本多勝一研究会重要文献解題

山田寛

『記者が見たカンボジア現代史25年』

日中出版(1998年)

ISBN4-8175-1238-5

文責:山下真


解説

日中出版『記者が見たカンボジア現代史25年』(1998年)は実際にカンボジア報道に関わった記者が70年代以降の日本のカンボジア報道のあり方を批判的に回顧した著書として注目されます。著者の山田氏は、現在読売新聞社調査研究本部主任研究員で、同時に東京情報大学非常勤講師を兼務しておられます。

同書より1975〜78年の日本人記者のカンボジア記事について批判的に言及した下りがありますので御紹介しておきます。(第二章「われわれは虐殺を報道したか」よりP49〜65)

当サイトで批判的に紹介されている馬淵直城、和田俊記事についての言及が見られます。一方本多記者の記事については1977年以後の記事について高く評価しています。ただしこの記述中「当時ベトナムは、友好的で信頼できると判断した記者だけを入国させていた」との記述については、あくまでも山田氏の個人的判断とすべきでしょう【註1】。

【註1】この評について、2000年5月23日づけで著者・山田寛氏より次のようなコメントを頂戴しております。

「山下さんの文章で、「当時ベトナムは、友好的で信頼できると判断した記者だけを入国させていた」との記述はあくまでも山田氏の個人的判断とすべきでしょう、とあるところには、私としては、「個人的判断ではなく、多くの記者がベトナムに行きたくてハノイに申請してもなしのつぶてだった。当時のベトナムはそうだった」と反論する以外ありません。」

以下は、本稿文責者・山下真から山田氏へのお答え(2000年5月25日づけで山田氏に伝達)です。

「「当時のベトナムへの入国」につきましてややおせっかいな付言を付けさせていただきまして失礼しました。さまざまな立場から当時の報道に関わった方がいらっしゃいますし,それぞれ皆さん私は中立的な立場からアプローチしていると発言されます,この点直接関係者でない私には判断がつきかねます。各ジャーナリストの発言に対しできるだけ中立的でありたいとの考えからの判断留保でごさいます。あしからず御了承ください。」

ここに注目!

日本のマスコミ関係者が「同業他社」の記事についてこれだけ具体的に記事名を上げて批判に及ぶのはめずらしいと思います。これだけはっきり馬淵、和田記事の批判に及んだ山田氏は、では本多記者の75年の記事について、またその後の同記事の取り扱いについてどのように判断されるのか興味あるところです。

読みどころ

赤字による強調は引用者による)

第2章「われわれは虐殺を報道したか」より

報道を検証する

ポル・ポト政権(民主カンボジア)。七五年四月十七日にプノンペンに入城してから七九年一月七日ベトナム軍によって首都から駆逐されるまで、三年九か月のポル・ポト時代に、どれだけの数の国民が虐殺され、または栄養失調や苛酷な強制労働やひどい医療など(広義の虐殺)のために死んでいったか。これまでさまざまな推計数字が上げられた中で、百万人ぐらいという見方が一番多かったが、最近はむしろ二百万人のラインの方に近づいている。米エール大学のベン・キアナン准教授は、九六年の著書の中で約百六十七万人(当時の全人口の二一パーセント)と推計している(注2)。エール大学は、米国務省の委託を受けて、カンボジア大量虐殺調査を進めており、キアナン准教授はその調査プロジェクトの責任者。プノンペン市内ツールスレンにあったポル一ポト政権の「S21尋問センター」に残されていた四千に上る囚人供述文書の分析や、カンボジア難民初めさまざまな関係者の証言集めなどを行ってきた。S21はポル・ポト政権の象徴とも言うべき拷問・処刑場で、約二万人もの男女、子供が殺された。囚人たちは拷問を受けながら供述文書を書き、そして処刑された。

