論考集4

有名「進歩」派ジャーナリストの差別言辞について


以下は、次のAML投稿に加筆したものです。投稿にあたっては山下真氏のお世話になりました。


山下さん、解説・情報ありがとうございました。

おかげで本多勝一さんの以下の著作の原文を確認することができました。

その「現実の被害者として」の一節

「問題は、誤りを犯したこと自体よりも、その後の対応にある。詳細はいずれ発表するが、こうした手合いは、講談社の飼い主にカネで雇われた番犬・狂犬の類であって、よく卑しい職業の例にあげられる売春婦よりも本質的に下等な、人類最低の、真の意味で卑しい職業の連中である。」(赤字による強調は引用者;太字による強調は原文、以下同様)

という本多勝一さんの罵倒文句(まぁ、いつもの調子ですが)のうち、

「売春婦よりも本質的に下等」

という部分に私は特にひっかかりました。

“売春婦とくらべられては岩瀬氏がかわいそう”と思ったからでは全くありません。むしろ性的産業に従事する女性に対する偏見・差別意識を露骨に公共の場で出す本多さんの姿勢が我慢ならないのです。これは女性の人格を冒涜する発言ではないでしょうか。【実際は男性が「売る」立場で売春をする場合もあるのですが、一々「女性または男性」と書くと繁雑で読みづらくなるのでここでは「女性」で代表することにします--この表記も「差別」か?】このように書くところをみると、本多さんは自分が確実に“売春婦より上等”だと思っているのでしょうが、朝日新聞の編集委員や雑誌発行会社の社長が売春婦より「本質的に」(法的にではなく)上等だと何を基準にして決められるのでしょうかね。

したがって、山下さんに教えていただいた本橋道宏氏の次の批判(『宝島』97年11月26日号のコラム)は誠に的を得たものといわねばなりません。

「週刊金曜日(10月3日号)である雑誌から自分が報道被害にあったと認識した本多勝一が,その雑誌の編集長と記者を『卑しい職業の例にあげられる売春婦よりも本質的に下等な,人類最低の,真の意味で卑しい職業の連中である』と書いている。本多はどうして『売春婦』の代わりに『福祉を食い物にする前厚生事務次官』とか『企業を食いつぶす総会屋』と書けなかったのだろう。……本多勝一のような人物こそ差別を助長するのである」

もっとも、本多さんの文章には

「《よく卑しい職業の例にあげられる》売春婦」

という名詞修飾節があって、

「オレが“売春婦は卑しい職業だ”と言っているのではない。世間がそう言っているのだ。」

と逃げがうてるようになっていますが、こんなのは何の言い訳にもなりません。本多さんがもし心底そういう偏見に反対しているのならこんな言い回しをこの文脈で無批判に持ち出すはずはない。

「売春婦=卑しい」

というマイナス評価を本多さん自身が当然視しているからこそ、「敵」である岩瀬達哉氏や鈴木哲氏(講談社"Views"編集長)を攻撃する文脈でそれを引き合いに出しながら“それよりもさらに卑しい…”という発言が出てくるわけです。恐ろしいことには、こういう差別的な表現というのは読者が何度も耳目にしているうちにだんだん自然に感じられてきて、自分で使うことに抵抗感が薄れてくる。つまり、マスコミ人が公開の場でこんな表現を無批判に使うたびにその普及に一役買っているわけです。

他の箇所では、本多さんはもっとスゴい表現を使っています。

「50万の米兵の“性的共同便所”にさせられているサイゴンその他政府側支配地区のベトナム女性…」

(朝日文庫『事実とは何か』第11刷「ルポタージュの条件」24ページ--初出は『新聞労連』1968年5月30日付)

“もう少しことばを選んでかいたらどうなのか”と首をかしげさせられます。本多さんにいわせれば「“性的共同便所”は駐留米軍の傍若無人ぶりと南ベトナム(当時)の植民地的状況を強調するために選んだ表現だ。」ということなのでしょうが、まともな常識と感性のある人間ならこれが米軍や南ベトナム政府よりも当のベトナム女性の名誉をより深く傷つけることばだということは一目瞭然です。「共同便所」とことさらに不潔感をあおるような表現には、女性の人格に対する顧慮は微塵も見られません。こういう表現が本多さんの著作の中で頻繁に使われているのを見ると、ひょっとしたら本多さんは御自分の隠れた猟奇趣味をこのような形で密かに満足させておられるのではあるまいか、などと勘繰りたくなってしまいます。しかも、この記事が最初発表されたのがこういうメディアの言論暴力に目を光らせるべき新聞労連の公式刊行物となると、ますます情けなくなります。

(余談ながら、1995年になって社会主義政権下のサイゴンを再訪した本多さんはそこでもやはり客引きをするその筋の女性につきまとわれたそうです(朝日新聞社『貧困なる精神L集』収録「仰天サイゴン」---初出は『金曜日』1995年9月1日号)。そうなると、本多さんいうところの“性的共同便所”は米軍が去ってから20年余たった今もなお健在ということになりますが、それはまぁベトナムの「内政問題」だからいいとしましょうか。)

