1977年の後半にいたってカンボジア・ベトナム間の国境紛争が表沙汰になり、両国が非難合戦をはじめた。すると本多勝一記者がやにわに口を開き、両国の紛争は最近はじまったものではないといいだした。さらには、1975年の「欧米人記者のアジアを見る眼」や「カンボジア革命の一側面」で大虐殺説を一蹴していたのから一転、やにわにカンボジアで恐怖政治が行なわれているという情報をも公にした。
ベトナムが国境紛争を表沙汰にしたとたんに、「ボク、そんなのとっくに知ってたモン!」と言い出す調子のよさ!
(赤字による強調は引用者による;引用は『貧困なる精神第7集』第4刷1985年9月15日発行145〜146ページより)
「カンボジアとベトナムの国境付近での紛争が表面化したようだ。」
「紛争にしても、なにも最近はじまったわけではなく、実は2年前のサイゴン陥落の直後にはすでに火花を散らしていたのだ。あの全土解放の2ヵ月後に筆者がサイゴンへ行ったときのある日、ベトナム人の一友人の家を訪ねると、そこに遊びに来ていた人民軍の一兵士が、突然召集を受けてカンボジア国境へ行った。カンボジア軍と交戦中だというのである。」
「今春またサイゴンを訪ねたとき、カンボジアから逃げてきた華僑やベトナム人の話として、「逃亡が見つかってつかまると、ガソリンをかけて焼き殺される」といううわさをきいた。ベトナムの要人の言葉の端々にも、カンボジアとはあまりうまくいっていない様子がにじみ出ていた。」
最終更新日1999/11/01 (Y/M/D).