにくいことです。

ともあれ、もしこの脱落が編集側の過失によるものであれば、これに気付いた佐伯真光氏の指摘を受けて問題の箇所を直ちに復活していたはずです。ところが実際には、その後20年以上を経た今日でも佐伯氏の申し入れは果たされておらず、むしろ初刷での削除を糊塗するかのような改変が、増刷時に佐伯論文にまで加えられています。これらからみて、この削除は松本道弘氏が山本七平氏に対して与えた肯定的評価を読者の眼から覆い隠す意図で当初から計画的に実行されたと考えるほかありません。

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質問「本多氏が全く知らない間に潮出版社の担当者が独断で松本道弘氏および佐伯真光氏の論文の改変を行なっていたということは考えられますか。」

答え:

この件に関してはまだ本多氏の見解をうかがったことはありません。しかしながら、『ペンの陰謀』の編者であった本多氏がこの削除について全く関知しておらず同書発行後もそのことに気がつかなかったというのは、考えにくいことです。特に、『ペンの陰謀』初刷発行時の“改竄”の結果生じた松本論文と佐伯論文の食い違いを埋めるために同書増刷時になされた、第二回目の“改竄”まで本多氏が全く知らなかったというのは、極めて想像しにくいことです。

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質問「『ペンの陰謀』における松本論文および佐伯論文の無断改変の事情を、潮出版社にといあわせましたか。」

答え:

はい、1999年に問い合わせの手紙を出しました。潮出版社からいただいたご返事によると、

「残念ながら担当編集者が十数年前に退職し、当時のことを知る人間もおらず、現在のところ不明です。」

ということでした。

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質問「本多研が『ペンの陰謀』での改竄を問題視するのは、山本七平氏を支援するためなのですか。」

答え:

本多勝一研究会は思想信条に関わらず所定の手続きをふめば誰でも入会できますので、山本七平氏の思想に対しても賛否両方の意見が会の中にあります。因みにこれまでの研究会メールリストへの投稿をみる限り、山本氏の識見に対する批判的な意見の方が氏の思想を肯定的に評価するものよりもかなり多く、それはおそらくは会員多数の判断を反映しているものであろうと思われます。

とはいえ、“オレは山本七平が嫌いだ⇒だから山本七平に有利な文言は残らず抹殺しろ”などという勝手気儘がまかりとおるのでは、収録資料の信頼性もへちまもなくなってしまいます。もし山本氏を肯定的に評価した松本道弘氏の論評に異論があるならばその点に関して松本氏を真正面から批判すればよいのであり、松本、佐伯両氏の著作権を侵害するような姑息な改竄が許されてよいはずがありません。

山本七平批判といえば、佐伯真光氏こそは異例の「レフェリーつき論争」で山本氏を論破した、いわば山本氏の天敵ともいうべき論客です。現に佐伯氏は『ペンの陰謀』にも、「山本七平式詭弁の方法」と題する辛辣な批判論文を寄稿しておられます。その佐伯氏は、『ペンの陰謀』単行本初刷で松本論文「勝負あった!佐伯/七平論争」の結末が削除されていることに気づくや、『人と日本』掲載の原論文を全文収録するよう次のとおり編集部に申し入れられたそうです。

「私の記憶では、初版直後に削除部分を復活した方が良いのではないかと編集部へ電話で申し入れたことを覚えております。」

真理を探究する学究たる佐伯氏の真摯で公正な姿勢に深い敬意を表したいと思います。

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本多勝一研究会(本多研)とは

質問「本多研はどうしてはじまったのですか。」

答え:

本多氏の記事の書き換えがネット上の投稿ボードでとりあげられ、様々な書き換えの実例が報告されました。しかしこれらをすべて一個人で追跡することには無理があることから、電子メールリストという形で研究グループを結成して情報交換をすることを西村有史医師が提案したのがきっかけです。(このメールリストに加入しておられる方達が、すなわち本多勝一研究会の会員です。)

関連資料:

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質問「本多研には細かい規約などはありますか。」

答え:

会の発足そのものが自然発生的であったので、詳細な規約なども今のところありません。ただ、会員相互の申し合わせ事項があるのみです。

関連資料:

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質問「本多研には執行部があるのですか。」

答え:

本多研は執行機関ではなく情報交換のためのサークルですから、いわゆる執行部というものはありません。ただし、各種のインターネットサービスを利用するためには投稿掲示板やメールリストを管理したりサイトを更新したりする人間が必要ですから、それぞれの管理責任者を会員が持ち回りで引き受けています。

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質問「本多研はどうやって活動資金を得ているのですか。」

答え:

それでは、ここに当会の経理内容を公開します。

収入

会費(入会無料)

0円

 広告収入(バナー広告の収入は全額プロバイダーへ)

0円
収入総計
0円
支出*
メールリスト運営費(無料ML)
0円
サイトサーバー運営費(無料サイト)
0円
転送URL運営費(無料転送サービス)
0円
投稿掲示板運営費(無料掲示板)
0円

人件費(会員のボランティア活動)

0円
支出総計
0円
収支総計
0円

(*会員個人がインターネットに接続するために使っている経費やコピー代等は、会では把握していません。)

というわけで、当会は結成以来、鉄壁の健全財政を誇っています。

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質問「本多研は左翼ですか、右翼ですか。」

答え:

本多研には進歩派・現役本多ファンから保守派まで幅の広い方々が参加しておられます。通信傍受法・ガイドライン法などをめぐっても絶対反対論から容認論に至るまでほとんど180度異なる立場の方達が会に所属しています。現に、会員同士がさまざまな問題をめぐり、外部のボード等で激しい論戦を交すことも珍しくありません。「論敵」同士が同じ会に所属しているという意味では、「呉越同舟」状態とも言えます。会員間の立場があまりにも大きく異なるので、イデオロギー的な共通項を見い出すことは困難です。しいていえば、「ジャーナリストの職業倫理に関心のある人間」の集まり、といえましょうか。

もっとも、会の性格上、何らかの形で本多勝一氏の著作に影響を受けた経験のある会員が多いのは事実です。非常に保守的な考えをお持ちの方の中には、そういう人間をことごとく「左翼」(あるいは「サヨク」)とみなす方がおられるかもしれませんが、そういう決め付けを会として歓迎しているわけではありません。

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質問「本多研は政治団体ですか。」

答え:

むしろメディアを対象とする消費者グループの一種と考えていただいた方が実態に近いと思います。当会の会員の多くは医療・自然科学・人文科学・ビジネス・翻訳通訳・教育などを生業/専門とする社会人や学生で、職業的ジャーナリストやマスコミ研究者は少数です。ジャーナリズムや政治に関してはアマチュアの集まりといっていいでしょう。雑誌や新聞という情報媒体の「消費者」が、ふだん身銭を切って買っている「商品」である報道・評論にそれだけの価値があるのかどうかと、その送り手であるジャーナリストの言動の信憑性・整合性を検証する目的で集まってできたのが本多研です。

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質問「本多研に入会する人達は、どうやって本多研のことを知ったのでしょうか。」

答え:

会をはじめるに際して、「本多勝一研究会へのおさそい」のメールを諸方にさしあげ、いくつかの投稿掲示板上でも告知しました。それに答えて入会してくださったのが、結成当時の会員の方々です。

その後は、当会のホームページを訪れて興味を持ち入会なさる方が多いようです。

なお、結成時にお送りした「おさそい」メールの宛先欄には、送り先の方々の氏名とメールアドレスが列記してありました。その方々のほとんどはホームページあるいは投稿掲示板/ニュースグループの投稿記事などで氏名・アドレスを公開しておられ、サーチエンジンでも検索可能なのですが、それにしてもそのような形でメールの宛先欄に氏名を書かれることを好まない方がおられないとは断言できず、いささか軽率だったと反省しております。

参考資料

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質問「入会資格審査はありますか。」

答え:

ありません。ホームページ上で、あるいは電子メールによってメールリストへの加入手続きを済ませれば誰でも会員になれます。実際問題として、加入手続きは商業プロバイダーが提供する無料メールリストの電子自動登録機能に依存しておりますので、加入なさる方が外部でどのような発言をしておられるか、どのような思想信条/歴史認識をお持ちか、などを当会として事前に検閲する術もありません。