そうそう、こういうのもあった。

「【プノンペン在住のカンボジア人の】多くは、女中だの下男だのといったいわゆる下働きを、それも主として外国人の下働きをつとめるにすぎない存在であった。でなければ売春婦やポン引きのような賎業である。つまり大ざっぱにいえば、プノンペンの町は外国人およびその“下僕”としての国辱的カンボジア人からなっていたと極論することもできた。このあたりの事情は、サイゴンやバンコックとは比較にならぬほど、プノンペンは異様な都市だったといえよう。」

(『潮』1975年10月号「カンボジア革命の一側面」277ページ)

「合州国の退廃文化(帝国主義文化)でダラクさせられた都市の人々…」

(『潮』1975年7月号「欧米人記者のアジアを見る眼」、325ページ)

「このような特殊都市に住むカンボジア人は、例外的な金持ちと特権階級にすぎない。サイゴンやハノイとは本質的に異った性格の都市なのだ。東京や大阪の中心部が、外国人の金持ちだけで占められ、日本人は例外的成金と、外国人のもとで女中や門番として使われる者だけ、といった都市だったら、どういうことになるだろう。こんな危険な都市は、反革命の拠点にいつなるかわからない。」

(『潮』1975年7月号「欧米人記者のアジアを見る眼」、325ページ)

これは、酷熱の炎天下に傷病者や老人、乳幼児まで含むプノンペン全住民を即刻徒歩で長路強制疎開させ、その途上で死者を多数出すという文字どおり「異様な」かつ非人道的な政策に対して

「それなりのカンボジア革命路線があったのであろう」(『潮』1975年10月号「カンボジア革命の一側面」278ページ)

「自然のままの、まずしくとも平和な生活を自主路線として求め」(同上、285ページ)

「近代文明の悪を見抜いたインテリの哲学を実践」(同上、285ページ)

「搾取のない農村経済のもと、みんなが正しい意味で働きながら、まず自給を確立することから自立しようと考えたとしても、まことに自然なことではないか。」

(『潮』1975年7月号「欧米人記者のアジアを見る眼」、325ページ)

などと苦しい弁護をするための材料として、プノンペン市民をできる限り腐敗堕落した「賎業」や「下僕」の集まりであるかのごとく描く必要があったからでしょう。(そう書いている新聞記者はどれほどの「貴業」なのか?)

その一方では、クメール=ルージュの大幹部のキュー=サムファン(かつてはシアヌーク政府の閣僚だった)を「カンボジア革命の一側面」で

「パリで教育を受けたインテリ」

「きわだって質素な生活」

「他の閣僚たちが夜はネオンのちまたに行くのを日課としていたころ、彼はおそくまで仕事をして、母のいる家に帰るだけだった」

(いずれも『潮』1975年10月号「カンボジア革命の一側面」285ページ)

などとヨイショし、さらには

「米軍は実はプノンペンを爆撃したかったのではないのか。カラッポにされてその意図を果せなかったのではないのか。そうであれば「大脱出」はまことに賢明な戦略でもあったことになり、多数の市民を米軍爆撃による虐殺から救ったことになる。」

(『潮』1975年7月号「欧米人記者のアジアを見る眼」、326ページ)

とまで何の具体的根拠もないまま滅茶苦茶な「論理」を振り回して絶賛しているのだから“どこが「殺される側にたつ」なのか?!”と首をかしげたくなります。そして、「カンボジアの解放勢力つまり本当にクメール人民から成る新政権」すなわちポル=ポト虐殺政権の政策に疑問をさしはさむ者は、本多さんから次のような罵倒を浴びせられることになります。

「欧米人(白人)のジャーナリストは、完全解放後のカンボジアをどうみたか。その典型は、たぶん『ニューヨーク・タイムズ』特派員シドニー・シャンバーグ記者【引用者注:映画『キリングフィールド』の(副)主人公】のルポ(『朝日新聞』五月一二日朝刊)にみられる。一言でいえば、これはかれら欧米人記者の眼による救い難い偏見で充満していて、アジア人の生活も心も全く理解できない欧米人記者による不幸な記事といえよう。」

(『潮』1975年7月号「欧米人記者のアジアを見る眼」、325ページ)

「「追い出され」といった表現の問題には、一応ふれないでおこう。しかしこの文章は、事実として噴飯ものだ。「高齢者」と「小さな子ども」と「病人」と「けが人」だけプノンペンに残して、あとみんなが「大脱出」したらどうなるのか。」

(同上、325ページ)

「いったいカンボジアの解放勢力つまり本当にクメール人民から成る新政権が何を考えているのか、かれは本気で考えようとしたことがあるのか。」

(同上、325ページ)

「全体を通じてこの記者は、プノンペンの市民を農村へ分散させることを、頭から「悪」と信じて疑わぬ(私たち日本人も、戦争中はこの記者の国のB29による都市爆撃によって、農山村へ部会からの「大脱出」が強いられたものだ)。」

(同上、325ページ)

「つまりこの記者は、現実に虐殺など見たこともないし、解放軍の「報復はしない」という言葉を直接きいているにもかかわらず、どうしても虐殺があったことにしたいのだ。実はこれは「合州国ならばそれが当然のハズだ」と告白しているようなものである。」