ポル・ポト派指導部自身、政権の座についていた間には虐殺をほぼ全面否定し、八〇年代初めには「いくらかの誤りを犯したが、そのための死者は数千人」と主張していた。しかし九七年十月に、クメール・ルージュ残存勢力の指導者タ・モク(元総参謀長)は、すべてをポル・ポト個人の責任に押し付けながらも、死者が数十万人に上ったことを認めた。全人口に対する犠牲者の比率から行けば、たしかに一九三〇年代のスターリンの恐怖政治も、ヒトラーのホロコーストもしのぐ。ポル・ポト革命は、農民大革命とか新案産主義とか形容もされたが、歴史に残るキーワードは「大量虐殺政権」だけだろう。そうした、ポル・ポト政権の最大のポイントについて、当時の私たちはどんな報道、それも調査報道をしただろうか。

米国のニューズウィーク、タイム、ニューヨークタイムズ、ボルチモア・サン、フランスのルモンドといった有力誌紙は、プノンペン「解放」直後もだが、虐殺が加速しだした七六年前半ごろから、折にふれ虐殺告発報道を行っている。鎖国状態の国だから、何よりも脱出してくる難民が主な情報源だ。中でも七七年初め、カンボジアに長年在住したフランス人神父、フランソワ・ポンショーが、数百人もの難民の証言と民主カンプチア放送の内容とをくわしく分析して、『カンボジア0年』という本を出版し、恐怖のポル・ポト革命の実態を鋭く追及し、国際的な波紋を広げた。

この本を土台にして、フランスきってのインドシナ通、評論家のジャン・ラクチュールが、「史上かつてない残忍な革命」が「自己大量虐殺(オート・ジェノサイド)」を行っていると、新語まで作って非難し、話題を呼んだ。そうした言論に乗って、カーター米大統領がポル・ポト政権を「現在の世界で最悪の人権侵犯者」と非難する異例の声明を出したり、米、英、カナダなどの政府がそれぞれ、カンボジアの暗黒ぶりについての報告書をまとめたりした。かつて米軍のベトナム介入に強く反対し、七二年の米大統領選に反戦候補として出馬したマクガバン上院議員は、「狂信的でビトラーよりひどい」として、国際軍のカンボジアヘの派遣を議会で提唱した。ラクチュールやマクガバン上院議員のように民族解放闘争を支持した進歩派も、あまりにひどい虐殺情報に接して、口を極めて「解放政権」を糾弾し、あるいは宗旨がえして軍事介入を唱えた。そこには率直な決断があった。

では、日本の報道はどうだったか。その一端を知るため、七五年五月から七八年十二月までの朝日、毎日、読売、日経、赤旗の五紙のカンボジア国内社会情勢分析記事について、かなり主観的に分類をした表を作ってみた。【引用者註:雑誌メディア等はこの表に含まれていまえせん。】赤旗は日本共産党の機関紙だから一般紙と立場が違うが、この新聞は七九年一月のポル・ポト政権打倒以後は、ポル・ポト政権による虐殺、人権抑圧批判キャンペーンの日本チャンピオンともなったので、ここに含めた。AとBは、あくまで中心テーマとして(広義の)大量虐殺が行われていることを訴えているもので、少なくとも外報面のトップかいわゆる「左肩」以上の大きく、長い記事を指す。AからDまでは程度の差はあれ、ともかくポル・ポト政権に対する検察側、FとGは弁護側に立つ記事だ。ただし、Fは虐殺についてはどうとも言及していない記事である。もちろん大ざっぱな分類だが、分類の結果は次の通りとなった。

カンボジア国内情勢関連記事の分析(75年5月〜78年12月)

A

B

C

D

E

F

G

朝日

2

0

7

11

11

14

7

毎日

1

1

10

11

13

11

6

読賣

2

2

2

11

11

7

7

日経

0

0

1

5

4

6

0

赤旗

0

0

0

0

2

13

5

注:

A:大量虐殺や非人間的政策を告発する大きな記事。自社の記者による。

B:同。通信社電や外国報道の紹介

C:虐殺が行なわれていることを指摘、あるいは虐殺情報を認めたもの。自社の記者による。

D:同。通信社電や外国報道の紹介

E:特異な状況、非人間的な社会政策などにふれながら、虐殺に言及せず

F:特異な状況、社会政策に肯定的評価を下したり、政策、国づくりが軌道に乗り始めたなどと前向きに分析

G:虐殺情報に対し、懐疑的、否定的な内容をふくむもの。

(著者の主観的分類による。)