また、入会にあたって、住所などの個人情報を開示する必要もありません。

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質問「本多研はAMLと提携しているのですか。」

提携関係はありません。

本多研会員には進歩派のメールリストとして名高いAML (Alternative Mailing List)(小倉利丸氏主宰)にも同時に加入しておられる方が多数おられますので一部に誤解を招いているようですが、別にAMLのメンバーでなければ本多研に加入できないというわけではありません。(保守派シンパの入会をことさらに排除しようという意図はありません。)

関連資料:

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質問「本多氏の現役ファンも本多研に入会できますか。」

答え:

もちろんです。当会には本多氏の元ファンはもちろん、現役ファンの方も数多く参加しておられます。“本多氏の欠点や失敗も知った上で、是は是、非は非として理性的に応援したい”というお気持を入会にあたって述べられた方もおられます。

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本多勝一研究会(本多研)の活動と運営

質問「どうして、大きく立場の異なる人達が同じ研究会で共同研究を続けることができるのですか。」

答え:

本多研では、会員相互の立場の違いは、会の目的遂行に支障をきたさないかぎり会の内部では問題にしないという申し合わせがあります。また、会の目的も本多氏に対する共通の評価を会として出すというのではなく、あくまで本多氏の思想・発言の軌跡を実証的にたどり情報を交換するということに限定しています。

例えば、本多氏が1975年時点で赤色クメールの大量殺戮を否認していたことを知った上で本多氏を全体として支持する、という方がおられるならそれは御本人の価値判断で、当会としてとやかく申し上げることはありません。しかし、本多氏が1990年になってから

「すべては鎖国状態の中にあっては事実そのものが全くわからず、噂や一方的宣伝ばかりでは軽々に論じられない。」

と書き換えた文章を1975年の文章そのままであると誤って信じ、それにもとづいて「さすが大記者、当時は慎重にも虐殺の真偽の判断を保留していたのだな」と考える方がおられるなら、最低限その種の事実関係の誤認だけは正さねばならないと考えます。

その「思想・発言の軌跡を実証的にたどる」ための主たる方法論として当会が採用しているのが、「文献考証(テキスト=クリティーク)」です。

関連資料:

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質問「本多研の研究方法論である「文献考証(テキスト=クリティーク)」とはどういうやり方をさすのですか。」

答え:

簡単にいうと、同一の著述の新旧の版/刷を比較しその文言の異同を調べるということです。主として活版印刷技術が発明される以前、手書きにたよって書物を複製していたために筆写のたびに写し間違いが生じる可能性があった時代の古文書の考証などによく用いられる技法です。一見単純な方法のようでありながら、本多研でもこの作業を通じて様々な発見がなされています。

なお、テキスト=クリティークには「資料(史料)批判」という訳語がしばしばあてられますが、日本語で単に「批判」というと全く違う意味合いを含む場合がありますので、誤解を招かぬようあえて「文献考証」という訳語を採用しました。

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質問「外部の組織や団体などの勢力が、本多研を抱き込んで政治的運動に利用しようという意図で接近してきたことはありますか。」

答え:

組織的な背景があってのことかどうかは判然としませんが、以前、“政治面からの本多勝一批判”への協力を求める電子メール(1999年7月5日受信)を当会宛に送ってこられた方がおられました。(この方は“社会に害のある”言論は法律で制限すべきだと示唆するなど、なかなか勇ましい発言をネット上で繰り広げておられる方です。)

このメールは

「確かに本多氏の過去に遡っての自己文改竄というのは文章家としてのモラルを問われかねない大問題です。」

「このようなことをして、皆さんはそこから何を得たいとされているのでしょうか?」

云々という書き出しに続き、

「私の場合、本多批判はそのサヨク教条主義批判という観点でのものです。」

「また本多のサヨク主義が、一部の市民運動などに悪影響を与えている点も見逃せません。
組織犯罪を取りしまる上でごくごく当然の捜査手段にすぎない「通信傍受」を「盗聴」と断定してヒステリックに反対したり、有事における軍隊の行動を法の支配のもと緻密化する(むしろ必要な)法律であるガイドライン関連法を「戦争法」などと決めつけ、いたずらに社会を混乱に落とし入れようとする。」