(同上、326ページ)

「「アジアの平和」は、どんな人間的なものであっても、無知な欧米人記者の目には「野蛮」としか見えないのである。私にとってカンボジアの農村は、ぜひ訪ねて報道したいところのひとつとなった。」

(同上、326ページ)

よく似た話を思い出しますね。そう、強姦犯人を弁護する側に回った「訴訟に勝つためには何でもする」という弁護士が、いよいよ弁護のタネに窮した挙句、被害女性の平素の男関係から被害当日の衣服や言動までを針小棒大にいいたててあたかもモラルのかけらもない人間であるかのようにレッテル貼りし、“被害にあったのは自業自得だ”といわんばかりの逆立ちした弁論を繰り広げる常套戦術。みかねて被害者の側にたつ証言をする者が現われようものなら、今度はその証人にまで人格攻撃を加える。加害者(「殺す側、抑圧する側」)を擁護するために被害者(「殺される側、抑圧される側」)にさらなる侮辱を浴びせるというもっとも低劣なやり口です。

今のところ日本では、性的産業に従事する女性が大同団結してジャーナリストの差別表現を糾弾することなど考えられない情勢ですから、本多さんも安心して「売春婦よりも…」だの「性的共同便所」だの「賎業」だのと書けるのでしょうが、マスコミ人がこういう表現を多用して“風俗産業関連の女性は「本質的に」下等で、賎しい”という偏見を助長すると、そういう女性が他の職業に移った時にも前歴によって差別されるという状況を作り出してしまうのではないでしょうか。(本人が「あのころのことは他人にいいたくない」と考えるのはそれこそ本人の自由ですが、それを強要するような社会を作ることが望ましいとは思えません。)風俗産業の女性が客から暴行を受けたりする事件が起きるのも、一つにはそういう業界の女性が人格的に劣っているという偏見に由来するもので、本多さんの「売春婦よりも本質的に下等」などの表現もそういう偏見を助長するものだと思うのですがね。どの業界であれ、アホもいれば利口な人もいる、下劣なやつもいれば立派な人もいるというのがあたりまえじゃありませんか、まぁ、泥棒や強盗は別としてですが。

もちろん、“いかに差別廃止を謳ったところで売春という制度がある限り女性が搾取されその尊厳が傷つけられるのは不可避である”という立場から、売春制度そのものに反対し、あるいは売春を非合法化すべきだという考え方があることも事実です。(日本の売春防止法も然り。)そして“売春廃絶の実をあげるためには強制力が必要である”という見地から、売春に携わる女性自身を処罰する法制を支持する論があります。その論の妥当性や実効性に関しては諸々の議論がありますが、立法論・政策論においてどのような立場にたつにせよ、その根幹には当の女性の人権と尊厳を護るという大原則がなければならないことはいうまでもありません。

それをふみはずして差別を煽る件の本多発言は、ふだん進歩派ぶった姿勢をとっている方だけに余計に社会的な影響力が無視できず、ここで問題にせざるをえません。本多さんは「梅里雪山へ若者たちはなぜ?」(朝日新聞社『貧困なる精神L集』収録)の中で、高校生時代に自分に憧れてルポライターを目指したがゆえに京都大学へ進んだというある男子学生について記していますが、そういう高校生達が本多さんの文体に影響されて生身の女性のことを「性的便所」などと書くようになったら本多さんは御満足でしょうか?

次の箇所も同工異曲です。

「考えてみれば、この戦争推進会社の出している芥川賞・直木賞・菊池寛賞・大宅壮一賞その他の八百長賞が、モノカキという職業の人々を売春(原文では「夫」に傍点)へと堕落させるのにどれほど大きな役割を果たしてきたことだろう。私が(ニューギニアへ行っている留守中に)受賞させられたこの菊池寛賞にしても、思えば菊池寛そのものが戦争中に次のような役割を担っていたのだ--。」

(朝日文庫『職業としてのジャーナリスト』収録「菊池寛賞をあらためて拒否しなおす」305ページ--初出は『潮』1983年11月号)

「こんな賞(ショー)を拒否する小さな勇気さえ持てぬ男など、今後絶対に知識人のうちに数えることはしまい。良い場合で「文学タレント」、悪ければ「文学売春(原文では「夫」に傍点)にすぎないということだ。」

(同上、306ページ)

こうやってみてくると、本多さんは1970年代以来、表層のレベルでは確かに「クメール=ルージュ絶賛」から「反クメール=ルージュ」へと大逆転しましたが、その基底にある特異な修辞法・論理展開(もしこれを「論理」とよぶならば)は歳月を越えて見事なまでに一貫しているといわねばなりません。

ここで文春支持の側からそういう本多流論理と修辞の差別性に対する批判が出ていれば“文春の人権感覚もなかなか鋭い”とほめてあげるところなのですが、残念ながらそういう指摘があったということは耳にしません。さては「文春派文化人」や同編集部はこういう問題に(本多さんと同じぐらい)鈍感とみえます。


総合研究室へ戻る
ホームページへ戻る


最終更新日 1999/11/01 (Y/M/D).