これはとても胸を張れるものではない。

まず、表のA、B欄の数字が少なすぎる。日本語というハンデを割り引いても、私の記憶する限り、この時期のポル・ポト政権虐殺関係記事で、外国のマスコミに転載された例はない。ましてや、ルモンド紙などのように外国(米国)議会の審議用資料になった例もなかった。それだけ、独自取材とか力のこもった調査報道が少なかった、ということである。それでも、とにかく自前の告発報道として、私は次の五つをAの範躊に入れた。

七八年三月と六月の朝日の本多勝一記者の原稿。ベトナムのカンボジア国境に飛び、脱出してきたカンボジア難民たちの証言を集めたものだ。次に七八年九月初め、読売の私が書いたタイ・カンボジア国境の難民収容所ルポ「粛清のカンボジアを逃れて」。さらに読売・小倉貞男記者のベトナム・カンボジア国境での難民取材記事「やっと死を免れた」。

そして毎日の古森義久・ワシントン特派員が、米、英、カナダ三政府のそれぞれのカンボジア国内情勢報告書を入手し、それをまとめて七八年十二月下旬に三回にわたって連載した記事である。だが、これらの記事も現れたのがいかんせん遅すぎる。もっともっと、七六、七七年の段階から欲しかった。

その点、この表とは別だが、産経の友田錫・パリ特派員が、七七年十一月下旬、難民となって辛うじて脱出した元カンボジア政府高官にインタビューし、その脱出行とポル・ポト政権統治の詳細な実態を八回にわたって連載した記事が光る。だがその割には、友田氏自身が認めているように、この記事は残念ながら当時の日本ではあまり反響を呼ばなかった。

本多、小倉両記者は、この後、ベトナムに支援されたヘン・サムリン政権時代となってから、それぞれカンボジア国内で綿密な現地調査を実施し、優れた労作を出版し、ポル・ポト政権下の虐殺を口をきわめて糾弾している。けれども両記者らの虐殺報道が動き出したのは、国境紛争が激化する中でカンボジアがベトナムと断交(七七年十二月三十一日発表)し、七八年に入ってベトナムがカンボジア非難を開始してから以後のことだった。ベトナムはそれまではポル・ポト政権について悪いことは全く言わなかった。ベトナム領を侵犯したカンボジア軍の蛮行は別として、カンボジア国内の虐殺を本格的に糾弾するようになったのは、七九年一月七日以後である。断交された後もしばらくは、関係修復の可能性になお期待をかけていたためか、カンボジア内政については慎重な言い回しの批判にとどまっていた。

当時ベトナムは、友好的で信頼できると判断した記者だけを入国させていた。朝日新聞記者ではなく、あくまで本多勝一記者が招かれていた。それだけに、ベトナムが事実に目をつぶっている間はベトナムの意に反する取材は困難だっただろう。だから、ベトナム側をベースとする記者の出足も遅れた訳だろう。

ベトナムに完全に歩調を合わせていた赤旗の場合は、さらに極端だった。赤旗は、七九年一月十日付の「国民が見放したポル・ポト政権、極端な人権抑圧政策」と題する記事を皮切りにポル・ポト内政批判ラッシュとなるが、それまでは虐殺の「キャ」の字も口にしていない。同紙ハノイ特派員による七七年四月十七日の「カンボジア解放二周年」のまとめ記事ではまだ、「カンボジア人民は甚大な戦争の被害の克服と国民生活の改善、外交関係拡大で、幾多の貴重な成果を上げました」と、あくまでポル・ポト革命礼賛だった。

もう一つ、いくら政党機関紙といってもこんなご都合主義は認められない、と思ったのは、七五年四月十四日付、即ちクメール・ルージュ軍によるプノンペン解放の直前に掲載されたインタビュー記事である。話し手は七一年にカンボジア領内で北ベトナム軍の捕虜となった鈴木利一さん。見出しは「私の見たカンボジア解放軍」。赤旗によれば、鈴木さんは「解放軍の勇敢さは、物の考え方、質の高さに裏打ちされていた」と賞賛している。

