本多勝一研究会重要文献解題

井川一久

「米映画『キリング・フィールド』

これでも語り尽くせぬポル・ポト派に殺された者の無念」

『朝日ジャーナル』1985年7月19日号

文責:佐佐木嘉則


解説

朝日新聞きってのカンボジア専門家・井川一久氏が蘊蓄を傾けて、映画『キリング・フィールド』を論じる。発表は、本多勝一記者の「無知な人々だけが感激する『キリングフィールド』」とほぼ同じ時期。

ここに注目!

井川氏の証言を読めば、『キリング・フィールド』は本多記者のいう「無知な人々だけしか感激できない愚作」どころか、虐殺の生き残り達がこぞって感激し推奨していた作品であることが明白です、むろんどんな映画にも欠点や限界はあるにせよ。(米国の厳格なレーティング制度のもとでは、広い年齢層にわたり多くの人達に見てもらえる映画をつくるためには残虐シーンを抑制しなければならなかったことは理解できます。因みに『キリング・フィールド』のレーティングは"M 15+"つまり15歳以上が見られる映画。これが一段上の"R"になると準成人映画扱いとなって高校生など18歳未満が見るのは難しくなります。)「彼ら【虐殺の生き残りの難民たち】は私【井川氏】に、あれは本当にあったことです、ディト・ブランは私たちの分身です、と口々に語った。」というくだりがなによりも雄弁にそのことを伝えています。

井川氏がシャンバーグに寄せる共感も、同じ体験を共有した者同士ならではでしょう。(本多氏は映画の中のシャンバーグがプランだけの救出に必死だったと攻撃していますが、井川氏の場合も含め、まず最初は自分の身近な人間の安否を気づかうのが自然です。)それにひきかえ、自分がかつてクメール=ルージュを賞賛し虐殺を根拠もなく否定していたことを棚にあげて他人ばかりを罵倒する本多氏の文章こそまさに政治的アジ演説の類ではないでしょうか。井川氏の真摯な文章を、本多氏も少しは見習ってほしいものです。また、井川氏はポル=ポト派台頭の後ろだてとして中国文革派を強調していますが、かつて文革を礼賛していた本多氏はそのことに責任を感じないのでしょうか。

読みどころ

赤字による強調は引用者による)

ニューヨーク・タイムズの前プノンペン特派員シドニー・シャンバーグが、赤色クメール支配下のカンボジアに残してきた現地人助手ディト・プランの運命を思い悩む。クメール人難民ハイン・ゴルの演ずるそのディト・ブランは、一つ一つが「小型アウシュビッツ」と呼ばれたポル・ポト政権下のサハコー(人民公社)で死と紙一重の日々を送り、白骨の原に踏み迷う。──The Killing Field のこれらの場面を、私は東京国際映画祭会場(NHKホール)の片隅で息をつめて眺めた。

映画の物語る一切は私の知識の範囲を出ない。だから格別の驚きはなかったが、胸深くに重い痛みがあった。シャンバーグの体験は私のそれと同質だし、また私たち日本人ジャーナリストが雇用した現地人の多くは、ディト・プランとは違ってポ政権下を生きのぴることができなかったからだ。

「私は「解放勢力」のロケット弾や一〇五ミリ砲弾がしばしば都心を脅かすようになった七二年の中ごろ、隣国のサイゴン支局へ移った。従業員すべてが私を見送ってくれたが、そのとき胸底をよぎった一抹の不安感が、彼らの泣き笑いの表情にオーバーラップして、今もしばしば夜の夢に私を苦しめる。妙に現実感を伴っていたその不安の根源を知るべく、私がもっと努力していたなら、従業員の一人や二人は一ディト・プランの妻子のように──赤色クメールの魔手から救うことができたのではないか、と。

当時、私は、戦争当事者の正体をよく知っているという過去の自信から、カンボジア戦争の行く末を楽観しすぎていたらしい。戦争の一方の主役が米国だとすれば、他方の主役は、国民の一%に支持されているかどうかも怪しい赤色クメール(ポル・ポト派のカンプチア共産党)ではなくて、その赤色クメールを含みながらも穏和なシアヌーク支持派を主力とするカンプチア民族統一戦線(FUNK)であり、これを軍事面で支えているのが人道的体質で知られるベトナム革命勢力だ、と私は信じていた。だから「解放勢力」勝利のあかつきに、ロン・ノル政権支配地域の住民が、その「解放勢力」に虐待されようなどとは、まず考えられなかったのである。

しかし私は、「解放勢力」へのこの信頼感を裏切るような現象にも、当時すでに接していた。ベトナム革命勢力(北の人民軍と南の解放戦線)につかまった西側ジャーナリストが一人残らず無事に釈放されていたのに、FUNKに捕らえられた人々は一人たりとも生きては帰れなかったこととか、FUNKの「解放区」が極度に閉鎖的で、外部からの人の出入りは皆無に近く、実質的な指導者と指導集団の名前すらわからないような秘密主義が貫かれていたこととか。現地人従業員との別れのときに私が感じた不安は、そういう不気味な事実の産物だったようである。」