として通信傍受法やガイドライン法を支持する立場から本多氏を攻撃した後、

「本多批判はこうした政治面での主張もひとつひとつ批判の対象に取り上げて行くべきではないでしょうか?」

「一定の価値観を共通認識とし、「文献考証」だけではない総合的な本多批判の実行ということでしたら、私もぜひこのMLに参加したいと思うのですが、覗いてみないことにはどのぐらいの質量のメールが飛び交っているのかも分かりませんね。ということで、どうなんでしょうか?」

として、事実上“「サヨク教条主義批判」という観点から【つまり相対的にはより「右」の方向から】本多勝一の「政治面での主張」を対象に据えて批判をすることに協力せよ”という要求を当会につきつけるものとなっています。

この御提案は会員全員に紹介し、内部で検討した上でご返事を出しました。もちろん、「サヨク批判」への協力要求は、はっきりお断りしました。(この方が入会なさること自体を拒絶したわけではありませんが、結局入会なさいませんでした。)特定のイデオロギーや政治論の立場から言論人を批判/攻撃する動きといえば、1950年代に米国で繰り広げられたマッカーシズム(いわゆる「赤狩り」)や1960〜70年代の中国文化大革命が真っ先に連想されますが、その種の政治的運動に会として関与することなど、思いもよりません。

因みにこの方は、当会が“サヨク批判運動の一貫としての本多勝一攻撃”に協力しないとみるや、当初の「総合的な本多批判の実行ということでしたら、私もぜひこのMLに参加したい」という申し入れから一転して、その10日後の1999年7月15日付けで今度は当会を批判する記事を御自分のサイトに掲載なさいました。御批判の主旨には同意いたしかねますので、同意できない理由を当会のホームページに掲載いたしております。

関連資料:

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質問「どうしてこんなに多くの情報が本多研に集まってくるのですか。」

答え:

熱心な会員が多くの情報を送ってくださるから、というのが簡単な答えですが、それら会員個人が入手できる情報は多くの場合断片に過ぎません。インターネットを通じて多くの会員がそれらの情報を交換することによって、一人では見えなかった全貌が見えてくるわけです。

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質問「会員になると、本多研ホームページの投稿掲示板に投稿できなくなるのですか。」

答え:

そんなことはありません。掲示板への投稿は会員・非会員を問わず自由です。投稿掲示板は会と外部の対話を促進する場として重視しています。

関連資料

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質問「本多研の姿勢はどこで表明されるのですか。」

答え:

基本的には、本多勝一研究会ホームページの収録記事が全てです。ただし、以前本多研へのご案内文を掲載してくださった投稿掲示板やメールリストには、その後お礼を兼ねて会の活動状況を簡単にご報告申し上げたりしたことはあります。

もちろん、会あてにいただいたメール等の連絡に対しては、できるだけご返事をさしあげるようにしています。

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質問「本多研サイトのリンク集には長野五輪・平成天皇批判漫画掲載拒否問題などの記事へのリンクも含まれていますが、本多研はこれらの問題で本多氏を批判しているのですか。」

答え:

リンク集を作成するにあたっては賛否にかかわらず本多氏や『週刊金曜日』に関連のあるサイトを網羅的に収集するように努めましたので、必ずしもリンク先の記事内容を全て支持しているというわけではありません。相反する主張を載せている記事の双方にリンクしている場合もあります。長野五輪・平成天皇批判漫画掲載拒否問題などは今のところ当会の「文献考証」という方法論になじみにくいので、アマチュアには突っ込んだ研究が難しいということもあります。

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質問「本多勝一研究会ホームページの記事の中に文責者名を記したものがあるのはどうしてですか。」

答え:

本多氏の発言の軌跡を実証的にたどるという当会の目的に照らして、氏の主要な著作や関連文献を紹介することは会の活動の一部に含まれます。その際、読者の便宜を考慮して時代背景の解説などを加える場合もあります。とはいえ、書籍の紹介や要約・論考を行なおうとすれば、いかに公正・客観的であろうと努めても筆者の価値観が何らかの形で反映されるのは避けられません。ましてや著作の時代的背景などに解説を加えようとすればなおさらです。会員全員の歴史認識を統一することは不可能ですし、そんな「思想統制」を会として試みるつもりもありません。そこで、文章の内容や表現に対する最終責任をはっきりさせるために文責者名を記しているわけです。──なお、記事の文責者は、当該文献を発掘し研究会に報告した人物では必ずしもありません。