だが、彼は後に別の所では、それが(北)ベトナム軍だったことを明言しているのだ。赤旗としては、内戦たけなわの段階でベトナム軍がカンボジア領内を占拠していたことを書くのは差し障りがあるという配慮もあって、「カンボジア解放軍」に名義変更してしまったのだろう。そのため、皮肉なことに、後にさんざんこき下ろすことになるクメール・ルージュ軍の徳の高さ、規律正しさをPRする結果となってしまった。

ここでつけ加えて言うなら、ベトナムのカンボジア侵攻は当時のソ連圏を除いて国際的非難を浴びたが、後から振り返るとベトナムが侵攻しなかったら、あと何十万人のカンボジア国民が死んだかも分からない。ベトナム侵攻が引き起こした八〇年代の内戦の犠牲者の数を引き算しても、なお深刻なおつりがきたことだろう。それははっきり認めなければならない。しかし、私はこうも言いたい。

ベトナムのカンボジア国境の住民には本当にお気の毒だったが、ポル・ポト政権がベトナムと仲たがいしてくれてよかった。そうでなければ、ベトナムはカンボジア国内の虐殺にずーっと見ざる言わざるを通したのではないだろうか。だが、問題はベトナム・べースの取材だけではない。日本の新聞・テレビ全体の出足が鈍く、および腰だった。大量虐殺情報が外国のマスコミで広がり始めた七六年前半だったか、ある元プノンペン特派員が私にこう言った。「ああいう国が変わるにはね、あれぐらいの大手術が必要なんだよ」。

実際、戦乱でボロボロになった国土を再建し、国民の食糧を確保していくためには、全都市住民の下放のような強引な政策もある程度仕方がないというムードが一部にあった。革命ごっこではない、革命をやっているのだから……。また、先に述べたような民族解放闘争共感ムードが存続していたから、暗黒政治情報には戸惑いがあった。輝ける民族解放をはっきりしない虐殺報道なんかで傷つけたくない。ポル・ポト政権が中国の強力な支援を受け、カンボジア版文化大革命のようなことを進めているだけに、中国に対する心理的遠慮がブレーキになった人たちもいたようだ。表のFとGの合計が、A−Dの合計より多かったりほぼ肩を並べたり、というのは、やはり多すぎる。例えば、七五年五月十七日、朝日の元プノンペン特派員が書いている「プノンペン解放一か月」の記事。前の方の四分の三が都市から農村への下放政策を、革命政権の身になって分析し、説明したもの、後の四分の一は「大量処刑は疑問」として、処刑情報が具体性に欠けること、否定的な見方が多いことをもっぱら強調している。この人【引用者註:和田俊記者】はイデオロギー色の強い記者ではないのだが、なぜ情報が入り混じったこの段階で無理に軍配を一方の側にあげ、「疑問だ」と“断言”しなければならないのか。できたら疑問であって欲しいという願望が文面にあふれている。同じ日、毎日の解説も大量虐殺説の信懸性が「急速に薄れはじめている」と主張している。これについても同様のことが言える。

これより先の五月上旬、日本人ジャーナリストとしてただ一人「解放」後のプノンペンに留まっていたフリー・カメラマンの馬淵直城さんが他の外国人たちと一緒に国外退去させられてタイ・カンボジア国境に出てきた。その馬淵さんの目撃談を日本の各マスコミは大きく取り上げたが、読売などでは「大量処刑の話はウソです」と、一部の暗い噂を打ち消したと報じられている。ちなみに馬淵さんはその一年後にも、今度はタイ国境からカンボジア潜入取材を試みてクメール・ルージュ軍に拘留されたが、その時も解放されて出てきた際に、「カンボジアで大量虐殺が行われたという西側の報道を、クメール・ルージュの人たちは一笑に付した」と語っている。言ってみれば馬淵さんは日本の新聞で二回、虐殺報道にブレーキをかけている。そして、この後長く、ポル・ポト派の虐殺情報に否定的、懐疑的態度をとり続けた。彼は意図的に嘘を言う男ではない。だが、人一倍「カンボジアに惚れた男」だった。そんな彼の思い入れが、そこに強く出過ぎてしまったのだと思う。