「不安は的中した。七五年、ベトナム革命勢力によるサイゴン攻略(南部「解放」)の前後にベトナム南部を訪れていた私は、息もたえだえの様子で国境をこえてくるプノンペン市民から、首都を制圧したFUNK軍の実体が黒服の赤色クメールだったこと、ロン・ノル政権支配地域にいた人々が重病人まで遠隔地への即時移動を強いられ、あらゆる都市が無人の地と化したこと、前政権の役人や知識人がいとも簡単に殺されていることなどを聞いた。何やら人間の想像しうる限りで最も苛烈な事態が、鎖国状態のカンボジアの霧の中で進行していた。

その後、私はシャンバーグ同様、朝日新間現地従業員の安否を知ろうとさまざまに努力した。が、私が得たのは、全土刑務所化ともいうべき異様なサハコー体制のもとで、全国民の強制的同質化と「旧文化に毒された人々」の無差別の抹殺が行われているという情報だけであった。そして七九年五月、ポ政権が対ベトナム戦争に敗れてプノン・ペンを放棄した直後にカンボジアを訪れた私は、どのサハコーの跡にも必ず一カ所はある大量虐殺の跡(集団埋葬地)を見、近親者の非業の死をいたむ生存者の嘆きの声を聞いたのだった。のちに何度もカンボジア各地を旅した私のランダム調査では、虐殺の犠牲者はポ政権発足時の総人口(国連推計では約八○○万)の四〇%を上回っていた。現プノンペン政権の最新の全国調査によると、直接的殺害の犠牲者は約二七四万六千人、飢餓、過労、拷問、医療欠如などの複合要因による間接的殺害のそれは約五六万九千人、計約三三一万五千人である。ハイン・ゴルは「少なくとも四〇〇万人」と語る。

私の親しかったカンボジア人の大半は殺された。七五年四月以降にカンボジアに残留した日本女性(カンボジア人の妻)七人のうち、ポル・ポト政権崩壊後に祖国に生還したのは二人だけ(うち一人は帰国後に病死)で、その二人の場合も夫は非命に斃れている。そして日本マスコミ各社の現地人従業員の運命は、…。」

「ハイン・ゴルの本業は医師である。…。ハイン・ゴルの師で、日本に留学したことのあるミー・サムディ医博は辛うじて生きのび、ヘン・サムリン政権の厚生次官、彼自身の再建したプノンペン大学の医学部長、さらに赤十字事務総長という要職にある。彼は弟子の出演した映画のビデオをすでに入手していて、この四月に彼の教室を訪れた私に、ぜひ観るようにと勧めた。あれは不十分ながら事実を伝えていますよ、と。

これは在日カンボジア人大多数の声でもある。日本のある種の政治勢力の指導でポル・ポト派を支援してきた十数人の元留学生を除けば、約八〇〇人の在日カンボジア人はほぼ例外なくこの映画を観たがり、現に少なくとも五〇人は観た。その半数余りは、家族の全部または一部を殺されたサハコー生活の体験者(難民)だ。彼らは私に、あれは本当にあったことです、ディト・ブランは私たちの分身です、と口々に語った。

「彼ら体験者は、サムディ医博と同様に、この映画がポ政権下の故国のすさまじい殺戮と文明破壊を、きわめて不十分にしか伝えていない、とつけ加える。せいぜい二〇〜三〇%しか、と。私が多くの生存者から聞いたサハコー生活の実態は、確かに画面のそれの何倍もの恐怖と苦痛を感じさせる。もう一つ、この映画の欠陥をあげれば、それは赤色クメールとはそもそも何か、かくも異常な集団がなぜカンボジアに限って権力を握ったのかという、いわば背景説明が全く省かれていることだろう。そのために出来のいい反共エンターテインメントと受け取られる恐れがなきにしも非ずだし、ポ政権の出現を決定的に助けた巨大な外部要因が見失われることにもなる。巨大な外部要因とは中国共産党文革派だ。FUNK内部ですら少数派だった赤色クメールが、一般民衆の目に触れない形で権力を握ったという奇怪なプロセスと権力掌握後の異様な内外政策は、カンボジア戦争以前からこの集団の唯一のパトロンだった中共文革派の全面的な支援と指導を抜きにしては説明し難いのだが、映画は──原作も──この重大な事実に触れていない。

とはいえそれらは、まあ瑕瑾(かきん)というべきものだろう。日本では、この種の映画は一度も制作されず、制作が企画されもしなかった。米国でそれが可能だった、というところに、私は情報システムを含む米国の文化構造のすこやかな一面を見る。思えば、米国で──ヨーロッバでも──権威あるマスメディアがこぞってポ政権下の大虐殺を報じ、大統領カーターが同政権を「現代最悪の非人道政権」とののしり、有力上院議員がカンボジア民衆救済の国際義勇軍編成を提唱していた七〇年代後半に、わが国では政党もマスコミもおおむねそういう情報に耳をふさぎ、政府は死都ブノンペンヘの大使派遣にすら熱心だったのである。中央各紙の映画評は、あの大虐殺をポ政権下の「地獄の平和」によるものとは見ず、意味不明の「戦争」の産物のように誤解しているが、これも今に続く日本および日本人の、小国の問題を真剣に直視しないアモラルな態度と無縁ではあるまい。」

後日談


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最終更新日2000/04/11 (Y/M/D).