本多勝一研究会重要文献解題

井川一久

「「地獄の平和」知らぬ日本人」

『朝日新聞』1985年6月24日夕刊5ページ「深海流」

文責:佐佐木嘉則


解説

井川一久氏が日本に住むカンボジア難民が映画『キリング・フィールド』をどう見たか報告する。発表は、本多勝一記者の「無知な人々だけが感激する『キリングフィールド』」の少し前。

ここに注目!

この記事が出た直後に、本多勝一氏は『潮』1985年8月号に寄稿した「無知な人々だけが感激する『キリングフィールド』」で同作品をさんざんにこきおろしています。本多氏の文中には、井川氏の「深海流」記事に言及した箇所はありません。にも関わらず、両者を対照していただけるとわかる通り、「地獄の平和」という表現、国内紙の映画評への異論、国際ペン大会批判など、本多氏の記事は「これが単なる偶然だろうか?」といぶかしく思われるほどに井川氏の記事と似通っており、それが本多氏一流の罵詈雑言で味付けされています。反面、カンボジア難民が『キリング・フィールド』を好意的にとらえていると井川氏が報じるくだりは、本多氏の記事にはみあたりません。

一方、井川氏は『朝日ジャーナル』1985年7月19日号に寄稿した「米映画『キリング・フィールド』これでも語り尽くせぬポル・ポト派に殺された者の無念」で同映画を高く評価しています。その井川氏と本多氏は『キリング・フィールド』の評価をめぐり「シンポジウム・映画『キリング・フィールド』の真実」(『朝日ジャーナル』1985年8月16日/23日号)で直接意見をかわしています。

読みどころ

赤字による強調は引用者による)

在日カンボジア人は、一九七五年のカンボジア戦争終結(ロン・ノル政権倒壊、ポル・ポト政権成立)以降に日本に住みついた「定住難民」七百余人に、それ以前からの在留者を加えて約八百人。このうちポル・ポト派支持者(元留学生を中心に十数人)などを除く約六百人は、戦争末期の混乱とポル・ポト政権下の大量虐殺を描いた米ワーナー映画「ザ・キリング・フィールド」をすでに見たか、もしくは見たがっている、とリーダー格の人々はいう。

見た難民三十数人に会った。「私たちの苦労の二、三割しか描けていない」という彼らの感想には、一人の例外もなかった。これは、この映画に出てアカデミー助演男優賞を得たカンボジア人医師ハイン・ニョルの不満でもあるのだが、だからといって彼らが映画の価値を否定しているわけではない

「本当のことがやっと映画になった」という彼らの言葉にも、例外はゼロなのである

例外があろうはずはない。在日カンボジア人難民は、一人残らず「全土刑務所化」といわれたポル・ポト体制の体験者だからだ。ポ政権が試みたのは、いわば全国民の無名化と撹拌(かくはん)である。プノンペン攻略(七五年四月一七日)に続く国民大多数の強制移住と戸籍廃止の結果、人々は血縁地縁のつながりを失って全国約六千のサハコー(人民公社)に閉じ込められた。…欧米でポ政権の代名詞のようになった自国民の大虐殺は、この超管理システムの産物である。

(中略)

ハイン・ニョルとエキストラ出演のカンボジア人たちが、画面で不十分にせよ物語っているのは、彼らの間ではもちろんのこと、欧米でも常識化したこのポ政権下の恐怖だ。在日難民たちが自身の記憶に照らして、一面不満、一面好感の反応を示すのは当然だろう。

難民の多くは、日本各紙の映画評に納得しかねる表情だった。それらはポル・ポト時代の「地獄の平和」による大量死を、戦乱の犠牲というふうに取り違えていたのである。

こういう誤解は、要するに無知によるものだろう。七十七年ごろに早くも現職大統領(当時はカーター氏)や有力上院議員がポ政権の人権無視を公然と糾弾していた米国などとは違って、日本ではポ政権のパトロンだった中国文革派への遠慮のゆえか、カンボジア国民の空前の災厄がほとんど伝えられず、日本政府は無人のプノンペンへ大使を派遣するほどにポ政権との友好に熱心だった。…そして先ごろ東京で開かれた国際ペン大会は、人権をテーマにしながら、カンボジアの大虐殺にはついに一言も触れなかった。


基礎研究室へ戻る
ホームページへ戻る


最終更新日2000/05/05 (Y/M/D).