いかにもナイーブにポル・ポト派の宣伝を受け止めている記事もある。七七年十一月の朝日新聞。ポル・ポト政権が初めて作った国勢要覧『民主カンプチアは前進する』の内容を紹介して、「この国勢要覧を読んでまず感じるのは、伝えられるような『暗さ』や『血なまぐささ』が見られないことだ」と書いている。国勢要覧というより当局の政治宣伝の文書の中に、「血なまぐささ」が出てくるわけがない。

ナイーブさと親中国イデオロギーがミックスされた代表は七八年十月二日の毎日の一、四面に大きく掲載された日本カンボジア友好協会訪問団副団長の坂本徳松・愛知大教授の手記だろう。親中国、親ポル・ポト政権のこの友好協会の代表団は、ポル・ポト時代になってこの国を訪問した最初の日本の民間代表団だったが、この手記はその帰国報告で、『カンボジアの真実』という題がついている。だが、残念ながらこれほど実情からほど遠い「真実」はなかった。「新しいカンボジア国歌は、アンコール時代よりさらに偉大な勝利をうたっている。その偉大さはアンコール時代が神々や王者の支配によるものとされたのに対していまは八百万の人民がこれを築いたことによるものであろう。いまの建設や食糧事情からいって、カンボジアが今後十年間に人口を一千五百万人ないしそれ以上にすることは困難ではない」「官吏や俸給生活者本位の日曜休日をやめて『十の日』には、みんなが平等に休むことになっている」「実験と試練の中で、国内的に民衆の不満が爆発することなく政権が安定し、治安と秩序がよく維持されているのは、何よりもコメの増産で生活の土台が確保されていることと、協同組合や工場などで先頭に立っている若い幹部の政治的自覚がきわめて高いことによるものであろう」などを初めとして、都市人口の激減、通貨廃止、電話廃止などの「実験と試練」について大弁論をふるっている。「通貨がないから、私欲が起こらないし、ヤミが横行することもない」といった具合だ。

鎖国状態の国を訪れた数少ない外国人の話を聞き、手記を乗せることはマスコミにとって絶対に欠かせない。しかし、これほどの応援団原稿は、別の角度の原稿を数日以内に続けて載せてバランスをとるなど、誤解を招かないよう配慮して載せる必要があろう。

このほかにも訪問した外国代表団や外交官の話、写真がいくつか報じられた。だが、問題はこうした代表団に対し、ポル・ポト政権が国の表面しか見せないことである。ないないづくしという表面は分かる。虐殺とか強制労働とかの暗い面は決して分からない。七八年九月の日経は、日本外交代表団の佐藤・駐中国大使の見聞談として、こう書いている。「夫婦の強制別居という話も聞いていったが、そうでもないようだという印象を受けた」「プノンペンは二十万人程度。経済再建のために、住民を農村や郊外の工場に分散させたためだ。夕方になると郊外の工場から市内のマイホームを目指す人々のトラックやバス、自転車が目立つ」。そうでもないようだとどうして言い切れるのか。それにマイホーム主義の労働者のほのぼのムードでは、虐殺のイメージからはほど遠い。訪問団の見聞きした話が、逆に間違った印象を与えてしまったのだ。