(今後は、同一の著作や問題をめぐって複数の会員がそれぞれ異なる視点の論考を会のサイト上に発表することもあっていいと考えています。こういう多様な視点からの本多勝一論を惹起するためにも、それぞれの論考の文責者名を明記することがプラスになりうると考えています。)

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質問「本多研の会員が外部の投稿掲示板やメールリスト上の議論で発言しているのは、会の立場を代表しているのですか。」

答え:

必ずしもそうではありません。というより、そうでない場合がほとんどです、と申し上げた方が正確です。本多氏に関して外部の投稿掲示板で論議がはじまった場合、会員の方がそれに参加なさるのは個人の自由です。(そこでの議論の内容が会のメールリストで紹介される場合はありますが。)その場合、ご自分の興味関心の方向を表わす一つの情報として「本多研会員・何野誰兵衛」と自己紹介なさる場合もあるようですが(それも個人の御自由です)、それはその方が会を代表して発言しておられるということを含意しません。当会は、会員個人の外部での発言内容に一々容喙する立場にもありません。

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質問「本多研のメールリストでは、どのようなやりとりがなされていますか。」

答え:

「本多氏が〜年の著作でこんな発言をしていた」という種類の情報提供や問い合わせが、これまでで一番多い投稿です。それ以外に、発言の解釈をめぐる意見交換や発言当時の社会背景の情報も投稿されます。会の外部から会に対して申し入れや連絡があった時も、会員に紹介して意見を求めます。

ときどき脱線してアニメや出身高校の話で盛り上がってしまったりすることもありますが、こういうのはほどほどにせねばならないと反省しています。

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質問「どうして本多研メールリストの通信文を全面公開しないのですか。」

答え:

最大の理由は、本多氏の名誉をおもんばかってのことです。会の目的からいって、「ここは書き換えくさいから古い刷を持っている人は調べてほしい」というようなやりとりをせざるをえませんが、こういう未確認の推測や仮説をウエブ上で公開してしまうとその部分だけが一人歩きしてしまい、結果的には事実に反する風聞によって本多氏の名誉を不当に傷つける可能性があることを懸念しました。そこで、メールリストでの論議を通じて事実と確認された情報だけを会のサイトなどで発表する、という二段構えをとっているわけです。(もちろん、確認済みの事実であれば公開することに問題はありません。)

とはいえ、会の内部でも“メールリストでのやりとりはウエブ上に記録するなどして公開した方がよい”という意見もあり、現在も論議が続いています。

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質問「論壇には他にも批判考究すべき多くの問題があるのに、どうして本多勝一氏だけを集中的にとりあげるのですか。」

答え:

単にジャーナリズムや世情を論ずるだけなら個人でもそういう意見をボード上やメールリストに投稿し、あるいは個人で主宰しているサイト上に意見を発表することも可能ですから、わざわざ恒常的な研究グループを結成する必要は必ずしもありません。現に、そうやって個人の資格で広範な批評活動を展開しておられる方が当会の会員の中にも少なからずおられます。

本多氏の場合、著作を系統的にしかもしばしば断わりなく書き換えているため、その言説の内容の是非を論じる以前に、論考の対象となるべきテキストを時間軸に沿って確定するという作業が余分に必要になります。このような作業は多数の人間がそれぞれ資料を持ちよることにより効率的に進めることができます。そのために本多勝一研究会が結成されたわけです。(他の多くの日本のジャーナリストは本多氏ほど数多くの、しかも様々な版の著作を残していませんから、文献考証という作業をする必要も余地もない場合がほとんどです。)