プノンペン「解放」五か月後の七五年九月、名目的な国家元首のシアヌーク殿下は、クメール・ルージュからOKを与えられて亡命先の北京からプノンペン入りした。シアヌーク殿下はいったん北京に戻り国連で演説したり北朝鮮その他を訪れたりした後、年末に再帰国し、ポル・ポト政権崩壊までプノンペンの王宮での〃幽閉生活〃を余儀なくされることになる。その間、殿下とともに一時帰国した側近約五十人が、フランスに亡命するという事件が起きた。同年十月中旬の朝日で前プノンペン特派員が書いている。「興味深いのは同じプノンペンの印象が、亡命組とシアヌーク殿下の表現では全く違うことだ。亡命組の打ち明け話では『住民は五万人で大部分は兵士であり、外出は制約され、通貨がなくて商店は全部閉鎖という〃死の町〃だ』という。一方シアヌーク殿下の公式発言では一時ほとんど無人だったが、今は技術者や公務員ら十万人が住み、古代ギリシャのスパルタのように静かで清潔な町になっている』という。この相違はそのまま、価値観の差を示しているといえよう。『静かで清潔な町』を『死の町』と見るものは、かつての活気あるプノンペンをあるべき姿と考えた。新政権の指導者からみれば、はじめから市民の資格はなかったのであろう」。そして、「いかなる窮乏生活にも耐えて独立国カンボジア建設という目標に突進しようとする指導者たちの禁欲的な姿勢」や「〃無為から勤勉へ〃の国民性改造」などを、肯定的に指摘している。この解説記事のニュアンスは、明らかに亡命組に厳しい。無為に慣れ、華美に憧れる亡命組はまあしようのない落ちこぼれで、むしろ切り捨てられるべき連中だという革命支援姿勢が伝わってくる。だが、「表現の違い」を言うなら、もう一つ別の視点も忘れてはならない。それは、亡命した側近たちは自由の身なのに対し、シアヌーク殿下の方はこれから厳しい革命家集団の中に飛び込んで行かなければならず、言いたいことも自由には言えない篭の鳥だということである。どちらが真実を語りやすいかは明らかなはずだ。

同じころ、香港の週刊誌「ファーイースタン・エコノミック・レビュー」は、亡命組の一人との会見記事を掲載している。それによると、その側近は、シアヌーク殿下に生命の危険さえあることをはっきりと示唆した。「殿下は最初のプノンペン入りを前に、北京で側近に向かい、『助けてくれた中国と周恩来首相の名誉のため自分を犠牲にして帰国する。君たちは一緒に帰国してもよいが、君たちの運命は私にも保証できない』ともらした。プノンペンに帰った時、殿下は宮殿の部屋で一人涙を流していた」と明かしたという。

難民への偏見

こうして後知恵で指摘して行くときりがないが、日本の虐殺報道が出遅れ、ポル・ポト革命の実態に鋭いメスを入れるのに手間取ったのには、民族解放バラ色ムードが続いたことを初めとして、いくつかの理由がある。だが、その中でも私は難民というものへの無理解と偏見が、その一大原因だったと言いたい。

だいたい、日本にとって難民とは無関係なもの、受け入れるべきものではなかった。ベトナムからのボートピープルを主体とするインドシナ難民に対しても直接的関心は薄く、定住受け入れ枠が一万人まで広げられ、日本政府が本腰を入れて取り組んだのはやっと八〇年代の半ば、中曽根内閣の時代になってからだった。七七年ごろの新聞には、日本に上陸するベトナム難民が、金のネックレスや指輪をしていたり、かなりの米ドルを持っているとか、要するに体制転換に不適応な中流階級以上の者が多いといった側面ばかり強調する記事も現れ、偏見を煽った。難民への偏見は、難民の言うことへの偏見につながった。

難民の話は誇張とあやふやのオンパレードといった受け止め方が強かった。そのころの日本のマスコミ報道の定形はこんな感じである。記事の一部で外国のマスコミで報道されている難民の虐殺証言のことにふれる。だが、なにしろ難民の話だから相当割り引かなければならない、という但し書きを必ず挿入する──。もちろん、難民の話(に限らず誰の話もだが)を一〇〇パーセント信用すべきでないことは明らかだ。できるだけ多くの難民の話を聞いてつき合わせ、ジグソーパズルを組み立てて行く必要はある。それはそれとして、特に情報の絶対量が少ないカンボジアの場合、難民の話はもっともっと重視されて然るべきだった。ポル・ポト時代を通じ、タイ・カンボジア国境での難民取材は日本のマスコミ全体として不十分だった。七六年から七七年にかけて、バンコク特派員はたしかに大忙しだった。タイの学生運動への流血の大弾圧(血の水曜日事件)、軍の相次ぐクーデターなど、混乱するタイ国内情勢の取材に追われた。カンボジアどころではなかった時期も少しあった。しかし、より大きな理由は、やはり難民の証言の驚くべき軽視にあったと思う。バンコクからタイ.カンボジア国境まで車で片道四時間をかけてはっきりしない話を聞きに行く費用対効果を考えて二の足を踏み続けたということだったろう。