しかも、本多氏は自分の著作の文言を読者に無断で書き換えているのみではありません。本多氏が編集責任を負う書籍に収録された論文が、原著者に何のことわりもないまま改変されており、その後20年以上を経過した今日に至るも復元要求に応じていないという事実もあります。このような行為は道義的次元にとどまらず、法的問題をも惹起しかねません。さらに、このような著作権侵害行為が蔓延すれば、言論出版制度の根底をなす著者と編集者の間の信頼関係そのものが回復不可能なまでに破壊されてしまいます。したがって、この改変は出版界全体に関わる重大問題であるということができます。

また、何といっても本多氏はかつて「日本で一番有名な新聞記者」と言われた戦後日本の伝説的ジャーナリストで、今も一時期ほどではないにせよ一定の社会的影響力を残していますから、ジャーナリストの事例研究の最初の対象としては格好の方です。こういう実績にもとづいて「いの一番」に白羽の矢が当たったことはもちろん、本多氏にとって名誉になるはずです。

「影響」という点でいえば、日本におけるかつてのカンボジア大虐殺否認論者の中でその後誤りを明示的に認めた言論人はほとんど皆無ですが、そういう頬被りの風潮の先例を作った先駆者としても、本多氏をさしおいて他の方を先に俎上にのせるわけにはいきません。しかも本多氏は、他の言論人(たとえば1980年代におけるカンボジア虐殺否認論者)の責任と論理・倫理については一貫して厳しい批判を続けてこられた方で、近年ではその「論理性」と「倫理性」の基準に照らして野球チームのファンや百貨店の買い物客にまで批判の矛先を向けておられます(「西武ライオンズが勝つとなぜ不快感を覚えるか」、『しゃがむ姿勢はカッコ悪いか』収録)。したがって、同じ基準を御本人にあてはめたらどうなるのか、という検証作業も必要であるように感じます。

それはこの問題が単に本多氏個人の姿勢にとどまらず、日本のジャーナリズム全体に通ずる問題を数多く含んでいるからでもあります。硬派のメディア批評サイト「メディアの辺境地帯」の主宰者・大住良太氏は、本多研あてのメールで次のように指摘しておられます(文中のテキストリンクは引用者による)。

「「本多勝一研究会」のページを拝見させていただきましたが、これは単に本多氏という特定ジャーナリストの研究というだけではなく、言論の自由や、権力に対峙する言論のあり方、さらに出版されたテキストの著者自身による改変のあり方など、様々な重要な問題を提起している、また自由闊達な議論の場を提供している貴重なサイトと思います。

(中略)

ところで、掲示板【旧「本多研に異議あり!」】に投稿されている山崎さんという方の「全員が幸福になるべく社会が運営されていたとしませんか」という仮説には、私も非常に危険なものを感じます。

そのようなユートピア主義的発想は、「幸福」の実現を確信する価値を「全員」に強要する企てを不可避的に生むのではないでしょうか。佐々木さんのカンボジアなどを例にした批判に、私も同感です。

長くなってしまいましたが、「本多勝一研究会」サイトのますますのご発展を願っています。また私のページの「リンク集」にも貴サイトを加えさせていただきましたのでご確認ください。」

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質問「どうしてこの問答集では「クメール=ルージュ」という語を用いずに「赤色クメール」というのですか。」

答え:

いわゆるポル=ポト派を語る時、日本のメディアでは「クメール=ルージュ」という呼称がしばしば用いられますが、「ルージュ」はフランス語の"rouge"(「赤」「紅」)に発する外来語であり、「名詞(クメール)+形容詞(ルージュ)」という語順もフランス語そのままです。現地カンボジアで(旧)ポル=ポト派を指す時にこのフランス語表現が広く用いられるということはないようですから、日本人である私達がカンボジアについて語る時、特に固有名詞として、フランス語の音訳を用いなければならないという積極的な理由がみあたりません。したがって、不必要な外来語使用を控えようという本多勝一氏の御提案に従い、ここでは「赤色クメール」という呼称を用いました。(「赤色クメール」という訳語は井川一久氏の著述に倣いました。)

ただし、本多研サイトの収録記事が執筆された時期は相当期間にわたっているうえ、複数の人間が執筆を分担していますので、必ずしも当サイトの全ての記事がこの用法にしたがっているわけではありません。

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最終更新日2000/10/12 (Y/M/D).