けれども、所詮難民とは我慢ができずに逃げ出して来た者たちであり、脱出先で難民として受け入れてもらうことに懸命なあまり、これまでいた場所についてはあることないこと、悪い話を言い触らし、同情を買おうとする嘘つき連中さ、などと言う向きには、私は反対する。私自身の難民取材体験から言っても、決してそうは思えない。多くは恐怖の毎日から必死に逃げてきた難民。事実は小説より奇なりで、誇張する必要のない、すでに十分恐ろしい話ばかりなのだ。それに、ヘン・サムリン政権時代になって、カンボジア国内の村に行き、政府提供の通訳を介して村民の話を聞くのとくらべてどうだろうか。むしろ、難民の方が「こう言わなければ当局ににらまれる」といった配慮はしなくてすみ、より自由にしゃべれるとさえ言えそうだ。次に、難民の話の軽視と表裏一体かもしれないが、日本では、情報源について官尊民卑の傾向が、欧米よりも強い。官の発表、官からの情報だとまず信用する。相手がポル・ポト政権でもそうだった。だが、はっきり言ってポル・ポト政権ぐらい嘘を言い、秘密と虚偽の上に政権を維持しようとした政権もなかった。現在の北朝鮮に多少似ていると言えるかもしれない。北朝鮮は最高指導者の金正日・党総書記の出生地すら神話の世界の物語にしている。
ポル・ポトは、政権の途中まで自身を隠し、共産党の存在も隠し続けた。七七年九月にやっと党の存在を明らかにしたが、共産党の歴史も改ざんして一九五一年だった党の創立も、ベトナムやポル・ポト以前の人々とは無縁に六〇年に誕生したことにした。「解放」直後、「シアヌーク帰国を歓迎に行くため」などと称して旧ロン・ノル軍将兵を集めて虐殺したり、ベトナム軍との戦闘がうまく行かない責任を東部地域の幹部たちに押し付けて粛清する直前に、ポル・ポト自身が現地を訪問し、軍幹部たちの英雄的行動を賞賛して安心させたりした。虐殺はもちろん否定し、まず自分たちの側がベトナム領へ侵攻しながら、ベトナムの侵略を非難し続けた。また、自らの政権下で人口の九五パーセントの生活水準が中流農民レベルまで上昇したと主張した。後から見れば、みんな嘘の固まりだった。

外国人記者団をだました臨時革命政府代表団のボ・ドン・ジアン大佐どころの話ではなかったのだ。もちろん、ポル・ポト政権当局者の発言をできるだけ綿密にフォローし、紹介することは絶対必要だ。しかし、例えばイエン・サリ副首相などが国外の記者会見で、虐殺の有無について質問された場合の決まり文句があった。「国民の信頼を得ていなければ、あのよこしまで強力なベトナム軍とこのように戦っていられるわけがない」。これは回答になっているようでなっていない。こうした発言を垂れ流しで伝えるだけでなく、もっと分析、検証して行くべきだった。難民情報よりは、嘘の多い革命政権のこうした発言の方こそ、よほど割り引いて聞く態度が必要だった。さらにもう一つ言うなら、人権に対する日本の社会全体の取り組みの弱さである。日本全体としては、東西冷戦のチェス盤の上で経済発展を遂げ、共産主義の伸長を封じ込めようとする米国のゲームの重要なコマになっていた。だが、人権外交などという言葉は、日本にとってまだまだ別世界の外国語に過ぎなかった。だからポル・ポト政権による究極の人権侵害に対しても、反応は相対的に遅かったのである。


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最終更新日2000/05/26 (Y/M/D).